経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
ゆるやかな虚しさに耐えられない
27歳、独身です。
高校時代、友好関係は良好でしたが、教師からいじめを受けて、引きこもりを経て通信で高校を卒業し、就職しました。
会社で現場責任者として勤め、今年で7年目になります。
職場には恵まれていて、独り身の自分の生活、結婚や将来の相談に乗りだかる上司や先輩、現場のパートさん方がいつも気にかけてくれています。業務自体は多く毎日抱えきれないほどありますが、それでもそういった周りの人に支えられて、なんとかこなしています。
引きこもりをしていたのは、2年ほどで、そこから再び3年間通信高校へ通い始めたのですが、その間ずっと、今もずっと、両親に助けてもらっています。
精神科への通院は現在しておりませんが、不安定になれば話を聞いて、仕事を休めばそばでいいんだよと声をかけてくれて、どこかへ行きたいと言えばついてきてくれる、そんな両親です。
自分の人生で、幸せにしたい人がいるとすればこの両親で、いまやそのために生きてしまっています。家にお金を入れたり、ご飯を奢ったり好きな物を買って贈ったり、そんなに私が彼らにできることもありませんが。
本題です。
いつか両親が死んだあと、死ぬつもりでいます。
完全には無理でしょうが、人に迷惑をかけずになるべく後始末がないよう身辺整理をしたのち、姉(結婚しています)に遺書を残して死のうと思っています。
ただただ毎日が虚しい。人生に意味がないということを、自分は説明ができないので、あるのかないのか分かりません。
ただ、虚しい。両親がいなくなったら、いよいよ生きている理由がありません。
理由がなくたって、生きてていいと思います。誰だって、誰のためでもなく生きていていいと思ます。けれど、理由がないまま生きるのは、とても骨が折れるなとも思います。
もうずっと、好きになれるもの、人や趣味、仕事や恋愛を探していますが、何も見つかりません。本当に必要なのかな、と思っては遠ざけてしまいます。
死にたくありません。怖いです。
何より、両親がいなくなったら死のうと思っている自分が怖いです。本当にそうすると本気で思っている自分が、好きなものも人も趣味も、何もかもを遠ざけているかもしれません。
虚しさが大きくなったら、明日にでもどこかへ飛び込んでしまうのではないかと思う時があります。
もっと苦しんでおられる方がいるのに、恵まれた立場から死にたい死にたくないなどと言ってしまって、ごめんなさい。
この文章を読んだ方を傷付けてしまわないことを祈ります。
最後に、辛い時苦しい時自分はよく、いろは歌を思い出します。
常に同じものは存在せず、いずれ過ぎ去り、消えてしまう。いっときの感情に流されず、お互い有為の奥山を越えられたらいいですね。
感想2
高校のときの教師からのいじめや、引きこもりの苦しみを乗り越えられて、今の職場でご活躍されているとのこと、とても勇気づけられる話だなと思って拝読しました。二年間で引きこもりの状態を断ち切り、通信制の高校を卒業されたことだけでも、すごいことだと思います。お仕事はとても忙しそうですが、上司や先輩方、パートの皆さんとの活気のあるやり取りが目に浮かびます。投稿者さんは現在の環境があることについて、ご両親に心から感謝されておられて、言葉だけでなく、行動で示して親孝行されています。ここを読んで、自分がご両親だったら、どれだけ嬉しいだろうかと想像しました。
これまでの半生について拝読して、つい投稿者さんの円満な姿を思い浮かべてしまっていたので、本題の話とのギャップに一瞬驚きました。そして、未来の死へと深く投稿者さんの気持ちを引きつける「虚しさ」は何なのか、それはどこから来るのだろうかと考えました。私自身は、どれだけ環境に恵まれていても、最初から順風満帆な人生だったとしても、強く死に引きつけられることはあると思っています。そのような思いを抱くことも、口にすることも不快だとは思いません(なかには不快に思う人もいるかもしれませんが)。逆にとても大きな苦しみを抱えている人が、必ずしも死にたいと思うわけでもないとも考えます。不幸を比較することはできませんし、何を恵まれていると思うかもそれぞれですので、投稿者さんが謝るようなことは何もありません。どのような理由が考えられるとしても、理由なんか見当たらなくても、今、ここで切に感じているかどうかが問題です。逆に言えば、現に生じている思いを手掛かりにして、隠されていた自分自身の生きづらさを発見することもあり得ると思います。
