経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

誰にも理解してもらえない

幼少期から、落ち着きがないなどと言われていましたが、特に問題になることもなく、大学を卒業して就職し、サラリーマンになりました。いざ就職して、作業をしていると資料の転記漏れなど単純ミスが多く、遅くまで残業していました。

「自分だけなぜこんなに作業が遅いのだろう、おかしいな」と思っていました。気になって医師に相談し、知能検査を受けたところ、最初に目についた視点を変えづらい、複数の処理が遅いという特性があるようです。視点を素早く切り替え2つ以上の作業を同時に行う能力が、通常の人の7割程度しかないのです。しかし、その程度は発達障害とか明確な疾患名がつくほどではなく、ただ不得意なことがあるということでした。

疾患名がつけば、「この人は疾患があるのだ」と認識してもらえますが、私のように何かが、「とても不得意だ」という人について、世間では誰も気にかけてくれません。頑張ればできてしまうのだから、世間はハードルを下げてはくれません。私にとって、仕事をすることとは、自分だけ20m後ろからスタートする100m走のようなものです。人の何倍も努力して、やっと人並み。猛ダッシュで周りの人に追いついて、「人並みにやっているふり」をしているだけなのです。

このまま周囲と上手くやっていくにはどれほどの努力が必要なのだろうかと思うと、気が遠くなります。全神経を集中して、たった1回、書類を見直すだけでヘトヘトになり、疲れてしまいます。それだけやっても、合っていると思ったはずの書類に間違いが見つかると、「ああ、これが私の能力の限界なんだ。」と悲しくなります。周りの人はそれを楽々と終えて、「まだ終わってないの?手伝ってあげるよ。」と私に声をかけてくれますが、そのやさしさを素直に受け取れず、いつもみじめな気持ちになります。

そんな悩みを私が周囲に打ち明けると、「全然そのような特性があるように見えない。」とか、「気の持ちようだ。」とか、「真面目だから悩むんだ。誰でも悩みはある。」と言われてしまい、真剣に取り合ってもらえません。

時にはっきりとした障害がある人をうらやましく思うことさえ、ハンディキャップがあったとしても私より幸せなのではないかとさえ思ってしまいます。こんな言い方はしたくないのですが、他人にはこの「普通の人」を装う、緊張感や疲労感はわからないと思います。

仕事がすべてではありませんが、他にとりえもなく、このような欠点のある私を好きになってくれる人もきっといないと思っています。なにより自分が自分のことを好きになることができません。この世の中には、もっと不幸な人もいるし、自分の欠点をただ受け入れられずに悩んでいる自分にうんざりしています。他人との人間関係の形成にも問題があるのだと思います。いつも弱音を吐いて、結局は生まれ持った能力のせいにして努力をしない自分にも嫌気がさしています。私の苦しみは誰にもわかってもらえません。私はこれからもずっと「ひとりぼっち」なのです。

感想1

苦しい状況を詳しく書いてくださって、ありがとうございます。とても、わかりやすく、伝わってくる経験談だと思いました。本当の気持ちを率直に書いたことが読み手に伝える力につながるのだろうと思います。

あなたの苦しさは本当にその通りだと思いますし、今の社会はそれを理解し、補い合えるような仕組みやマインドを持ち合わせていないのも実態だと思います。それに身をもって気づいていて、明確に伝えられるあなたは、今の社会の課題の核心を知っている貴重な存在だと思います。あなたが仕事で苦労をして、持っている力を発揮できないことは、あなた自身の苦しみにもなりますが、社会にとっても大きな損失です。苦手なことがあっても、一生懸命に取り組もうとする気持ちもあり、努力もしているのに、努力した分が還元されないのはあなたの責任ではないと思います。

今の世の中はなぜかわかりませんが、1人の人手に対してみんなに同じ能力や同じ働きを求めてしまう傾向にあると思います。給料もポストも誰が働いても同じように働いて、同じようにスキルアップすることが想定されていて、それについて行けない人はいつも後ろめたい気持ちをしたり、責められたり、逆にできる人はやるのが当たり前になって不当に仕事を押し付けられたりします。

