経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

中途半端な無能で醜い自分

ただの悲劇のヒロインぶった無能の戯言ですが、私と同じような性質で一人で悩んでいる方がこの世のどこかにいて、そんな方に「自分だけじゃないんだ」と安心してもらえたら良いなと思って。

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本当の私は無能なのに、努力して努力して毎日ずっと気を張って疲弊してでも「マトモな人間」に見られたくて「マトモな人間」に擬態することにしがみついてどうにか「マトモな人間」として生きていられるように必死にやっている。
しかし実際のところ社会に支援してもらえるのは「自分の無能は病気や障害のせいだと言って何一つ努力しない人間」で、それなら私だって全ての努力をやめてしまいたい。

「頑張ればギリギリマトモになれる」という時点で、私が中途半端な無能でしかないことは理解している。
それでも、どうして努力してる私みたいな人間は社会から支援も受けられず、それどころか「どれだけ頑張っても辛うじてマトモの枠にかするかどうかの雑魚」だと冷たい目で見られることさえあるのに、何にも努力する気が無い・したくない無能は社会に救ってもらえるんだろう。
こんなことならどれだけ足掻いてもどうにもならない無能になりたい。中途半端に無能な自分が憎い。それか有能になりたい。
この先中途半端な無能として一生死ぬ気で努力していくしかないなら早く死にたいと思う。

でも自分でこの思考が甘えとしか思えなくて、それがまた苦しい。努力できるならこんな甘ったれたこと考えずに努力するべきなんだ。
こんなことを思う自分が醜い。苦しい。

でも「その気になれば努力できるけどそもそも努力する気が一切無い」のか「努力したい気持ちはあってもできない」のか、外から見ただけではわからない。
支援が必要かどうかを判断する医者や行政は、最終的には「努力したくてもできないんです」という言い分を信じるしかない。
私は明確に前者だけを憎んで僻んでいるつもりだ。けれども、傍から見れば「前者も後者も関係無く、自分が苦しいからって支援を受けている人達を非難する酷い奴」でしかないんだろうなと思うとそれも辛い。

それでもどうしても思ってしまう。
私のような必死で生きてる中途半端な無能は一体誰に救ってもらえるんですか?
それとも他者に救済を求めている時点でただの甘ったれでしかないですか?
どれだけ苦しくても辛くても、死ぬ気で頑張ればどうにかマトモでいられる私は恵まれているなあって思わなきゃいけませんか?

本当に醜いことを考えていると自覚してはいる、でもこの考えがまるっきり間違っているとも思わない。矛盾している。

もう頑張りたくない。
だからと言って頑張らないのも怖い。本当は無能なんだって思われたくない、気づかれたくない。もう嫌だ。

感想1

経験談を書いてくださり、ありがとうございます。
自分だけでは無理があるようなことを人に手助けしてほしいのに、この社会ではそんな仕組みも理解もない…と、この社会の無慈悲を憂うような、疑問を投げかけるような思いを感じ取りました。
私は、人に助けてもらう必要がない人間はいないと考えていますが、今の社会では人が助け合えるようなきっかけや空間がとても少ないと思うので、何をどうすればいいのだろうかと悩んでいます。
また、経験談から、この社会では誰かが何かをできる・できないという評価が不用意に下されやすいのではないかと考えました。「こういう評価をされたらどうしよう」という不安が周りの人との距離を遠ざけ合って、それぞれが孤立しがちなように思います。そうして一人で悩んでいると、自分自身に何か問題があるように考えてしまいそうですが、元を辿れば社会全体に蔓延っている問題を共有しているのかなと思います。ただ、問題を共有していても、問題意識を共有するのは難しいなと感じます。
死にトリでは、お互いにできる・できないという評価をするのではなく、それぞれの気持ちや考えを共有し、共に考える機会が作れたらと思います。またよければ参加してほしいです。

感想2

経験談、読みました。そして、「マトモな人間」ということについて考えていました。私は「マトモな人間」という人間がいるのではなく、明確ではないものの社会が求める一人前の人間像があり、その一定の水準を満たしている人があなたの中に内在化されて「マトモな人間」という表現になったのではないかと自分なりの理解をしたのですが、どうでしょうか。
私は、人は誰もがいろいろな能力を持っている存在だと思っています。だから基本的には無能な人はいないと思っています。でも、あなたは無能という言葉を使っています。そこには、必要とされている能力と必要とされていない能力のような違いを感じているのかな?と推測しています。あなたが持っている能力が必要とされるのではなく、周囲から求められる能力というものに、あなたが合わせなくてはならず、ずっと苦しい思いをして頑張り続ける姿を想像しています。おそらく、必要以上の頑張りを強いられている状況なのかと思いました。そんな社会は生きづらいし、冷静に考えると誰も幸せにならなさそうだと思います。でも、社会の中では何となくそれが当たり前のようになっているのかもしれません。
私の素直な気持ちを伝えると、頑張るのはどうぞやめちゃって下さいと思います。同じような思いをしている人たちもいると思うので、そんな人たちがみんな、頑張るのをやめてしまったらいいと思います。そして、必要以上に頑張るのをやめても、一人ひとりのその人なりの頑張りを持ち寄って、助け合える社会にするにはどうしたらよいか、一緒に考えていきたいと思いました。

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