こんにちは。Twitterからこのサイトのことを知りました。
つらチェックを受けてみて、改めて自分を顧みることができたので、体験談を書こうと思いました。
私は自分のことをかなり恵まれた人間だと思っています。このサイトの体験談を一通り読む中で、改めてそう認識しました。
私の両親の仲は良好です。二人とも働き者で、酒もたばこもギャンブルもせず、贅沢はできずとも、私や兄妹を大学院に進ませて、その費用まで負担してくれました。
やや過保護なところがあり、経済的自立が行えていないのかもしれません。しかし、その選択は自分に委ねられているので、単純に自分が甘えているだけということになります。
束縛を受けている感覚もなく、しっかり愛情を持って育ててもらえたと思っています。
それでもふと、死にたいと思うことがあります。
今はその理由が、自分が社会に馴染める自信を持っていないからではないかと考えています。
私は昔から、叱られる、怒られるという体験を極端に苦手とします。
親との喧嘩は数多くあるのでそれが本当かも断言しにくいのですが、親以外の誰かに叱られた体験は幼少期から遡っても覚えていることがあります。
今でも叱られるようなことがあると、それがたとえ小言でも大変なショックを受けてしまい、少なくともその日一日は何も手が付けられなくなります。また、それから数日間は調子が悪くなります。
そのため、自然と怒られないように振舞うようになりました。あるいは、いい子にしていたら褒められたことが嬉しくて、そちらを優先した結果、経験不足から怒られるのが苦手になってしまったのかもしれません。
成績を高く維持していれば親や先生から怒られることはありません。それを大学院生まで維持してしまっているのが、精神的な幼さを象徴しているような気がします。
さらに、私はかなり要領が悪い人でもあります。
典型的なシングルタスク型で、マルチタスク状態になるとすぐに混乱してしまいます。大人数が受けるアンケートやテストなどでは最後の一人まで残り、接客などの仕事や家事も周りの人の三倍以上の時間がかかります。
これと、前述の叱られることを恐れる気質を掛け合わせると、仕事ができない人間ができあがります。もっと打たれ強ければ慣れでカバーできたのかもしれませんが、それとは対極にいるような人間でした。
おかげでバイトの類はどれも長続きせずに辞めてしまい、親の支援を頼るしかなく、自信を失っています。
高専という五年制の学校に入学した頃(一般での高校一年生)からつらさが表出し始めて、心のもやもやに折り合いを付けることができず、学生相談員の先生に相談をしに行ったり、学校のカウンセリングを受けたりしていました。
高専三年生のときが最も深刻で、所属していた運動部の顧問とかなりもめて喧嘩別れのようなものをしてしまい、不登校になる寸前のところまで行きました。
自殺願望が最も強かったのは高専四年生の頃だったと思います。良くも悪くも人間関係が継続していたので、部活を辞めても学校で部員や顧問と否応なく顔を合わせてしまうのが大きな負担になっていたのかもしれません。
当時は今のように冷静ではなかったので、常に死にたいと考えていて、毎日がつらかったです。自傷行為までは至らなかったので客観的には軽い症状だったのかもしれませんが、主観的にはかなりしんどかったことは確かです。
高専は学科に拠りますが男性の割合が多く、自分が所属する高専はほぼ男子校でした。さらに、まだ昭和的な風土が残っていて、厳しい上下関係の指導や体育会系の気質がありました。
自分の性別も男性で、「男なんだから甘えるな」という類の言葉を数多く受けてきました。かなり差別的な発言となってしまいますが、自傷行為に走らなかったのは、それが理由のひとつにある気がします。
環境が合わなかった部分はあるかもしれません。しかし、一度落ちた成績はなんとか持ち返し、皆勤賞を取得して卒業しました。周りは称えてくれましたが、自分は成績や出席に特に価値を感じることができず、内心は苦しいままでした。
また、資格の勉強や運動といった自主性が問われる取り組みへの意欲が薄れていったのも高専生の頃からでした。
成功体験と呼べるものは、高専三年生のある資格試験の合格以降で止まっています。それ以降の挑戦事はことごとく挫折し、自分は何をやってもだめな人になってしまったな、と努力を避けるようになりました。
大学に編入してからも何もやる気が起きなかったので、流石にカウンセリングだけでなくしっかりと診てもらおうかと思い、メンタルクリニックを受診してみました。
結果は、少しだけ抑うつの傾向があるだけで問題はない。軽めのお薬だけ処方しておきます。というものでした。
それ以降、相談する相手が、というよりも自分自身が信用できなくなりました。
「自分は発達障害かもしれないと思って診察を受けたら、ただの健常者で怠け者なだけだった」という言葉がインターネットにはありますが、自分はまさにその類の人間でした。