本来、人はみんなの個性も能力も違うので、一人ひとりにあった働きをできればよいと思うのですが、おそらく個人差を認めるような働き方は不公平感や給料をどう決めたらいいのかなど課題や難しさがあるのだろうと思います。そんな面倒なことをやるよりも、画一的に考える方が楽なのかもしれません。でも、私は一人ひとりがそれぞれの力や個性にあった働きができる社会の方が全体の効率も上がると思うし、何よりも一人ひとりにとっても生きやすいのではないかと思うのです。

問題はどうしたら、一人ひとりが活躍できるのか?ということです。ずっとそれを考え、試行錯誤をしています。あなたのような人が後ろめたく思わずに、苦しまずに生きることができる社会は他の人たちにとっても生きやすいと思います。どんな職場や社会の仕組みがあればあなたの苦しさが少しでも減るか、アイディアや意見があればぜひ教えてください。お願いします。

感想2

特性があっても周囲になかなか理解されず、障害がある人をうらやましく思うこともあるのですね。今の社会は、障害や疾病など何かに当てはめることをサポートの条件にしていると私は考えています。苦手さや生活の難しさがあるのに、その基準に届かない人はサポートが受けられない場合が多いような気がします。障害かどうかにかかわらず、苦手さを周りの人と配慮しあえるような社会であってほしいと思います。

また、この社会はバランスよく平均的な能力を基準にして成り立っているところがありそうです。その仕組みのせいで、能力の偏りがあると「普通の人」のように生きるのが難しくなるのではないでしょうか。でも、無理をして「普通の人」にならなければならないなんて、理不尽です。私も不得意が多いので、どんな能力や特性をもっていても当たり前に生きられる社会になってほしいとよく考えています。

~な社会になってほしいと言ってばかりで、どうしたらそんな社会になるのかと聞かれそうですが、私にもよくわかりません。あなたの経験談を読んで共感してくれる人たちが増え、みんながお互いに社会のおかしさに気づいてくれたらいいなと思います。

感想3

仕事や人間関係での悩みや苦しみを抱えながら、「誰にも理解してもらえない」と感じていらっしゃるのですね。私は死にトリを通していろいろな人のお話を聞かせてもらうなかで、あなたと同じように「普通」になろうとしてヘトヘトになりながら、話せる人も見つからず、孤独感を感じている人たちに出会いました。

「自分の欠点を受け入れられない自分にうんざりする」と書かれていましたが、検査も活用しながら、ご自身の特性をよく理解していらっしゃるのだなと思いましたし、受け入れているからこそ周囲に悩みを打ち明けたり、こうして経験談を送ってくださったのではないかと私は思いました。にもかかわらず、あなたの悩みを真剣に受け止めてもらえなかったのは残念です。

一緒に考えてみたいと思ったのは、「仕事」についてです。人はなぜ仕事をするのだろう?どんなふうに仕事ができればもっと生きやすくなるのだろう?といったことを一緒に悩んでもらえたらありがたいです。

ただ、「仕事は指示通り正確に、できるだけ早く終わらせるほうが良い」という固定化した価値観があることで、苦しんでいる人は少なくないと想像します。不得意なことがあっても、その人が持っているものを生かせる方法や環境を考えていけるような社会になってほしいと思いました。

お返事1

返信を読んで、 矛盾しているのですが、「他人に期待してばかりではダメだ」と思うのと同時に、「いつの日か誰かに理解されるだろうという希望がないとやっていけないな」と思いました。

今の社会は法律や誰かとの約束や仕事がいつのまにか自分より優先になってしまいがちだと思います。でも、それはきっと昔からそうで、社会はきっと一人ひとりに対応するには大きすぎるので、社会に何かしてもらうことを期待してばかりいても仕方がないと思うのです。

