経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

人を信じたいのに信じられない


私は、幸せが何かわかりません。
私は恵まれていると羨ましがられることが多いです。
今の国内の経済状況を鑑みると私は経済的には恵まれている部類に入ります。
容姿や頭の良さでも良いとは言えませんが、悪いとも言えません。
恵まれた人生のはずなのに、幸せを感じられない自分が嫌になります。
私は就学前のいじめが1番記憶に残っていて、そのせいでいじめられるループから高校に入るまで抜けることができませんでした。
私の両親は、私が幼い頃とても忙しくしていました。
私の両親は、お金で苦労したため、私には苦労をかけたくなかったので、とにかくずっと仕事をしていた印象が強いです。
そのため、運動会の親子競技、保護者会などに参加してもらった記憶はありません。
数回は参加していたそうですが、参加しないことが多かったとも聞いています。
そのことから、私の両親は他の保護者から嫌われているようでした。
何度か他の子のお母さんたちが話している会話で、
「あの親子揃ってわがままよね。こっちは仕事もセーブして切り詰めてるのに。」
「仕事を優先させる程度の愛情、子どものことなんて愛してないんでしょ。」
と言った会話を聞いたことが、両親との関係に気まずさを植え付けました。
こんな会話をしていた他の子の保護者も、私の両親がいる前では、
「美人さんで、いい子で羨ましいわ。」
とよく社交辞令的な挨拶をしてきてそれを私の両親は、本気にしてよく否定していた。
そのことが幼い私にはとてもショックだった。私としては、自慢の娘と言ってもらいたかった。愛されいないんだ。必要なかったのかなと思うようになりました。
年中になってから、私は本格的にいじめを受けるようになりました。
いじめていたのは、同じ組の子、その子上の兄弟とその友達(一個上と二個上)が中心でした。
当時は構って欲しいと常に思っていたので、問題行動もよく起こしていて邪魔だと思われていたこともあり、周りの大人は助けてくれなくて、むしろそれを助長させて、楽しんでいるようでした。
味方だったのは、可愛がっていた私より幼いの子どもたちだけでした。
1番酷かった頃は毎日枝で殴られたり、縄跳びを鞭のようにして叩かれたりして常にどこから血が出ていたこともありました。ただ、どの傷も浅くじんわり滲む程度の出血だったので命に関わる怪我ではありません。
親にも話せず、保育士さんも手当はしてくれるものの、注意はしてもらえませんでした。
最も深い傷は、言葉によるものです。
「親にも愛されない人間が他人から愛されるわけはない、死んだって悲しんでくれる人なんていない、むしろ死んだらうちらは幸せになるから、死んだ方が人のため」
公園に行った時に、偶然居合わせた同じ保育園の人とその子の兄弟姉妹も遊んでてその子たちに囲まれて言われた言葉今もずっと気になってしまいます。
母は、私がいじめられたことを気にして小学校に入学してからは仕事をセーブして学校行事に参加してくれたり、PTAを引き受けたりしてくれましたが、そのことをよく強調して感謝してと言われてました。
当時の私は、いじめられたことは親のせいだと思っていたこと、愛されていないという言葉が引っかかり、信じてなくて嫌っていました。
今も、まだ修復できているわけでは、ありませんが両親の気持ちや立場が今なら想像できるから、今はとても感謝しているけど、今まで酷いこと言ってきてしまったから、他の家族のような関係にはなれないと思うから今はとても後悔してます。
小学校に入学してからしばらくは、遅生まれということもあり他の子より成長が早く比較的優秀だったため、先生から気に入られそのことを感じてか数ヶ月前まで私に死んだ方が良いとか言っていたはずの子どもたちも急に優しくなりました。
当時、常に不安を抱いていました。もしダメな子だと気づかれたら、要らない子になるのではないかと思い常に勉強に明け暮れ遊びの誘いもずっと断ってきました。
ただ、夏休みが明けると誰も私を誘わなくなりました。今なら、あれだけ断られれば誘わなくなるのも納得できるのですが、当時は、あの頃に戻っているようで、また仲間はずれ、次第に、保育園の頃を思い出して急にパニックを起こすことが増えていきました。
お気に入りにしてくれていた先生からも距離を置かれ始め、11月の学級会の途中で殺して欲しいと騒いだことがあり、それがきっかけでいじめを再び受けることになりました。
階段などから、突き落とされたことも何回かあります。髪を勝手に切られたことも、文房具を盗まれたことも、洋服も破かれたこともありました。
それでも、その時されたこと以上に幼少期のことが気になります。
私が本当に信じられなくなったのは、精神的な問題を抱えているということで、カウンセリングを受けるようになってからの出来事がきっかけです。カウンセラーの先生は秘密にすると言っていたのにも関わらず、担任の先生に内容を話していたようです。後で知ったことですが生命に関わることは例外らしいです。それを担任は臨時の学級会で全て話していました。表面的にはみんな優しくなりますが、陰口や校外、女子トイレ内など担任が立ち入れない場所での嫌がらせはエスカレートしていきました。よく水をかけてきたのに心配するふりして保健室に連れて行っていました。
中学受験をする子だったから評価を気にしていたんでしょか。それでも私はどうせ1年もないからと諦めてしばらくは黙っていました。ただ、その子が私の面倒を見ている良い子として学級会で表彰されていた時にもう無理だと思って全てされたこと話しても、誰からも信じられなくて、黙っていても良いことないなと思うようになりました。
中学入学後、私は真面目になりました。クラスを問わずいじめられている子を庇い、また校則を破っている人のことをその都度先生に報告していました。
結果としてすごく嫌われて、いじめられました。見返りなんて求めていないつもりでしたが、自分が味方して助けた子からも物を投げられたり、悪口言われたことが悲しすぎて、失敗に終わったものの死のうとしました。
私が居なくなりさえすればみんな幸せなれると思っていたのです。
中学はその後の方がずっと辛かったのです、私が自殺しかけたせいでいじめの主犯だった子は学校に来れなくなりました。私はそれを望んでいたわけではなく、罪悪感でとても苦しかったです。
高校は、小中の知り合いがほぼいなく、いじめを受けた子も多く理解も示してもらっていましたが、過去の経験があまりに違い過ぎて馴染めませんでした。
次第に距離ができ、打ち上げにも私だけ一度も呼ばれたことがありません。
ただ、高校生活の6割以上はコロナで潰れたので、正直ほぼ記憶にありません。
大学に入ってから、私はやっと居場所を見つけられたのかもしれません。けれどその居場所に素でいることはできません。明るく前向きで真面目で努力家なつくられた私の居場所です。そこにいると常に演じているため疲れます。
誰にでも優しくしているので、レポートやテスト前は勉強を教えて欲しいと寄ってくる人の面倒を見るため自分のことが後回しになってしまいます。
利用されるだけの存在でも認めてもらえることが嬉し過ぎて、もう辞めたいと思ってもやめられません。
1番大切にしたかった友達は、辞めてしまい、今は1人私までやめたら、気にしてしまうから、誰にも相談できない。
自殺なんてしたら、迷惑かかるし、責任感じる人も出るから、不慮の事故に巻き込まれて死んでしまいたいと思ってしまいます。
こんな不謹慎なことを思う自分が嫌でたまらず、消えてしまいたいと思うのです。
私は、人に愛される方法がわからなくて失敗ばかり、どうしていいのかわかりません。
誰なら信じられるのかそれもわからない。

