経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

死が救済の人間もいる

私は子供の頃の記憶がハッキリしている部分と、ぼんやりと霞がかった部分で別れています。

1番初めに死にたいと思ったのは、多分幼稚園にいた頃。
私の家族は父親、母親、弟、そして私です。世間的に見ても普通。むしろ恵まれていました。
父は職場が遠くて朝早くから夜遅くまで働いていましたが、大人しくて母の事が好きな普通の人です。けれども昭和の考えの父親だったので、子供は親に養われているのだから、必ず親の言うことを聞かなければならない。プライバシーもない。逆らうなら軽い暴力も辞さないという人でした。

母は私が小学生になるまで専業主婦、その後フルタイムで働いていました。社交的で友達も多いタイプです。でも情緒不安定ぎみで、私と弟にだけ怒ると手が出る。嫌なことがあると八つ当たりする。嫌味や皮肉で追い詰める。そんな人でした。

なんで叩かれたのか、どうして家から追い出されたのか、もう理由は覚えていませんが、母の機嫌を伺う毎日の中でふと「このまま車に轢かれたら家に帰られなくても良い」と思ったのを覚えています。

母からテストの点数が悪いと木製の孫の手で強く殴られ、言い訳をして父に蹴られる。「もうお前なんか知らない。うちの子供じゃない」と言われ食事を用意して貰えない頃に自傷行為が始まりました。小学生3年生くらいだったでしょうか。

学校の担任に見つかって強制的に面談させられたけど何も変わらなかった。

中学は受験して、合格。でも勉強にも部活(吹奏楽部)にもついていけなくて、毎日夜8時まで部活、その後日付が変わるまで塾に通う毎日。それでも成績が上がらず、家庭仲はさらに酷くなっていくばかり。自傷行為は辞められない。スクールカウンセラーとの面談が設定され、「誰にも言わないからね」と言われたのに全部親にばらされた。

「どうして自傷するの?そんなに心配されたいの?」「そんなに死にたいなら殺してやる」と母から包丁を向けられて、「違う…そうじゃない…」としか答えられなかった。
父からは「もうそんなことはやめろ。お前のせいで家族が壊れる」と言われました。家族という単位の為に、私という部品が壊れてもいいんだな。と思うともう何も感じなくなりました。

母からはその後急に優しく接されたり、かと思ったらまた八つ当たりされたりするのに戻ったり。高校を卒業して、一人暮らしを続けている今でもずっとその繰り返しです。
父も同じような感じです。両親とももう忘れているか、覚えていないフリをして世間的に「仲の良い家族」を大切にしています。

コロナで実家に帰らなくていい理由が出来て本当に嬉しかった。
1人だけの家で全ての鍵を掛けて、イヤフォンをして、布団の中に潜っている時だけ深く呼吸ができる気がします。そうして深く呼吸をしていると、この幸せな状態まま死にたい、ここから出るくらいなら死んだ方がいい。そう強く思うのです。

物心ついた時から希死念慮は常に傍にあって、自傷は自身を守るためのものだった。
でもそれは親の掲げる理想の子供にはありえないものだったから、全部否定されてしまった。もうきっとこの希死念慮も、自傷衝動も消えることは無いと思います。自分を守ることで精一杯で、自分以外を自分以上に大切する余裕もない。

私の髪の毛1本から、足の爪先に至るまで全て私の物で、生をとるか死をとるかも全て私の選択で、そこに誰にも介入して欲しくない。

私は自分を大切にするあまり、自分の死を望むのです。
だから一生消えない。心の傷とか穴とかじゃなくてそういう心の形なんだと思ってます。

上手くまとまらずにすみません。長々と失礼致しました。

感想1

経験談の投稿、ありがとうございました。初めに、あなたから見える親御さんの人物像を書かれていましたが、あなたは親御さんを「親」というより、「一人の人間」として見ているように私には感じました。成長していく過程で、どこか自分と切り離して、遠くから親御さんを、「この人はどんな人間なのだろう?」と、「一人の人間」として見つめるようになったのかな、なんていう想像をしていました。(私の想像なので、違っているかもしれませんが…)そこには、客観的な立場で冷静に親御さんを見つめているあなたの姿が、浮かんだような気がします。

