経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

自分の存在

40代女性です。幼少期から姉妹の間で差があり、一般的に長男、長女が大切にされると聞きますが、私は逆で、家に帰り「ただいま」と言い、私の声だとわかると「なんだー◯◯か」と言われ、ご飯も一番最後で他の人が食べてからではないと手を出せない日々でした。小学生ぐらいから家にいる事が苦痛で、休日一日居るだけで吐いてしまったりしていました。体調を崩しても病院に連れて行ってもらえませんでした。

 もちろん欲しいものはお年玉など貯めて買える金額のもの‥妥協して買うことも多かったのですが、妹は欲しいものは全て買ってもらえ、好きなものを食べられ、テレビも優先的にみたいもの観ていました。それは、ずっと続いていて、私の成人式の着物を「買うお金なんてない」と言われましたが、妹は二着買ってもらっていました。

 親に褒められたい、親に関心をもってもらいたい、平等に接して欲しいとずっと思っていましたが、どんなことをしても、何をしても無駄でした。

 そして、祖父母と同居をしていましたが、祖母も私のことを近所の人や親戚に「あの子はダメだ」と言っていて、「妹は全て完璧で良い」と話し回っていました。どんどん自分に自信が持てなくなり、家族‥親ってなんだろう?平等に愛されることは無理なのか?という疑問を図書館で調べたり、心理学で調べたりして大人となりました。

 自分が何かいけない事をしている、自分が問題児、なんで自分は生きてるんだろう?必要としてくれる人いるのかな?そんなことばかり考えるようになりました。そして、親と喋れなくなり、触る(ふれる)こともできなくなりました。過去のことと思って割り切りたいのですが、どうしても頭から消えません。

 10代の後半心療内科に一人で行きました。家族の協力と理解が大切なので次回はご家族と来てくださいとのことでしたが、親に拒否されました。なんでそんなとこ一緒に行かないといけないの!あんたが弱いんでしょ!と。

 いまだに差は続いてます。極力関わらないように過ごしています。そして、私はこんな家族は嫌だ絶対こんな家族作らないと思っていましたが、今パートナーに無視されて会話のない日々を過ごしています。針のむしろです。きっかけは私が仕事で疲れていてそれが顔に出ていたのでしょう。それが気に食わなかったのだと思います。それから二か月無視されてます。普通にこちらから話しかけても返事はありません。正直これはもう変わらない気がします。気持ちが疲れすぎてもう全てを終わらせたい。自分の居場所、自分の気が安らぐ場所が欲しいけどありません。

もう消えて無くなってしまいたい‥

感想1

誰かと比べられることは、どんな時でもとても嫌なことだと思います。
誰もが人はひとりしかいなくて、その人(比較されているひと)ではなく、自分は自分として受け止めてもらいたいし、存在したいものです。
それが家族の中で比べるだけではなく、差をつけるように小さいころから育てられてきたことを想像すると、こころが止まってしまいそうです。図書館で調べたり、心理学を調べてそこから「家族」や「平等」について知ろうとしなければならなかった幼い姿を想像すると何だかいたたまれない気持ちになりました。親に触れなくなったのはこころと同時に目の前にいる親の身体とも距離ができて近寄れない他人のような感覚になったのでしょうか。今はパートナーと無の状態ということで…無視って存在があるのに無いものとされる静かな暴力のように私は感じてしまいます。それならひとりでいる方がよっぽど気持ちは楽なのではないかと思います。あなたは、ただただ家で安心していたいだけだと思いますが、それも叶わない毎日なら消えたくなっても不思議ではありません。死にトリは参加するという概念でつくられたネットの居場所です。ぜひまたここに来てもらって気持ちをつぶやいたり、眺めたりして欲しいのでまたお待ちしていますね。経験談の投稿ありがとうございました。

感想2

経験談を読んで、差別の残酷さをリアルに受け止めました。そして、差別そのものもつらいことではありますが、その理由がわからないこともまた、つらさに拍車をかけているように思いました。「なぜ?どうして?」とあなた自身が一番感じているとは思いますが、私も読みながら何度も浮かんできました。でも、よく考えてみたら、理由があったとしても、子どもが存在を軽んじられることは本来あってはならないと思います。いや、それは大人であっても存在を無視されたり、軽んじられることはあってはならないことだと思います。
ただ、子どもは帰る家を選べないですし、家族も選べませんが、大人のあなたは人を選ぶことができるのではないかと思いました。でも、子どものころからの経験やその影響で人をうまく選べなかったり、関わることが難しくなることも自然なことだろうと想像しています。
さみしい気持ちや居場所がほしい気持ちを抱きながら、それがかなわない現実に向き合うことは苦しいことだろうと思います。私たち死にトリは近くにいることはできませんし、いつも一緒にいることはできませんが、気持ちを受け止めたり、苦しみを想像したり、一緒に考えることはできます。これほど差別を痛感してきたあなたにしかできないことやわからないことがあると私は思いました。死にトリとのつながりが、もしも少しでも何かの意義があるのでしたら、これからも参加してもらえたら嬉しく思います。

お返事1

 幼少期の生活、経験で、親に甘える‥というものは何かわからなく育ちました。家族だけど知らない人並みに遠い存在に感じていて、知らない人だからこそ触れたりしてはいけないと思ってしまっていたと思います。妹は親とふざけ合って触れ合って、笑いあっていましたが、私はやってはいけないと感じていたし、やり方がわからなくなっていました。そしてただただ、家族の顔色を見て、気に入られなくても良いけど自分に害がないようにとしか考えられなくなっていました。食べるものがあって、寒くなく暑くないところがあるだけでありがたいと思わないといけない‥そんなふうに生きてきました。そのせいか、人からどう見られているか、必要とされているのか、役に立てているのだろうか、存在価値があるのか‥そんなことを常に思ってしまっています。また、幼少期褒めてもらう事はなかったせいか、大人になった今でも褒められたいと思ってしまう場面は多いかも知れません。
 確かに今現在、自分で道を選べる機会はあると思います。ただ、家族と居ても孤立を感じていた分、誰かといたい、誰かの存在を感じていたいという気持ちが勝ってしまっているのかも知れません。一人の方が楽というのもすごくわかっていているのですが、なかなか行動に移せず‥。何が自分にとって良い道かはもうわからなくなっています。
 病院に通っていて眠れてもいますが、仕事はやめなさいと言われているものの、病院に行くお金がなくなることが怖いので働きます。正直人それぞれ色んな苦しみや辛さがあると思いますが、ここで打ち明けられた事、感想を頂けた事で少し救われた気持ちですごせています。ありがとうございました。

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