経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

自分が良くわからない

勢いで書きました。文章めちゃくちゃですみません。

死について考え始めたのは中学2年生の時だったかと思います。小学校のころから珍しい苗字であだ名をつけられ揶揄われ、中学に入ってもなくならずにむしろ悪化しました。といっても相手の聞き間違いから不名誉なあだ名がいじめる側の人間に広まった挙句、初対面の人にも自分のことを知られている状況になったというだけなのですが…
当時は言ってきた相手を追っかけ回していたのでストレスはそこまで溜まっていなかったと思います。それでもやはりストレスは少しずつ溜まり、ふと死について考え始めました。
そして高校生。いざ学校が始まったものの、今までは、相手に絡まれるぐらいしか喋り始めるきっかけがなかったので友人は作れず。自業自得なのですが、リモート授業期間中だらけていたせいや周りに馴染めず競う相手や喋る相手がいないせいで勉強に身が入らず、又、今まで兄のした選択をなぞってきた結果目標があるのに目標がないという事態に陥っています。親や兄(結構良い大学へ行った)にはそこを受けるかは別としてその大学(一応目標になっているところはある)に行くつもりで勉強するか、今を楽しんで別の道を探すか腹を括って決めなさい、と言われます。私は小学校のころから塾(そこそこ高いとこ)へ通い高校生になるまで通わせてもらっていました。しかし勉強も基本受け身で、言われたことをしていただけでそこから何かを得ようとかは考えていませんでした。そもそも塾も兄が通っていたから行っていました。けれどもそこにたくさんの費用がかかっているのは間違いないし、高校も進学校なので大学に行った方がいいとは思います。一方で、今を楽しむという選択肢も理屈では理解出来るものの、今の環境と、今までの経験、そして何より今まで他の人間には頭が良いキャラを演じていたのでそこのプライドから行くと納得出来ません。かと言って腹括って勉強出来るかと言うと、その決断をして且つ実行する気力と体力がありません。恵まれた環境だというのは理解しています。勉強も、別に社会に出て嫌なことでも出来る力を身につけて、周りに無能だと思われてほしくないだけとも言われています。けれど心のどこかで『しっかりした人間を育てた自分を誇らしく思いたいだけなのではないか』と思ってしまいます。本当は違うのでしょう。けれどもどこかでやはりそう考えてしまいます。
私は今まで受け身でのうのうと、呑気に、気楽に、楽観的に、生きていました。そのツケが回っているのだと思います。勉強すると口では言ってもすぐにスマホをいじり本を読み、思ってもいないことを口に出し、コミュニケーションもろくに取ろうとせず、夜中までラジオを聴いて夜更かしをする。そんな生活をしています。そうでなければ1人寛げる時間が作れません。勉強を監視されているのも今まで自分がサボったからだし、そんな環境を嫌になって死にたいと思うようなことは烏滸がましいとも分かっています。ただ、それでも、死に方について調べたり、死生観の哲学書を図書館で探す自分がいます。それどころではなく決断しなくてはならない時なのに。父も病気で制限を受け我が儘になったり、情緒不安定になったりしてそのせいで母の愚痴を聞かされ、だけど自分の愚痴は家族の恥なので話せずストレスが一層溜まる日々。信頼にするに値する人間は身近にいない。いたとしても関係性が変わるのを恐れて多分言えない。見知らぬ人は信用出来ないしましてや信頼には値しない。どうすれば良いかわからない。死にたい。というより生きていたくない。けど死ねない。死にたくない。親に迷惑かけてられない。自殺するにしても周りに迷惑をかけてしまう。いっそのこと事故で楽に痛みを感じる暇もなく死ねれば幸せだと思う。そうすれば今の辛さから解放されるのかなと思います。最近の親の諦めとまだ出来るという期待と優しさの混じったような言葉がストレス。

感想1

経験談を投稿いただきありがとうございます。

あなたのご家庭では学力や大学などの肩書にとても重きを置いているのだな…というのが読ませていただいて一番最初に感じたことでした。大学の通い方や受験の仕方もしっかり勉強して親やお兄さんのような結構いい大学にいくか、今を楽しむか2択ではないと思うし、そもそもあなたの人生なのに親や家族によってレールを敷かれているような感じがとても違和感を感じました。極端な話だらだらして高校生活を送っていても欠席がないので推薦で大学に受かっちゃったり、専門学校の場合選考自体が全然厳しくなく専門的な技術を学ぶ機会が得られたりなど、様々な選択があると思うのですがそれを親の期待によって2択に絞ることを迫られたり…うーん。。。

あなた自身が勉強できるキャラを手放したくない、というこだわりのもとに選択をするのならともかく、うーん。。。
なんか、目標をもって生きたり、努力をしないと、生きてはいけないのでしょうか?

なんとなく、という選択で選んだ先がとてつもなく自分にフィットすることだってあるだろうし、そもそも10代でまだ社会の右も左もわからない段階で本当に自分が何をしたいかなんてわからないのに、何か目標とか夢を持つとかを求めてくるのって、逆に地に足がついてないんじゃないかと思うんですよね…社会に出て何かを強制的にやらされている中で自分の好きや得意不得意、やってみたいがようやく出てくるのでは、それなのに受動的な授業をしてくる学校が目標、とか求めてくるのって、変じゃないですか?