感想1

経験談の投稿、ありがとうございました。
この経験談を読んで、なぜあなたが常に良い子を演じ続けなければならなかったのか、また「もしダメな子だと気づかれたら…」と幼いあなたに思わせてしまうような環境が当たり前のようにあったのかと思い、日本の教育方針と世の中の共働きに対する考えに疑問を感じずにいられませんでした。
人を信じられるようになるには、まず幼少期に自分を信じることができるということが必要ではないかと私は考えています。その幼少期に両親さんや他の保護者さん、先生などの周囲の大人が、「良い子」という概念を勝手に植え付けようとし、感謝を強要したり愛されていないと感じさせてしまうことをしていては、自分を信じることは難しいことと思います。あなたの幼少期を想像すると、「良い子でいることが、周囲の大人に認められること」と信じて、振る舞ったり自分を演じ続けて来られた印象を持ちました。これは幼いあなたにとって、最善の方法でそうすることが当たり前だというように考えていても当然なことと思います。しかし、それでも否定されたり、いじめられたり、常に不安で過ごしていたとなると、自分のしてきたことに悩まれて当然であって、自分を信じることができないのも無理はないと私は考えました。
幼い頃の経験はとても大事であって、この死にトリに投稿してくれる方の中にも、幼少期の経験から生きづらさを感じ続けている方がいます。あなたの経験談で「私は恵まれている」と始めに書き出されているように、恵まれていることや生活に不自由ない環境で過ごしてきたということ=「良い子」で居なければならない、と強く感じさせることを強要されてきたために、今もその名残が残っていて、辛さも生きづらさも常に感じ続けているのではないかと私は感じました。

でも、あなたの経験談を読んで、本当に恵まれているのか?と私は思います。
「恵まれている」という言葉の捉え方は色々あるとは思います。生活に不自由しないということが、「恵まれている」ということなのでしょうか?それももしかしたら「恵まれている」なのかもしれません。また、「恵まれている」は人によって感じ方が違うのかもしれません。なので、私は「恵まれている」と感じる自分の価値観を強要したりすることはよくないと思ってます。他人から「恵まれている」と思われても、本当のところは自分しか分からないし、「恵まれている」と思われているけれど実際に私は辛いということを発信できないような環境をいつの間にか作られてしまいそうだし、自分を責め続けてしまうこともあると思うからです。
今回、あなたはご自分のお気持ちをこれほど分かりやすく、伝えてくれました。だからこそ、私もこれほど、「恵まれている」ということについてや人や自分を信じることについてを改めて考えることができました。私は、無理に人を信じる必要はないと思ってます。ただ、安心して過ごせる「居場所」はあってほしいと思います。またあなたのお話を聞きたいと思ったし、「居場所」を見付けたり、作ったり、考えたりしていけたらなと思いました。もし良かったら、死にトリの中の他のコンテンツや、他の経験談も見てみてください。また投稿もお待ちしています。

