中学時代の経験がトリガーとなって、ずっと、「死にたい」から逃れられない。
私の家庭環境は他者から見れば恵まれたものだった。衣食住には困らないし、家族旅行にも行く。しかし精神的に私の居場所は家庭になかった。両親・祖父母の価値観で縛られてしまうからだ。趣味を否定され「おかしい」「あんな風になるな」と形容される、信じたくもない宗教への加入・「勉強会」への参加強要をされる、容姿を揶揄される…など例を挙げればきりがない。価値観に背くと、普段は過干渉気味に接する癖に「もう勝手にして」「家事も自分でやって」と突き放される、無視されるなどの仕打ちを受け、幼少期の私は怯えて顔色を窺っていた。価値観に合致すれば笑顔で優しく対応してくれるため。平穏を保つために自分を殺していた。
それが我慢の限界に達したのが中学生時代の出来事だ。私は運動音痴だったが母の意向によりバスケットボール部に所属していた。しかし技術的に劣っていたためか顧問の教員からも部員からも雑に扱われていた。捻挫をして床に座り込んでも誰も気に留めてくれない、練習内容について振り返る際私に対して一度も言及してくれない、努力を認めて貰えない、などつらいことが沢山あった。追い詰められて「部活動をやめる」と言った。顧問の教員は慌てるだけで私の気持ちを聞いてはくれないばかりか、私の許可なくクラス担任に出来事について報告してしまった。担任も私の気持ちについて聞くことはなく、「残された部員の気持ちを考えたことはあるか」と日記に赤字で書いてきた。家族は「途中で物事を投げ出すこと」はいけないと言って取り合ってくれない。私は追い詰められて、「明日が来ませんように」と思うようになっていた。自殺という言葉も知らなかった。けれど真冬に冷水を浴びた後冷房をかけた部屋に籠って風邪を引こうとしたり、窓の淵に手をかけ深くのぞき込んだりしていたあの時の気持ちは、今思えば、「死にたい」に尽きる。
それから結局私は居場所もケアもないまま、ただ耐えた。その経験は私の中にこびりついて、一生取れないだろうと思う。家族への不信感、大人への不信感、劣等感、自己否定感、希死念慮、全てが集約され発露した出来事だった。
ではそれが私の「死にたさ」の全てかというとそうではない。中学生時代の経験自体の苦しみだけでなく、二次災害的な苦しみが生まれている。1つ目に「誰かに心配されたい」という強い欲望だ。中学生時代しかるべき時にしかるべき配慮をされなかったせいで、私は他者からの気持ちに飢えている。例えば最近身体的不調から病院を救急で受診した。そこで医師や看護師が私の不調の原因を探るべく色々な機械をあてがったり、考えたり、「大丈夫」と声をかけたりして下さった。私はその時、不謹慎にも、「はやく良くなりたい」という気持ちよりも「このまま悪くなって心配されながら死んでしまいたい」と思った。大勢が私の事を思って行動してくれることが異様に幸せだった。その幸せが悲しくて、つらくて、申し訳なくて、さらに死にたくなった。
2つ目に、「誰にも理解されない」という強い観念だ。前出した心配を受けるためには誰かに苦しみを表出する必要がある。しかし私は苦しみを話しても誰にも分かってもらえるはずがない、という思いから打ち明けられない。少し仲が良くなった人でも、心を許せない。きっと私の他にも、私の陰で仲良くしている人がいる。私でなくても構わないのなら、私はいらない。そんな思いで、関係を絶つ、あるいは距離を置く。でも誰かに気を配って欲しい欲望もあって、そんな、相反した気持ちの間で、私はどんどん、すり減ってしまう。
3つ目に、苦しい事があった時の適切な対処法が分からないことだ。中学生時代の出来事があまりにも苦痛だったのに、耐えてしまったせいで、今苦しいことも本当に苦しいと言って良いのか分からなくなる。例えば就職活動で何社も不合格を突き付けられること、勉強との両立が難しく自信を失っていること、卒論が進まないこと、死にたいと思わない日がないこと、全部、どう対処したら良いか分からない。反対に、直面して乗り越えることで成長に繋がる事象であっても逃げてしまうこともある。例えば、これは現在起こっていることだが、班活動で議論が停滞したり、班員から期待した反応が得られなかったりすると、連絡をやめてしまう。もう何日も返信していない。これは中学生時代の経験ではなく、経験のせいと蓋をする私の甘さ・弱さではないかと、薄々思っている。だから、つらい。私はどこまでいっても過去に囚われて過去を言い訳にして甘えたままの人間にしかなれないのだと、思う。就職活動では「つらい経験をバネにして乗り越えた」話が好まれる。私は乗り越えたふりをして話す。でも一生乗り越えられない。
今分かる理由や経過、まとまった思考は上記が全てだ。以下は率直な今の思いだ。
もう何もかも捨てて消えてしまいたい。元も子もないしサポートのしようもないと思われるかもしれないが、私にも、どうしたら良いか分からない。もう努力するのに疲れてしまった。つらい経験を乗り越えることも、課題を解決していくことも、勉強も就職活動も人と関わることも生きることも何もかもやめたい。就職活動のモチベーションは死ぬための環境を手に入れる事。一人暮らしをして、浴槽に水を張って、睡眠薬を飲んで眠ってしまえば楽に死ねるだろうなとそんなことばかり考えている。あと少し死ぬために頑張ろうと、よくわからない生き方をしている。趣味ややりたいことを見付けてモチベーションにすれば良いだろうと思うが、それもできない。趣味を楽しむ心の余裕も体力も楽しいと思える気持ちもないからだ。早く死んだら趣味なんかで時間を埋める必要もない、そう思ってしまう。死にたいという気持ちしかもう残っていない。向上心も知的探求心も趣味を楽しむ余裕ももう何も私にはない。大学生活、優しい教員に穏やかな環境、一人でも成り立つ学業、人間関係のしがらみのなさ、何一つ、外的な苦しみはないのに。贅沢で傲慢だ。死にたいと人に言えない。助けてと言えない。今相談に乗って貰っている方がいるが、自殺念慮について口に出すことが難しい。なぜかはよくわからない。どういえば良いのか分からないし、「死にたい」と言って何が変わるわけでもないからだ。変えられないからだ。自分が良くない状態であることは分かっているし、どこか治療を受けた方が良いんだろうとも思う。でも、治療を受けたり休学したりした先に何があると言うのか?何のために頑張ったら良いのか?がんばる理由も、生き続ける理由も、わからない。遠くに行って眠るように死にたい。
感想1
文章を読んで、これまで、今もギリギリのところで生きてこられたのだと思いました。文章中の「真冬に冷水を浴びた後冷房をかけた部屋に籠って風邪を引こうとした」「窓の淵に手をかけ深くのぞき込んだりしていた」などのエピソードは、幼いながらに死と共存しながら、やり過ごしていた様子が伝わります。辛いという実感をもちながらも、周囲に頼れず、自分の中でとどめたり、我慢することが最善策と思ってやってこられたのだと思います。となると、あなたのいうように、適切な対処法が分からないというのは、色んな苦しいことを経験した今のあなたの答えなんだと思いました。コメントを書いている私自身、辛いことを辛いと感じ、何かにじっくり向き合うことから逃避してきたタイプです。経験談の投稿のつながりから、この社会がどうなったら生きやすくなるかとか、しんどい時どんな方法だったら気持ちが和らぐのかあなたと一緒に考えてみたいと心から思いました。