でも、送った感想の中身をスタッフの皆さんは「だいたい」理解してくれました。一つの理解にたどり着くのは無理かもしれない。でも、つらいときにつらいと言うこと、それを「だいたい」理解してくれる人がいるということは、いつか誰かと心底理解し合えるかもしれない。いやきっとそのような日がくるのだという希望がないとやっていけない気もするのです。社会は一人ひとりの寄せ集めなので、そのような人が増えれば、気づけば社会が変わっているかもしれません。社会に対して何かできることなんて、「私」のむき出しの「つらさ」を知ってもらうことしかないのではないでしょうか。それが偶然誰かのつらさを代表していれば、社会も変わると思います。

悩みを共有するのは本当に難しいことです。「だいたい」理解してくれる人がいることをありがたく思い、私も弱音を吐きながら、他の人の悩みを「だいたい」理解しよう、いや理解したい、いつの日かできるはずだ、というかすかな希望の光を頼りにして、暮らしていけたらいいなと思いました。

お返事2

【返信への返信】

●コメント1

コメントへの返信、ありがとうございます。あなたの「だいたい」理解してくれる人という表現がとてもいい得ていて、なるほど!と思ってとても気に入りました。今度、ぜひ引用させてもらいたいと思いますが、いいでしょうか?人と人とがわかり合うのはそう簡単ではなく、「理解しようとし続けることが大事」だとは思っていましたが、結果としては「だいたい理解する」という表現はその通りだと思います。

ただ、自分の中であなたの表現である「だいたい理解する」が素敵だと思う一方で、「だいたい」なんてアバウトなことを言うと周囲から怒られるかもしれない、責められるかもしれないという心配もあります。それは、私たちが学校でも仕事でも「だいたい」の結果をよしとされておらず、完璧やちゃんとした結果をいつも求められてきたからだと思います。私たちの生きづらさや息苦しさはまさに「だいたい」が許容できないことにあるのかもしれません。

実際の物事は考え方や感じ方や価値観も異なる人たちが完璧に同じように思ったり、考えたり、理解し合うことはできないことが当たり前で「だいたい」であることの方が本質なのに、なぜ私たちはこんなにも完璧さや完全であること、正解を要求してしまうようになってしまったのでしょうか。それによって、苦しみも増えているように思います。

今回、あなたに示唆を受けたよう、このサイトのつながりや出会いを通じて、本来、私たちが安心してお互いを認め合い、尊重し合って生きていくことができる社会の本質を探っていけたらと思います。

●コメント2

丁寧にお返事をいただき、ありがとうございます。一人一人が自分のつらさを発信すると同時に、他の人のつらさも理解しようとすれば、いつか社会も変わるはずだ、と信じようとする気持ちになっていることが伝わってきました。

たしかに、法律や誰かとの約束、仕事などが自分のことより優先されがちなのかもしれませんね。しかし、みんながもっと当たり前に弱音を吐ける雰囲気になり、弱音を受け入れられる寛容さが広がれば、一人一人の生きやすさを考えて法律や約束、仕事のやり方を臨機応変に組み替えることもできるのではないかと考えました。返信をいただけたことで、考えるきっかけになりました。これからもネットの居場所にご協力よろしくお願いします。

●コメント3

だれかのつらさを1人の人間が完璧に理解するのは、ほぼ不可能だと私は考えています。だから、あなたのいうように「ほぼ」理解する人たちを何人もつくって、トータルで理解してもらうのが現実的だと思います。それが、社会の中で生きる人間だからこその生存戦略なのではないでしょうか。

しかし、理解されるまでの道のりは、かなりの険しさになっています。つらさを経験した人は、理解してもらおうとする行動や発言をする力が奪われることがあるからです。それに加え、格差や差別によって人々が分断されています。この社会のなかで、お互いがお互いを理解しようとするにはどうしたらいいのだろうと考えさせられました。

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