感想2

まず、とても小さい頃の記憶を詳細に記憶していることに驚きました。映像や音声を含めて、光景が刻み込まれているのでしょうか。詳細を繰り返し思い出すことで、その時の気持ちや感覚が深まっていくのかもしれません。
それだけ、小さいころから、周囲をよく見ていたのだろうと思います。いろいろな人を見て、様子を見て、幼いなりに感じて、考えていたのだろうと思います。そして、言われたことやされたことの意味についても考えていたのかなと想像していました。書いてある内容から想像してみると、たとえ自分に向けて言われたわけではなくても、耳から入ってきた情報が残りやすいタイプなのかもしれないと感じました。そう考えると、子ども時代に経験したこと、見聞きして不安に思ったり、疑問に思ったりしたことを話せる人が近くにいたら、気持ちの整理ができたり、混乱が少なくて済んだのだろうと思いますが、仕事で忙しい両親や表面的なことで評価をしてしまう大人が多かったように感じました。
改めてあなたの経験談を読むと、家庭や学校やいろいろなところの裏側を見ているような気持ちになりました。あなたは注意深く周囲を見る子どもだったのでしょう。じっと観察して多くを語らず、時々に問題行動と思われるような発信をするけれど、あまり本音や本心を出さず、相手のことを深く想像して…そして、思いつめて意を決して本心を伝えてみたら、過剰に心配されて、受け止めてもらった感じがないのではないか…そんな心の内を勝手に想像していました。
タイトルにある「人を信じたい」は切実なのだろうと思います。あえてタイトルにつけるほど明確に「人を信じたい」と願いながらも、どうやって信じたらいいのかわからないという意味もあるのかなと思っています。これだけ、いろいろな人間関係の裏側をよく見てしまったら、何をどう信じていいのかわからなくなっても無理はないと思います。
私がとても印象的だと思ったのは中学時代にいじめられる子を庇ったエピソードです。真面目になったと表現しましたが、あなたは自分に正直になったのではないかと感じました。私も人が理不尽にいじめられているところを見て見ぬフリができないタイプなので、近くにいたら一緒に庇いたいと思いました。ひとりでは大変でも一緒に庇う仲間がいると心強いと思ったからです。私が近くにいたら、あなたのことを誠実で、不器用でも自分で見たこと感じたことを大切にする信頼できる人だと感じるだろうと思っています。
ただ、私自身も人を信じるということがどういうことなのかまだまだわかっていません。あなたの経験談を読んで、改めてどういうことなのか考えています。よかったら、もう少し一緒に考えてみませんか?人が人を信じるためには何が大切なのでしょうか。
これからも、死にトリに参加してくれたら嬉しいです。

お返事1

ありがとうございました。
いただいた感想も読みました。
ありがとうございます。

私は、今回の感想を読んで私は幼い頃から必要以上に周りを気にし過ぎていたのかもしれないと思いました。
知らぬが仏ということわざのように知らないままでいた方がきっと生きやすかったのだろうと改めて感じました。
なかなか行動に移すことは難しいですが、過去の過ぎたことに囚われていても仕方ないからどこかできっと許さないといけないのかと思いました。
幼少期の私は、自分のことを信じることが出来なかったからきっと誰かに認めて貰いたかったのだと思います。
だからこそ、認めてくれる人がいることに気づくことが出来なかった。
今からでも、信じてあげることが出来ればもしかしたら、このことを忘れることができるのではないかと思いました。
私は、恵まれているとも運が良いと言われて羨ましがられることが多く確かにそうかもしれないそう思う部分があるから言われることに対して理解することは出来ますが、それは一種の脅迫を受けている様で苦手だとも思っています。
今回の感想を読んで、私は自分の気持ちに対して蓋をする様に羨ましがられることでなってしまったのかと思いました。なので、あえてその言葉を理解せずに少し意地悪な感じもありますが、相手の恵まれていると思う部分を挙げられるようにしてみたいと思いました。
私が人を信じたいと思うのは、人を信じていることがきっと良い子だと思っているからなのではないかと思いました。
けれど、人は善人ばかりではないし、周りの人も互いに信じ合っているわけでもないのだから、信じないといけないことはないのかもしれないと改めて感じました。
素直にみられることが多いですが、たしかに私は本心や本音を話せる人はほとんどいません。
話しても良いかなと思う人は、何人かいましたが傷つけることになってしまうから話すことはできませんでした。
ここでは、普段の私を知っているわけではないので、いつもよりは正直に書くことができました。
ありがとうございました。

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