投稿者さんの言う「虚しさ」は、生きる理由(人生の意味)や好きになれるものがない(感じられない)という表現によって言い換えられています。ここを読んだとき、心の奥底から求めていることと、こうしなくてはならないと、これまで実行してきた生き方とのずれや違和感が、虚しさという形で現れているのではないかと思いました。真面目で義務感の強い投稿者さんにとって、大きな恩を感じているご両親の存在はとても重いだろうと思います。しかし同時に、「本題」の前で語られていた回復のストーリーや、そのなかで期待されている(あるいは、無意識に引き受けてきた)役割をこなし続けることに、どこかで限界を感じているのではないでしょうか。しかし、その役割から自由になることは、これまでのご両親との関係の大きな変化を意味する。だから受け容れがたい。このような二つの思いの間で、強い葛藤が生じているのではないかと考えました。もし強い葛藤があるのだとすれば、それは一緒に危機を乗り越えてきた家族の強い絆があるからこそだろうと思います。ご両親に変わらない感謝をもちながら、人の期待から自由になり、自分の人生の実感を育んでゆく道もあるのではないでしょうか。そのとき私がご両親だったら、子どもが自立する少しの寂しさと、大きな感慨を覚えるかもしれません。投稿者さんの「虚しさ」は、現在の深い苦しみをもたらすものであると同時に、人生のステージの変化を暗示するものなのではないかと思いました。
お返事1
・自分のことを、たくさんの言葉で考えてくださったことが、嬉しかったです。
生かされている感覚という表現がとても素敵だなと思いました。
生きている理由がなくても生きていてよい(それでも生きなければいけない)という頭で分かっていても拒絶していた言葉が違う形で自分の中にやってきたように思います。
自発的にならずとも、水が流れるように生きることもできますね。
自分を表現する方法はすぐ思いつきませんが、いっそ思い切って人に自分のことを打ち明けてみたりする機会を増やしてみたら、今の恩返しが終わるその時、生かされている感覚があれば、もう少しの間でも人生を流れ続ける心が持てるのかもしれません。
私とお話ししてくださって、ありがとうございます。
・虚しさの原因を、具体的に文字として見て、色々気付くことがあり、虚しさは今を変えるきっかけにもなり得ると感じました。
その中でも、両親が重いとは考えたこともありませんでした。しかし親孝行しなければならない、と思っているのも事実です。
両親が自分に何かを望むことはほとんどありません。この重さは自分が勝手に、自分に課していることだと改めて思い至りました。
自分の中にある両親への愛情を義務感から置き去りしてきたような気持ちで、泣きたくなりました。気付かせてもらえてよかったです。ありがとうございます。
身の丈に合わない振る舞いをしていたのかもしれません。
前回の経験談をそちらへ送ったあと、文字にしたことで整理がつき、同じ内容を自分の気持ち上司に打ち明けました。
つっかえながら話していたのに、否定も肯定もせず、ただじっと話を聞いてくださいました。その後は悩みがないか、困ってることはないか、会うたびに気にかけてもらうようになってしまい、本当に申し訳ない不甲斐ない気持ちでいっぱいですが、同時に、少しだけ自分が外へ開いたような気分です。
この虚しさと仲良くなれる日が来たらいいなと思います。
長々とすみませんでした。
ご感想本当にありがとうございました。
感想1
経験談の投稿ありがとうございました。
あなたの人柄を想像しながら読ませてもらいました。
想像すると一見平穏な日々に思えますが、こころの中のゆるやかな虚しさがどこからくるのだろうと考えています。仕事をして帰るときのあなたの姿を勝手に想像しながら、ひとりになった瞬間にふと無気力感を覚えるのかな…。現場責任者は、業務に対する責任感、知識や様々なひととのコミュニケーションが必要だと思いますが、それに加えてあなたの人柄もあって若くして現場責任者という今があるのかなと思いました。一方でその努力や周囲への配慮の裏側でどこかあなた自身が二の次になって、こころが置き去りになっているようにも思えます。頼むと嫌とは言わない、何でも引き受けてくれる…そんなあなたが私の頭に浮かんできましたが、もしもそうだとすれば、周りからの求めに応え続けて本当の自分がどう感じているのかわからなくなりそうです。(日々忙しいとそういうことを考える暇もないと思いますし)以前話したひとが言っていた「自分のイメージを崩せずに気を張り続けて、それが平常運転だと思っていたらある日自然と涙が出てきた」というお話を思い出しました。
本題からは周囲には伝えていないと思われるあなたのこころについて語られていました。根本的には生きていることが虚しくて、いまの原動力は恩返しなのかなと思いました。恩返しが終わったら…そんな風にも読み取れました。生きる理由はなんだろうと自分も考えてみました。生まれてきたから生きているなんて当たり前の答えしか自分に見つからず、積極的に生きよう!と思っているわけではない感じはしました。生きるというよりは生かされている感覚なのかもしれません。ひとは自分が求めて生まれてくるわけではないけれど、そこに意味を見出すってとても不思議なことです。
いろは歌は私も知っているけれど意味を考えたことまではなくて、改めて読んでみると虚しさというか儚さみたいなものを感じますし、きっとあなたの感覚にしっくりくるんですね。死にたい気持ちは、環境が恵まれている、恵まれていないだけで決まるものではなくて、“本当の自分”の意思や感情、存在への理解者がいる、その自分を大切にされたことがある、自分を表現する機会があるとか、そういうことも関係しているのかなと思いました。この経験談で文字にしてくれたあなたの虚しさを知って、私は生きることについてあなたと対話している気持ちになりました。虚しさはずっと気持ちにあり続けるのかもしれませんが、耐えられなくなった時は死にトリにあなたの気持ちを伝えにきてくださいね。