「呑気に、気楽に、楽観的に、一人で寛げる時間」を作れるって、最高で最強だと思います。自分を寛がせてあげられること、好きなことがある、って意外と難しくて趣味がなく楽しいことも見つけられない人も私はたくさん知っているので、それができることに生きる力を感じます。

あなたのまわりは「結構いい大学に出ている立派な人間」で、でもあなたは周囲に「信頼できる大人」はいないと感じている…そのことからも、けっこういい大学に出ているからと言って立派で信頼できる大人になれることとは直結していないのではないか、そもそもいい大学を出たら社会に出て立派にやっていけるのか…謎です。

私は大学を出る、ということを否定しているわけではありません。大学に入るために受験勉強をし、4年間で卒業できるだけのミッション(単位や課題など)をこなす、そのこと自体がすごいことだと思います。4年(+受験勉強期間)も一つどころにいたり、何か一つのことを続けてきたことが過去の私にあっただろうか…と考えると続け続ける力や努力することは身につきそうな感じはします。

個人的な考え方かもしれませんが、何かを長く続けるには、こっそりだらだらしたり、自分を甘やかしたり、好きなことをしたり…そういう力の方が、黙々とミッションに向かって計画的にやっていくよりも必要な感じが、生きていて、私はします。何より、生きていたら何が起こるかなんて誰にもわからないですし、今回のようにコロナによって立派な肩書が粉砕して結果として失業、なんてこともこの先あるかもしれません。

そう考えると自分の人生は自分が主人公なのですからご自分の納得いく、したい、やりたい、好き、楽しい選択をする自由があると思いますが、先々の積立貯金的なものとか保険はある程度持っておいた方がいい、などの親の期待などで自分の意思や気持ちがわからなくなってしまっている状態なのかな、と思います。

親や世の中の物差しで測ってご自分を責めているのであれば、受け身の人生、誰に責められることも、変える必要もないと感じます。それでも信頼できない大人からそういったものを押し付けられてしまうのであればあなたの選択の権利を大人によって搾取されていると感じます。

あなたの経験談を読んで「選択の仕方を洗濯しろ!」と大人や社会に言ってやりたくなりました。

感想2

経験談読ませていただきました。

人間関係でのストレス、兄の存在、親からのプレッシャーなど様々な原因で、今死にたい、生きたくないと思うほどの苦しさを抱えられているのだなということがとてもよく伝わってきました。その中でも読んでいて印象に残ったのが、「目標があるのに目標がない」「今まで受け身で生きていました」というフレーズでした。兄という目標はいても自分自身の目標がない。だから受け身で生きてきた。そんな気持ちを抱えていらっしゃるのかなと想像しました。

「目標や夢があり、それに向かって一生懸命頑張る」

それは確かに素敵なことかもしれませんが、「そうじゃない人はダメだ」という空気感が今の社会にあるような気が私は最近します。夢や目標が見つかるような偶然のきっかけが誰にでもやってくるわけじゃないですし、「夢を見つけろ、目標をつくれ」っていう言葉は私もなんだか嫌だなって感じます。むしろ受け身でもいいと思いますし、迷って悩むことがとても価値があることなんじゃないかなって個人的に思います。ラジオだって面白いですし聴くのが悪いと思いません。実は私も高校生の時勉強するふりしてゲームしたりラジオを聞いていたり、学校が苦手で哲学にはまって哲学の本を読んでいたりしました。今ではそんな時間があって良かったなと思ったりします。

父親が病気になられて、母親も愚痴をこぼして、家でも休まらない時間が多いのかなと思います。もしかしたら、父親と母親も迷い悩んでいる状態で、だからこそあなたに対して色んな感情が混ざった言葉をかけるのかもしれないなあと、ふと思いました。(あくまで私の想像ですが)でも、だからといってその言葉を無理して受け入れなくてもいいのかなとも思います。自分が悩んで苦しんでいるように、親も悩んでいるんだなあって思うと、少しその言葉のストレスが和らいだりしないかなあって思いました。

色々感じたことを書かせてもらいました。気に食わないなあと思う部分もあるかもしれません。でもこうして死にトリに経験談を書くことは決して受け身じゃなくて自分からの行動だと思いますし、例えば、今は色々悩もう、自分から決めてもいいのかな、なんてことも思いました。今こうして悩み考える日々が将来の糧になることを願っています。

お返事1

感想ということなんですが、何書けばいいかわからないのでとりあえず頭に浮かんだままに書かせて頂きます。
何事もエンジンと同じで、始めるのには膨大なエネルギーを要します。そして一度始まればあとは少ないエネルギーで動けます。自分はまだエンジンをスタートしていない状態です。かといって、ここに投稿するなど、その場に停滞しようとはしていない。いわば今はナビでルート検索しているところなのだと思います。でも肝心の目的地がない。周りからここが良いとは言われる。けどそこへいこうとするにはガソリンが足りない。途中にガススタがあるかは分からない。そんな状況です。返信を頂いて改めて考えると、別に目的地のないただの道中の景色を楽しむだけのドライブでも良いんだと思いました。どこへ行くかは分からない。どちらへ曲がるかは気分次第。だけど、動いてるのは自分の車なのだから、途中で席を変わる必要はない。そんなことに改めて気付かされました。今走っているのが線路でなくて道路だということを思い出しました。電車の様に皆同じ方向へ向かうのではなく、それぞれの思うままに進めばいいんだと思えました。よくわからない文章ですみません。読んで頂きありがとうございました。

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