しかし、その診断結果はなんとなく予期していたものでもありました。
というのも、私は頑張れば周りの人と変わらないように過ごすことができるためです。
人間関係の構築や接客といった苦手分野も、本当に頑張れば(内心では泣きそうになりながらも)なんとかこなしていけます。やりたくないからやらないだけに過ぎないということです。
後々、ある本を読んで私は内向型のHSPらしいということが分かります。
本当に闇の深いことを言うと、私は現実の身の回りにおいてHSPという気質に価値を感じたことはほとんどありません。特に男性に救いはないだろうと思っています。
生まれた時点で備わっていて直ることはないらしいこの気質については、後でまた取り上げます。
高専二年生から大学四年生まで、場所や担当者が変わりつつも定期的なカウンセリングを受けてきましたが、特に心境が変化したことはありませんでした。カウンセラーさんの方も扱いづらい印象を私に対して抱いているようでした。
自分の相談の仕方も悪かったのかもしれません。とにかく話が噛み合わず、共感や理解を得られたという経験は一度もありませんでした。
本当はカウンセリングなど受ける必要もない健常者だったからかもしれません。今でも少し自分を疑っています。
話すときには自分のつらい記憶や気持ちを引っ張り出さなければならないので、カウンセリングの後はむしろ苦しさが増しているようでした。
こうやっていろいろとうまくいかない学生生活を過ごしてきて、大学院に入ってからはほぼニートのような生活を送っています。
本当は研究が好きだったはずでした。たくさん論文や本を読んで勉強しつつ、がんばってアウトプットもこなしているような自分を思い浮かべていました。しかし今は、それとは程遠い姿でこうやって体験談を書いています。
来年は就職します。自分の気質は既に分かっていたため、噂でもなんでも、社員さんが優しいと言われている会社を選び、なんとか内定を受け取りました。
ただ、それでも入社後が怖くてたまりません。マナー講習などで簡単に心が折れてしまいそうです。飲み会が苦手すぎて大人の人付き合いというものについていける気がしませんし、仕事をする以上、叱られたり苦難に立ち向かったりするのは避けられないと思います。
そのときに、自分がどうなってしまうのかが分かりません。本当に怖いです。
辞めたり病んだり死んだりしてしまえば、それだけ会社や親、学校に迷惑がかかります。数年後のキャリアデザインすら立てられず、ただ暗い未来を予感するばかりです。
私は今、自分の自殺願望に焦点を当てて小説を書いています。
体験談を書いている最中にも「自分は死にたいと思っていいような境遇の人間ではない」という考えが何度も浮かびました。それは客観的な事実でもあります。
ですが、過去に強い自殺願望があり、それを今も抱えていることは、どうしようもなく事実としてそこに在るので、何とかして言語化を試みようとしています。
私は小説を書くことが趣味です。高専生の頃から書き始めました。
趣味と呼べるほど高尚な行いはしていないし、半年以上何も執筆しないこともざらにありましたが、それでも今までに何本かの小説を書いてWebサイトに投稿してきました。
ここで初めて、私のHSPの気質が活きました。小説を手に取ってくれる読者さんがいて、「美しい物語だった。この作品に出会えてよかった」と言っていただくことができました。
SNSですら自分を演じがちな私ですが、小説の世界でなら自分を表現することができました。
Web小説なので、お金は一銭も入ってきません。さらに私は執筆速度も異常に遅く、数千字を書くためにその日一日を潰すこともざらにあります。この体験談も、一日をフルに使って書いています。
本来は、そこでバイトや学業に精を出して生産を図るべきなのに、周りの人々はそうしている中で、ただ表現するためだけに家に閉じこもって小説を書いています。世間から許される類の趣味ではないだろうと思っています。
二年ほど前、自殺願望が強く出た日に、似たような題材で短編を書き殴って投稿したことがありました。
朝の準備の遅さや、急にキレる教授への恐怖、友達がいないことなど、世間では甘えと断じられるようなものばかり綴りました。そのため誰にも読まれないか、批判を受けると思っていました。
しかし、届いた感想には程度の差はあれ共感が多くありました。感情が強すぎてショックを受けた、という言葉には申し訳なく思いましたが。
一番心に刺さったのは、「こんな人がいるとは思わなかった。大事なことだと思ったので憶えておく」という感想でした。それこそ、本当に誰かを救うかもしれない言葉でした。
Webサイトの利用者層というものは固まるものです。案外、器用に生きられずに苦しんでいる人は多いのかもしれないとそのときに思いました。
