私は誰よりも、空虚な人間です。
昔から、私の取り柄は、優しいそれ一辺倒だったと思います。どこにいっても、二言目には、
「Aくんは優しいねぇ」
と、言われたものです。
私も、自分の優しさというものにはとても誇りをもっていたし、誰よりも自分自身が、私は優しい人間なのだと、信じて疑いませんでした。
しかし、いつからでしょうか。日々生活を送っていく中で、私の最も誇るべき性質である優しさというものが、いつしか足かせとなっていったのは。
私は、勉強が得意ではありません。中学時代、後ろから片手で数えられる順位にいました。高校の偏差値も四十以下のところで、大学も入るまでに四年の歳月を要しました。スポーツもダメです。中学、高校、大学と運動部に所属しましたが、どこへ行っても下手くその烙印を押され続けました。それでもなぜ続けたかと言われれば、世の中続けることが美とされているからです。それくらい、私は社会的慣習にとらわれていました。その上、生まれてこのかた肥満を脱却したことがなく、容姿も物心ついたころから母にすら、
「なんであんたはそんなダサいの。せめてブサイクは努力をしておしゃれにならないと」
と言われて育ってきました。そのため、自分は最底辺の容姿であると自身に言い聞かせ、とても自信を持てるような環境ではありませんでした。もちろん、恋愛経験など、あるはずもありません。
勘違いしないでほしいのが、私は母をとても大事に思っています。ここでは詳しいことは割愛しますが、私と弟を育てるために、とても苦労してきた人です。だから、母は昔受けた屈辱を、私たち子供に晴らさせようとしていたのかもしれません。否定はしません。何を隠そう私自身も、できないことを恥じ、過去を呪い、なんとか見返してやろうという気持ちを持って今まで生きてきたからです。
私の受けてきた屈辱とは、やはり何事においても人よりできないことです。だから、人の上に立つことでなんとか心の平生を保とうとしてきました。何か自分でも打ち込めるくらいの趣味でもあれば、人と比較せずともよかったのかもしれませんが、あいにく私にはそのようなものはもちあわせていないのです。
そのような私ですから、いじめの標的にもなりました。小学校低学年の時に、家の都合でとある村に引っ越しをしました。そこは、店らしい店はなく、車がないと生活できないようなところでした。近くに同級生はおらず、遊ぶ相手と言えば近くに住む上級生だったのですが、この人たちには侮辱や無視といったようなことを、日常で受けていました。しかし私は、この人たちから距離を置くことはありませんでした。孤独になって周りから可哀そうな目で見られることを恐れたからです。私は、このように、周りの目を過剰に気にする性格だったのです。今現在でもその傾向は多分にあり、それが生きづらさを感じる要因のひとつなのかもしれません。
このような理由から、私は、自然と人と関わることを避けるようになりました。
しかし、孤独への恐れは拭い去ることが出来ず、選んだ答えがひょうきん者を演じることでした。進んで面白がられることをして、なんとか居場所を作ろうとしたのです。
このような、嫌われたくないという精神は、親にも向けられました。自分の意見を言うと、見捨てられるのではないかという不安から、親の言うことは何でも聞いてきたし、言ってほしいこと、やってほしいことをくみ取り、その通りに発言・行動することを心がけました。
これが、私が優しいと言われる要因であると思います。学校も、職業も、全て親の期待に応えようと選択してきました。もちろん、全て思い通りになったわけではありません。ただひとつ言えることは、そこに自分はないということです。
大学に入学してから、私は読書を始めました。なんとかこの生き苦しさを取り除きたいという思いから、自然と本に手が伸びていったのです。そこで読んだ本の一つに、太宰治の『人間失格』という作品があります。これには、衝撃を受けました。主人公の葉蔵は世の中や人間への恐怖から、自らひょうきん者を演じて、自分が感じていることを隠そうとするのです。自分の感じていることはマイノリティであり、決してマジョリティではない。この考えと行動に、私はとても共感を受けました。それ以来、読書が私の趣味となりました。
自己発見です。今まで、自分が感じていることは恥ずべきことだと思い、自分の感情に蓋をして、自身にすら嘘をついて生きてきました。しかし読書が、ほんの少しではありますが、私を肯定してくれたような気がして、自分の色というものを感じさせるきっかけになってくれたのでないかと思います。
現在、専門学校に通っています。父が自営で仕事をしているため、そこを継ぎなさいという母の意向から、その関連で通っています。しかし、そこの勉強は、あまり興味を持つことが出来ません。元来、あまり勉強ができるわけでもなし、そこに喜びを見出すことができないのです。そんな状況だと、勉強する動機が、「みなに嫌われたくない」だの「馬鹿にされたくない」というような消極的なものになります。
しかし、興味を持てないというのは甘えなのではないか。世界には、勉強がしたくてもできない、その日食べるものにすら困っている人たちがいます。そのような人たちに比べれば、私の苦しみなど、恵まれた苦しみなのです。だから、不平など言ってはいけない。勉強して、帰る家があり、その日食べるに困らず、暖かい布団で寝られる。これはとても幸せなことなのです。不満など持ってはいけないのだと思います。ここまで何不自由なく育ててくれた両親になど、なおさらのことです。しかし、自分の感情を押さえつければつけるほど、両親への疑問があふれだしそうになるのです。
私は良い子・・・私は良い子・・・、悪く思われたくない、恵まれていると思われたくない、みんなと同じがいい、みんなより優れたものを持ちたい。そんな自分の中の相反する感情たちにそっぽを向き、自分は幸せだと言い聞かせました。
それでも、私は自分の人生を歩みだせずにいました。やはり、ここまで育ててくれた両親を裏切ることはできず、親の期待に応えたいと思っていました。その感情も、決してウソではありません。しかし、それは建前なのではないか、根本は、人に決めてもらうのは楽だから、自分の人生に責任を取らなくても良いからなのではないか?