また、「家族という単位の為に、私という部品が壊れてもいいんだな。」「両親とも…世間的に『仲の良い家族』を大切にしています。」という2つの文章から、親御さんは「あなた自身」を見ることではなく、世間から見られる「あなた像」を守ることを優先していたように、私には感じました。学校の担任、スクールカウンセラー…当時の「あなた自身」を見てくれた大人は周囲にいたのだろうかと疑問に思いました。また何度か周囲の大人が、あなたの家庭に関わる場面があったのにも関わらず、状況が変わらなかったことを私は悔しく思います。私は、家族という単位の為にあなたが生きるのではなく、あなたという個人の為に生きて欲しいと思いました。自分以外を自分以上に大切にする余裕がなくたって、良いと思うのです。

タイトルが「死が救済の人間もいる」でしたが…あなたは死を望むことで、その瞬間に気持ちが楽になったりするのでしょうか。もしそうだとすると、「死を望む=気持ちが楽になる=自分を大切にする。」と、このような感じなのかな?と色々想像をしていたのですが、私の中ではっきりとした答えは出ませんでした。あなたにとって「死」がどのように救済となっているのか、自分を大切にすることがどのように死を望むことに繋がるのか…、もっとあなたの考えを聞いてみたいと私は思いました。

心の「傷」「穴」と表現することはよくあると思うのですが、「形」という表現はあまり聞いたことがありませんでした。あなたがどんな気持ちでそのような表現をしたのか、またそれは一体どんな形なのか気になりました。

あなたの文章には興味深い表現が多く、もっと考えを聞いてみたいと思うことが複数ありました。ですので、また経験談に来てぜひ話してほしいと思いました。お待ちしていますね。

感想2

ご両親との関わりの歴史を通して、どうして、どのような意味で、投稿者さんにとって「死が救済」であるのかについて語っていただきました。自傷行為や希死念慮が、自分自身を守るための対処の手段として使われるというのは、おっしゃる通りだろうと思います。世間一般の眼から見れば、死を願ったり自分を傷つけたりするのは、自分を大切にしていないからだとか、お母さまが言われたように、「心配されたい」からなのかもしれません。でも、自傷などの手段を駆使してぎりぎり生き延びている人に言わせれば、それは非常に表面的な理解と言わざるを得ません。この世界で何とか自分を守ろうとして、逆説的に死の考えに親んだり、自傷を繰り返したりすることもあり得るわけです。世の中で認められている価値観や人生観とは違うかもしれないけれど、現にそのように対処して生きてきたのだから、一つの世界観として認めてほしい――そんな投稿者さんのもっともな願いが伝わってきました。投稿者さんは「上手くまとまらずに」と書いておられましたが、一般的に誤解されがちな問題を繊細に捉え、ご自身の経験を交えて、分かりやすく言語化されていると思います。

人があえて自分を傷つけたり死を望んだりするのは、単に心が病んでいるからでも、自棄になっているからでもなく、もちろん頭が悪いからでも、単に甘えたいからでもないと、私も考えます。追い詰められた状況のなかで、なるべく自分の気持ちを楽にして、少しでも生きやすくする試みをしているからではないでしょうか。つまり、自己治療の側面があるわけです。しかし同時に、そのような対処をせざるを得ない人々が、これまでの人生で深く傷つけられてきたこと、そのせいで、苦しくても思うように人に頼れないこと、希死念慮や自傷に深く沈潜するほど、ますます傷つきやすく、生きづらくなり、生命に関わるリスクも増やしてしまうこと――そういう側面も否定できないのではないでしょうか。そういう意味では、「心の傷」にしっかり光を当てる作業も大切だと思うのです。

私は投稿者さんのご両親との関わりを読んで、子どものときから大変な苦労されてきたのだろうと思いました。ご実家がお母さまを中心に回っている様子が思い浮かんだのですが、いかがでしょうか。いずれにしても、「世間的に見ても普通、むしろ恵まれていた」という言葉とは裏腹に、安心感のない、とても過酷な環境におられたと思います。子どもに暴力をふるうこと、八つ当たりすること、子どもの苦しみに寄り添えない(むしろ苦しみの訴えに反発して責める)こと、その時々の感情を爆発させ、一貫した関わりをしないこと、過去の間違いをなかったことにする(謝らない)こと、もしこれらのことが継続的にあったのだとしたら、重大な権利侵害(虐待)が疑われます。少なくとも、親の価値観とか親が子どもに期待する理想像とはまた別の次元の問題であると思われます。仮に子どもの頃の一時期の出来事であったとしても、この種のダメージ(トラウマ)は青年期以降にも影響を残すことが知られています。もし投稿者さんに思い当たる節があるとすれば、専門的な医療機関に相談するのも一つの手かもしれないと思いました。

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