大学院生の私の身の回りには、そしてこれから就職していく先にも、そんな人は誰一人としていなさそうな雰囲気だったので、少し不思議に感じました。
次に書く小説は、死にたいという気持ちを実現まで持っていくにはどうしたらいいか、に焦点を当てていくつもりです。
いくら死にたいと願ってもなかなか死ねないどころか、それは自己愛の裏返しでただ一方的に救われたいだけ、という救いのなさを、せめて物語の中で踏み越えてしまおうというものです。つまり、自殺推奨の小説です。
以前よりもさらに抽象的で、読者さんが何も読み取れないかもしれません。でも、自分に何かあったときの遺書の代わりにもなるので、学生で在れるうちに頑張って書いていこうと思います。
今の私の身の回りの社会(狭い)は、多数派から価値が与えられなければ、何かの役に立つことが証明されなければ、存在自体が許されないのだろうなと思っています。
研究をしていても、成果の出にくい基礎研究は予算が削られたり、学校から詰問を受けている様子が伺えます。「実際にやっていることよりも、やっているように見せかけることが大事」なんて声も聞くようになりました。
それは人々の心を強かにするというよりも、心が折れてしまう人を増やし、そして着実に人を殺しているような気がするのですが、今の社会はそのための人殺しなら許容してしまいそうな印象です。
役に立たない人間は役に立つ人間の負担になるので死んでもらった方がまし、なのかもしれません。このとき私は、間違いなく役に立たない側に割り振られるだろうと思っています。
死にトリの体験談を読み進めていく中で、思わず天井を仰いでしまうような記述を何度も見かけました。
私は希死観念の方をあまり持たないのですが、それは両親からしっかりと愛を貰えたおかげなのだということに気付かされました。また、人生を狂わせてしまうような人に出会っていないという幸運もありました。
その上で、この言い方は本当に意地が悪いというか。ひねくれていて、自己中心的なものなのですが。
私は本当に幸せで、幸せに生きないといけないはずで、だからこそ死にたい。
そんな自殺願望は、果たして許してもらえるのでしょうか。
今まで許してもらえたことはなくて、同じ息苦しさを感じている人が社会に潜んでいるかもしれない。この本当の甘えの塊のような存在は、存在してもいいのでしょうか。
かなりの長文となってしまいました。ごめんなさい。作家なら規定文字数を守れという話なのですが、2000字もオーバーしてしまいました。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。スタッフさんもご自愛ください。
感想1
文章を読んで、ご自身のことをよく考え、よく勉強してきたのだろうと思いました。そうして培われた言語化の力は、とてもすてきなものだと思います。
恵まれていて、しあわせ(であるべき)。それなのに死にたい。とても共感しました。
「自分の認識している自分自身の生活をさまざまな水準で比較したときに、これはしあわせと呼ばなければいけない状態である気がする。それなのになぜこんなに苦しいのか。死にたいなんて私はおかしいのではないか」私自身、そんなふうに考えた経験がたくさんあります。
でも、考えてみれば、しあわせかどうか決めるのは自分で、しかも「しあわせな瞬間がある」ことと総体として「しあわせである」ことはべつのことです。だから、声を大にして死にたいと言っていいのではないかと思いました。
へんな言い方かもしれませんが、役に立つかどうかって、どうでもいいことだと思います。「わかりやすく役に立つもの」にたいして、私はうたがいを持っています。
役に立つかどうか決めているのはなんでしょうか? それは社会です。それによって隠されてしまっているものはなんでしょうか? ……社会とは人が作ったものですから、不完全で不十分です。そこで行われる判断は、不完全で不十分な判断だと思います。そこに選ばれた「役に立つもの」だけが素晴らしいなんて、どうして言えるでしょうか。
私も小説や、詩や文章を書くことが好きです。それはたしかに「役に立たない」と言われるものかもしれません。でもそうだとしても、私はそれらを愛していようと思います。それが窮屈なこの社会のなかで、本当は余白・余地になることもあると思いますし、なにより、書いているあいだ、読んでいるあいだ、愛しい気持ちをもち、しあわせを感じることができるからです。
こうして経験談を寄せてくださったこと自体、だれかにとって意味のあることだと思います。でもそうでなくても、たとえだれからも意味が与えられなかったとしても、あなたがここにいていい、すてきな存在だということは絶対に揺るがない、確かなことだと思います。
経験談をお寄せいただきありがとうございます。
あなたの小説を、いつか読んでみたいと思いました。