小学校高学年くらいから漠然と生きることに対しての気力が無くなった。それは大人になった今でも続いていて、成長するにつれて明確な死にたいという感情になってしまった。
私の母親は、思いがけずできた私を若くに産んだ。母はヒステリックで、気分屋で、自由人で、幼い頃から私も父もそれに振り回されまくっていた。
早いうちから両親の関係は破綻していたけど、それでも母は変わらなかった。母は、すぐに怒るし自分が間違っていても絶対に認めないし謝らなかった。単純に私と母は合わないのだろうな、と今では冷静に考えられるけど子供の私にはなんでそんなに怒っているのか分からなかった。
妹が産まれてから、母は妹ばかりを可愛がった。妹が悪い時でも私の言葉は一切聞き入れてもらえないから、気が狂ったように怒られるのはいつも私だった。
中学に入った頃にはかなり反抗するようになっていたけど、一度だけ泣きながら「妹と贔屓するのやめて。私の話も聞いてよ」と母に訴えたことがあった。その時、母もハッとした顔をして「ごめんね」と謝ってきたから、私は初めて自分の思いが母に伝わったんだと嬉しくなった。
でも、次の日もその次の日も結局何も変わらなかった。あの時初めて、裏切られたという感情を抱いて本当に悲しくて惨めだなあと思った。母が意味もなく不機嫌な時は触れないようにしていても、私の言葉一つで狂ったように怒る。もはや発言者が私だから怒られるといった感じになっていた。一度、包丁を持ったまま怒った母が私に向かってきた時は、殺されると思った。この感情は今でも悲しくて忘れられない。親に殺されるかもなんて、思いたくなかった。そんな環境でも父は仕事ばかりだし母とは仲が悪いから、何か口を出したり私を庇ったりすることはなかった。
思い返すと悲しくなることが多くてあまり蓋は開けないようにしているけど、ずっと家に安心できる場所はなかったし学校にも安心できる場所はなかった。
大きないじめはなくとも、学校の友達から陰口や無視をされて仲間はずれにされる時期もあった。だからといってあの時の私は人を頼る術を知らなかったし、人前で泣くことは恥ずかしいことだと思っていたから学校でも誰かに相談したことはなかった。
家庭環境が全てだとは思わないけど、確実に私の性格に影響を及ぼしていて、大人になった今でも人に期待をできず、信用することもできず、うまく大切にすることもできない。
周りのみんなが当たり前にやっていることが、自分には難しくて落ち込むことが多い。
家を出て距離があいてからは母との関係も昔よりは良くなって、大人になった今ではわりと穏やかに生きられていると思う。
それでも悲しいくらいに身についていない自己肯定感とか他人を信用できないせいで人のことをしっかり理解できないところとか、顔色ばかり伺って人付き合いに疲れてしまうところとかは健在している。
何もなくともいつ死んでもいいやという気持ちが何十年も消えない。死のうとしたことは一度だけあったけど、結局失敗した。
母がそうだったから、普通の常識をあまり知らず、外で恥をかいたこともたくさんある。
今でも自分が人とずれているなあと思うことがあって、その度に普通になれていないんだと落ち込む。
死にたいの理由は単純に生きることに疲れているから。
どれだけ友達と楽しい時間を過ごしても、恋人ができても、趣味があっても、この気持ちが消えることはなかった。
全体的に能力が乏しく、秀でたものもなければ誇れるものもない。補うために努力をしてきたこともない。
頑張ってこなかった自分が悪いとは思っても、ただずっと生きることに必死だった。
いつも何かある度に心の中で「許してほしい」と願ってしまう。だれに許しを乞うているのかは分からない。
毎日、普通の人として生きていくのがかなりしんどい。自分のことは自分で救わないとだめだと思って色んなことを試してきたけれど、いまだに救い方が分からない。つかれた、もういいやばかりで何も変わらない。
ずっと生きることに疲れている。どう頑張っても生きることに執着ができないから、生きたいと思えない。本当にただただ早く人生を終わらせたい。
感想1
経験談を送ってくださり、ありがとうございます。生きる気力がない、生きることに疲れた、と感じる背景について、かなり整理して書かれていると思いました。それだけ、あなたが自分に向き合わされてきたのかもしれないと思いました。
これを読むと、母さんは相手の気持ちを考慮せずに自分の感情をぶつけ、気の向くままに事を運ばせようとする人だったのかなと捉えました。だから、あなたが自分の気持ちを表現することも、母さんのいる家で生活することも、むずかしく、苦痛が伴うことだったのではないかと想像しました。そして、自分の生存を否定すること(死にたいと思うこと)によって、苦しい現状の埋め合わせをしようとしたのだろうかと考えました。
これも想像ですが、あなたの中に、人に言っても分かってもらえないだろう、信じてくれないだろう、という気持ちがあるのかなと考えました。母に分かってもらえたと思ったのに、そういうわけではなかった、という経験などが影響しているのかもしれません。だから、あなたが信頼できる人を求めているのと同時に、自分を信頼してくれる人を求めているのかなぁと思いました。これまでずっと必死に生き抜いてこられたことが伝わり、でも本当ならそれほどの努力をしなくても生存が許されて(いると感じられて)しかるべきで、そうならなかったのは、社会の環境に不備があったということだろうと思いました。ただ、今のあなたは生きるための必死の努力に慣れているから、それを続けなければいけないと感じているのかなと想像しています。
どんな環境や場面であれば、あなたが必死にならなくても安心していられて、信頼する・されるような経験ができそうかなど、これからも死にトリに参加してもらうなかで深めていければいいなと思いました。