自分で自分が、わからなくなってきました。
通っている専門学校では、自らの決断で入学してきた人たちばかりです。そこに熱意や積極性に開きが出てくるのは、当然と言えば当然なのかもしれません。そんな状況でも、私は親のせいにしています。なぜもっと賢く産んでくれなかったのか、なぜもっと生きやすくなるように育ててくれなかったのかと。
母に相談しても、「勉強は辛いもの。働き始めたら興味が出てくる」とい 言います。確かにその通りなのかもしれません。しかし、現段階でも、学校では、皆意欲的に活動しています。
私は、嫌われたくない一心で、興味のあるふりをします。休日に本を読みたくても、誘われればふたつ返事で学外活動に出かけます。できるだけ、自分の心の内をさとられないように。
そんなある日、加藤諦三さんという人の本を読みました。この人は早稲田大学の名誉教授で、社会心理学者です。加藤さんも昔、高圧的な父の元で育ち、生きづらさを感じていたそうです。今は、生きづらさを克服し、その経緯を本に書いています。
加藤さんの本を読んでいると、まるで自分のことを書いているような気がしてきます。それくらい、書かれていることに共感しました。そして、加藤さんの本を読み進めて行くうちに、恐れず自分の感情と向き合う大切さを知りました。
私は、人に認められたかったのです。だから、人より優れた人になろうとしました。そうすれば、みな私に一目を置き、生きやすくなると思っていたのです。しかし、それは自己破壊的行動です。人には人の器があります。私は、人の上に立つような人間ではありません。自分の器を認められずに、自分の理想像に寄りかかっているだけです。それでは、前に進むことができません。
私は、自分の好き嫌いもよくわかっていません。何に興味があるのかもわからないし、急に意欲的な人間に変わることもありません。しかし、読書をして知識は得ました。自分の知らないことを知って、違う視点で物事を観ることができるようになりました。
別に、だからと言って、生きづらさが急に消えることはありません。最近は、苦しみを全て取り除くことはできないなと思うようになりました。苦しみと共に生きていくことが、人生なのではないかと思うようになりました。
人には、ひとりひとりの苦しみがあります。それを知れただけでも、今までとは違う優しさを、人に向けることができるのかなと思います。まずは、恐れずに、自分の本来の感情を見つめることが、今抱える生きづらさを少しでも和らげる方法だと思いました。
私もまだ模索中です。
感想1
経験談の投稿、ありがとうございました。
まるで、出来上がった小説を読んでいる気分になりつつ、その中にあなたの心情を見つけて、「あ、私は今あなたの経験談を読んでいるんだった」となんとか感覚を呼び戻しながら読ませていただきました。それほど興味深く、惹きつけられるような吸い込まれそうになるような経験談でした。
私も読書が好きです。「人間失格」の感想を読んで、「そうだった。そうだった。うんうん。。」と強く共感し、読んだ当時の気持ちを思い出しています。
生きていく中で、人と比べてしまうことは当然のことで、そこに悩み、苦しむことがあるのも自然な事だと私は思います。そして、自分が持っていない性質を羨ましいと思い、時に自分の気持ちに蓋をしたり、努力をしてみたり。生きていくことって、この繰り返しなような気がしています。でも、それってすごくしんどかったり、疲れちゃうことも多くて、そんな時に「本」の世界に救われたりします。誰にも邪魔されずに、自分自身を振り返ったり考えたり出来ることで心が保たれるような感覚になります。でも、現実的にはそんな思い通りになんか行かなくてまた悩みます。私は日々いろんなことを考えたり悩んだり発見があったり嬉しかったり、いろいろな気持ちがあるから、素敵だなと思う「本」に出会える気がします。その「本」自体ももちろん素敵なんだけど、自分自身の経験や気持ちや考え方があるからこそ、素敵な「本」に出会えるというか…。ふと考えたことを語ってしまいましたね。すいません。
経験談を読んで、とても感性が優れている方だなと思いました。あなたの今までの経験やその時の考えや気持ちを集めて、あなた自身の視点だけではなく周りからの視点としても分析をされているなと思いました。経験談にもあるように、常に周りを気にして過ごしてきたからなのかもしれないし、読書をして得た知識も含まれているのかなと勝手に想像しています。
「私は、人に認められたかったのです。」というのが、この経験談の一番のポイントかなと感じました(私の勝手な感想です。もし視点がズレていたら、すいません)。認められたいと思って、努力し、我慢し、自分を演じて過ごし、もしかしたら、今でも周囲には「演じているあなた」が通常のあなただと思っている人がいるのかもしれません。それも、あなた自身なことには変わりはないですが、少しづつでも「本来の感情のあなた」で過ごせると良いなと思いました。まだ模索中ということで、「やってみよう!」と思ってできるような簡単なことではないと思うし、正解はないように思いますが、このように経験談にしてみたり今まで関わってきた人ではない人と「本来の感情のあなた」で過ごしてみるのはどうかなと思いました。感性の優れているあなただからこそ、新しい発見がありそうな気がしています。機会があるなら、続編として今後の経験談も読んでみたいと思ってます。