経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。
子どもの頃から周りの人に対しての関心が薄かったように思う。来るもの拒まず去るもの追わずで、友だちはいつだっていたけど、1人でいる方が好きだった。よくマイペースと言われた。元々の性質がそうなんだと思う。
家が機能不全家族だった。小学校に上がる頃に両親が離婚し、母、兄、自分の母子家庭になった。元々、不安定さのあった兄は荒れるようになり、八つ当たりに殴られる日々が中学上がるまで続いた。少しのドアの音、足音が怖かったのを覚えている。この時から希死念慮はずっと一緒にいる友人だ。母も基本的にダメな人だった。人の気持ちを理解することが難しい人で言葉が通じないで理不尽に怒られる事も少なくなかった。高校の時に母が再婚したがロクデナシで2年で離婚。この時に母を親として信じる事を諦めた。
高校卒業、専門学校に進んだ。この時代から少し平和に過ごせるようになった。
平和に過ごせるようになって感じた事は、人に興味が持てない事だった。正確には、人といるよりも1人でいたい自分に気づいた。ただそれで困る事もなかった。
仕事をして、1人暮らしは楽しかった。希死念慮がなくなる事は無かったけど、怒鳴り声や暴力のない生活はそれだけで快適だった。
仕事の中で、自分の何かがズレてる事に気がついた。
人の顔が覚えられない。世間話を継続出来ない。人に対する興味の薄さの弊害が出ていた。
うっかりミスが多い。周りの当たり前が分からない。暗黙の決定に気付けない。努力が出来ない。
診断はしてないがアスペルガーか発達障害、あるいはグレーゾーンなんだと思う。スキゾイドっぽくもあるが、わからない。
趣味もある。好きな事もある。ただ、それが生きる理由に繋がらない。
希死念慮はずっと友人だ。毎朝毎晩、死んだら楽かもよって語りかけてくる。そうかもねって返して、死ぬ方法を考えてみるけど、確実な楽な死に方なんて見つからない。万が一にも後遺症を残して生かされるなんてごめんだ。それくらいなら、真綿で包まれて呼吸が苦しい方がずっといい。
辛い訳じゃない。
お散歩もバイクもキャンプもアニメも読書も楽しい。
なのに、一時的な楽しさが生きていたいに繋がらない。
感想1
経験談を読ませていただきました。整った文章だなという印象を受けました。
あなたが家庭で常に感じていたであろう恐怖や不信感が、感覚の根底に染み付き、生きる気力を削いでしまっているのかもしれないと想像しました。
また、希死念慮を「友人」と呼ばれていたのが、独特だと感じました。あなたにとって希死念慮は他の誰よりも近くて大きい存在なのだなと思いました。
「希死念慮がなくなる事は無かったけど、怒鳴り声や暴力のない生活はそれだけで快適だった。」
この文章がとくに印象的でした。
怒鳴り声や暴力のない生活は、全ての人に当然に確保されてほしいと願っていますが、現実はそうなっていないことを悔しく思います。子どもの場合はとくに、怒鳴り声や暴力を受けながら生活していても、その状況を家庭外の誰かに知ってもらうことすら難しいのだろうと思います。安全に暮らせない家庭を出るまでに何年も何十年もかかり、気づかれることもないまま耐えるしかないような現状を、何とかしなければならないと思っています。そのためには世の中の何をどう変えていけばよいのか、知恵を出し合う機会があればなと思いました。
感想2
周りの人と違うことに気づき、自分はどういう人なのか考えたり、調べたりしてきたのかなと思いました。
私は、発達特性があってもなくてもいいと思いますし、人に興味を持たなくてもべつにいいと思いますし、一人で過ごす楽しさを知っているならば、それは大切なことだと思います。ただ、投稿者さんは人と違うことによって実際の「弊害」と感じることが少なからずあったから、楽になるために必要で、自分のことを考えたのかもしれません。
また家庭で安全が守られず、「信じる事を諦め」ざるを得ない状況があれば、人に興味を持つことは危険だと思うようになることもあるかもしれないと想像しました。
これは的外れかもしれませんが、アニメや読書もまた「人」から完全には切り離されてはいないものなのではないかとも思いました。そういう意味では、リアルな人と関わることには懸念があるけれど、近づきすぎない関わり方はいろいろあるのかもしれないとも思いました。
投稿者さんは一人でいる方が好きだとすると、今回書いてあるような経験や感覚をだれかに話す機会はあまりないのでしょうか。経験談を投稿してくださったのにはどういう理由やきっかけがあったのかなと思いました。
また、生きることについて、「真綿で包まれて呼吸が苦しい」という感覚が書かれていて気になりました。投稿者さんは「平和」と書かれていましたが、一方でどこか不安が残っているのかもしれないとも想像しました。あるいは仕事などで感じる「ズレ」がそうさせるのか、それともその他に理由があるのか、よければ、もうすこし聞いてみたいと思いました。
感想1
経験談を読ませていただきました。整った文章だなという印象を受けました。
あなたが家庭で常に感じていたであろう恐怖や不信感が、感覚の根底に染み付き、生きる気力を削いでしまっているのかもしれないと想像しました。
また、希死念慮を「友人」と呼ばれていたのが、独特だと感じました。あなたにとって希死念慮は他の誰よりも近くて大きい存在なのだなと思いました。
「希死念慮がなくなる事は無かったけど、怒鳴り声や暴力のない生活はそれだけで快適だった。」
この文章がとくに印象的でした。
怒鳴り声や暴力のない生活は、全ての人に当然に確保されてほしいと願っていますが、現実はそうなっていないことを悔しく思います。子どもの場合はとくに、怒鳴り声や暴力を受けながら生活していても、その状況を家庭外の誰かに知ってもらうことすら難しいのだろうと思います。安全に暮らせない家庭を出るまでに何年も何十年もかかり、気づかれることもないまま耐えるしかないような現状を、何とかしなければならないと思っています。そのためには世の中の何をどう変えていけばよいのか、知恵を出し合う機会があればなと思いました。