経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

わかんなくなった

家は経済的には裕福な方で、虐待もされてなかった。だから、本来こんなことを思うのはおかしいことなのはわかっているけど死にたい気持ちが止まらない。でも、身体に不調は出ていなくてご飯も食べられるからやっぱりこの気持ちは嘘なのかもしれない。
私の家は古くて、おばあちゃんもひいおばあちゃんも一緒に住んでた。2人は私よりも外孫の方が好きだったし、可愛い妹の方が好きだった。私が可愛い服を着たら、あの子は似合うのにお前は似合わないと言われ笑われた。
お母さんは仕事で忙しくて私の面倒を見る余裕もなかったし、こんな家だから精神的に追い詰められてた。一度お母さんに愛されてるのを確認したくて、質問したことがある。その時に返ってきた答えは親の義務として育てているだった。
お父さんとおじいちゃんは何も言わない。
学校では先生に怒られるのが怖くていい子にしてたけど、先生たちは問題児の世話とかめんどくさい委員長とかを綺麗事並べて押し付けてきた。頑張って期待に応えようとしたけど、何にもなくて。問題児たちは少し当たり前のことをしたら褒められたのにおかしいなって思った。
大学の先生も嫌いだった。私は確かに不出来だったけど、全然ダメなやつってゼミのみんなの前で怒られて怖かった。
友達は私と仲のいいふりをして陰で私をいじめてた。あの子達がやった嫌がらせ全部知ってるしわかってる。気づいてないって思ってたみたいだけど。
誰も信用できなかった。
でも最近、妹が反抗的になったり、いとこが結婚して家を出たり、親の仕事に余裕が出てきたり、私がいい大学出て、社会人になったりしたからか、急に謝ってきたり、此方に擦り寄ってきた。
表面上は許してるけど、全然納得してない。今までのこと掌返しして気持ち悪い。家族以外は全部捨てられた。本当はこんな人たち全員捨てたい気がするのに、見捨てるのは怖くて。やっとこっちを向いてくれたって思うのに、ふと怒りが湧いてきたりする。自分がどうしたいのかわからない。お金ももらっていたし、虐待もされてないからこの感情が間違っている気もする。
何にもやりたくないし、人間が怖いし嫌い。
大人になるつもりなんてなかった。もっと早く死ぬ予定だった。なんで死なないのかわからない。全部どうでも良くなりたいのに、苦しい。どうしたらいいんだろう。

感想1

経済的に裕福なほうであったとしても、虐待されていなかったとしても、死にたい気持ちを感じとることはあることを、まず保障したいと思いました。虐待の定義はひと筋縄ではいかないとは思っていますが、家庭内の人間関係も学校での人間関係も、投稿者さんを尊重しているものではなく、投稿者さんが人間不信になるのも無理ないエピソードだと思いました。投稿者さんは、周囲の気持ちを尊重して生きてきたのに、投稿者さんの気持ちを尊重する存在が不在だったのではないかと想像しました。たくさんの傷つき体験があったことと思います。
タイトルにもなっていますが、「わかんなくなった」のは、投稿者さん自身の気持ちなのかなと想像しました。投稿者さんは自分自身の感じていることをおかしいと感じているのですね。一方で家族に対して表面的に許していても全然納得がいかない気持ちもあるのですね。相反する自分の気持ちがあって、自分自身のことがわかんなくなっている部分があるのではないかと思ったのですがどうでしょうか?その全然納得いかない気持ちを大切にしたいと私は思いました。
投稿者さんは、自分自身の気持ちを自分で評価していて苦しくなっているのかもしれないなということに、何度も読み直して気がつきました。もしかしたらなのですが、気持ちは評価するものではないのかもしれません。感じたままそのままでOK的な。自分自身が感じたことは、良いも悪いもないジャンルと捉えてみると、いくぶん世界の見え方が変わるきがするのですがどうでしょうか(文末に「どうしたらいいんだろう」と書いてあったので、いくぶん助言めいた書きぶりになっていますが、押し付けるつもりはありませんのでご理解ください)。
死にたい気持ちも怒りの気持ちも人を信用できない気持ちも、どんな気持ちであっても、感じている気持ちには正解も不正解もないということを、このサイトを通じて私は学び、気持ちが楽になった経緯があります。あえて、正解か不正解かで整理するのであれば、誰かの気持ちを他者が否定することは不正解だし、自分自身の気持ちを自分が否定するのも、たぶん不正解ということなのかなと私は考えました。
とはいえ、自分自身で自分自身の気持ちを評価せずに受け止めて肯定できるまでのプロセスには、誰かに自分自身の気持ちを肯定される経験が必要な気がしますので、自分自身を肯定してくれる他者が日常生活に不在の場合、引き続きこのサイトを訪ねてきてくださいませんか。このサイトの関係者は、投稿者さんの気持ちに共感し、肯定できるタイプの人材が多いと思っています。もちろん、投稿者さんもこのサイトの関係者と思っています。よかったら、また訪ねてきてください。

感想2

自分が死にたいと思うことに後ろめたさがあるのでしょうか。私は人が何かを思う気持ちに理由や条件は必要ないと思っています。だから、あなたが死にたい気持ちが止まらないということが真実だし、その気持ちは受け止めたいと思いました。
ただ「死にたい」という気持ちはとても難しいとも思っています。というのも、「死にたい」というのはとても幅広くていろいろと複雑な気持ちを含んでいる表現だと思うからです。言葉だけを見ると命を絶ちたいという意味になりますが、どちらかというと「生きているのがつらい」「生きていたくない」という意味の方が強いのかなと思います。それは、人によっても違うと思いますし、同じ人でも日時や状況が違えばその中身も変わると思います。「死にたい」という表現は本当に奥が深いと思っています。
書いてくれた子どもの頃の出来事を読み、風景を想像しました。あなたが自分の気持ちを素直に伝えて、受け止めてもらえる環境は少なかったように感じました。ひょっとしたら、控えめで、大人しく、注意深く周囲の様子を見ながら、慎重に行動していたのかもしれません。そして、周囲に気持ちを気づいてもらえなかったり、あなたの我慢強さに大人が甘えてしまったりしたのかもしれません。これらは私の想像なので、実際はどうだったかわかりませんが、どんな風景であっても、あなたが死にたい気持ちが止まらなくて、何もやりたくなくて、人間が怖くて嫌いという気持ちがあるのは誰も否定できません。その通りだと思います。でも、「わかんなくなった」とタイトルをつけてくれた通りで、それとは違う気持ちもあるのではないかと思います。例えば、人と関わりたいとか、大切にされたいとか、もっと生きたいなどと言った隠れた気持ちもあるのではないかと感じています。葛藤や矛盾があるから苦しいのではないかと私なりに想像していました。一人で葛藤を抱えるのはしんどいと思います。苦しさを分かち合うために死にトリをつくりました。また、参加して一緒に葛藤を分かち合えたら嬉しいです。

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