20歳になって自分は死ねないんだろうなとぼんやり思った。ちなみにこの死ぬは自殺のことだ。何かの話で聞いた気がしたが十代のときは死にやすいが20歳過ぎると落ち着いていくらしい…まだ死ぬのは諦めてないがそこそこ努力して死のうとは思わなくなった。
たしか20歳になってすぐの夏に本屋で完全自殺マニュアルという本を買った。そのときは大学中退とか無職で引き持ってたり病院のお医者さんと剃りが合わなかったりでほんとうに死にたかった。具体的な方法を死ぬ為に買った本だしとてもいろんな死に方が書いてあった。だが私にはどれも実行出来なかった。首吊りが1番楽らしいが吊った衝撃とかで臓器やらが下に下がり汚物などを撒き散らすらしい。それが心配ならオムツを履けばいいと書いてあったが死ぬときにオムツ履くのはなと冷めてしまった。死体が比較的キレイな死に方だとやっぱり服薬自殺かと思ってそのページを読んだがとんでもない量を飲まなければ死ねないらしい。しかもその本は結構昔の本なので今の薬ではもっと死ににくいと思う。そして薬を飲むのが辛いなら砕いてヨーグルトに混ぜればいいと書いてあった。わたしは軽い服薬自殺を試みたことがあるがあんな不味くて匂いの強いものをヨーグルトなんかでかき消せるわけないだろうと思った。それにヨーグルトは私の大好物だしやっぱヨーグルトに薬混ぜてまで死ぬのはなーとテレビで紹介している〇〇食べるだけダイエットを見ていたが夜8時以降は食べちゃダメとか週2で運動しろとかでぜんぜん楽な方法じゃないのかよじゃあいいやってなノリで簡単に断念できた。
たしかに未成年のときはパワーがありあまり縄を持って泣きじゃくりながら自転車を漕いだり外を眺めてここから落ちたら死ねるかなと毎日考えていた。行動さえ起こせば自分は今すぐにでも死ねると思ってた。だが今は日曜の夜ややなことがあった日などにDSをブチ切りするような、死にかけのたまごっちをリセットする様に突然終わりを迎えたいと思うようになった。最悪死ねなくても自分の意識さえなくなってくれればいい、なんならお花とかに囲まれてずっと眠っていたい。
わたしは自分の考え方や発想、文章もなんやかんやブスな顔も結構愛している。けど自分ひとりだけでない世界ではこんなもの好きなんて言えないしどんどん嫌いになっていく。誰かと常に比べて勝てるところもひとつも無くて自分の能力の低さは努力を怠ったせいと自分を攻めながらただ何もできずに弱って行く日々。子どもの頃と比べてネット環境の発達とか持てるお金の額が変わったり自分ひとりでしていいことが増えて少しは楽しむことを覚えた。昔のわたしに言ってやりたい。「今の私は思い立った時にバスを予約してひとりでディズニーに行けるしカラオケだって親に嘘つけば余裕でオールできるしお酒も飲めるんだぞ」って、そんなふうに生きてきたせいで友達が儚げに言う子どもの頃が幸せだったとか高校の頃が1番良かったという話に1ミリも共感できないでいる。共感できないなりにそうなんだね〜って流せばいいのに思い詰めた顔の友達に私は今が1番ましと宣言してしまった。ほんとそんなんだから友達少ないんだぞって自分でも思ってる、抑えられないだけで。
似たようなエピソードで友達があるアーティストのミュージックビデオの小学生の女の子が使っていたスマホを急に川に投げつけるシーンを絶賛していた。その子は高校生からスマホを使い私より2桁多い友達相手にLINEやらSNSで常に繋がっていた、だからこそスマホを川にぶん投げるシーンに心打たれたのだろう。けれど私はDSのウェブプラウザに始まりアイポッドタッチや親の使い終わった初期のスマホでひたすらネットサーフィンして時間を潰していた。性格上ほとんど人と繋がることなくネットと生きてきた私はこんな素晴らしい機材を川に投げ捨てる行為に全く共感出来なかった。
ネット越しであってもコミニケーションをとることを躊躇う私は何年間も顔の知らない人の思想を追いかけ続けた。匿名でも何か言うのが怖いくせに承認欲求は富士山くらい高い、まともに認められたことがないせいで友達などに認められると嬉しくてたまらないし調子に乗って色々とやらなくていいことをして評価を落とす。たまに関わった人たちから認められると凄く不安になる。もしかして嫌味なのではないかと疑うし本心だとしてもその人が私の酷さを知らないから言えるんだと相手を非難してしまう。とにかく話すことが極端に苦手な私は人の好意すらまともに受け取れなくなってしまった。相手に感謝を伝える方法もどう謝ればいいかも正直わからない。いつも自分の口から流れる言葉は単語を雑に組み合わせた質の悪いロボットみたいで人間らしい文法とか感情がなにもこもってないように思う。
どうも自分はこの世界に向いていないと薄々気づいていた、ただその原因は高校生の時に精神科の先生に言われた発達障害だと思ってた。実際私が自殺未遂をした後母親にあなたはその傾向があると言われたから。そんなこんなで精神科でIQテストやらを受けて診断してもらったが結果は発達障害ではなく極度に緊張してるだけと言われた。その日から家族の私の評価がただ怠けているだけのダメ人間になった。当時私はこの結果に一切納得してなく必ず別の病院で再検査してもらおうと思っていた。その事も親に自分の都合のいいことしか受け入れられない身勝手な性格と言われた。そんなことから2年くらいたったがいまだに再検査していない。精神科で地元の1番有名な大人の発達障害外来を紹介されたが医師にここで結果が出なかったらもう他はないと言われて怖くなった。もし発達障害ではないと言われたらそれはただ単に生まれた時からスペックの低い不良品であるかただただなんの努力もせず自分勝手に生きたせいで人より劣っているただの怠け者と評価されてしまうからだ。医師にそんな宣告をされるなんてとても耐えられない。
今文字を打つだけでも辛くて泣いている。20歳になって私はただの怠けたダメ人間であり同い年の子たちは大学に行ったりしてこの先もどんどん差を広げられていくんだなと思うとやりきれない。けど仕方ない、私がだらけたり泣いたり引き篭もっているあいだみんなは勉強に励み他人とも良好にコミニケーションをとり社会に関わりどんどんと世界を広めていっているから。みんなと同じレールを歩けずにただ燻って年をとっていくだけだ。
そんな私は専門学校に通っているが友達をつくれず毎日ひとりでご飯を食べている。高校を卒業して初めての就職先で人と関わることに深刻なトラウマを抱えて友達以外の人間とまったく関わらなくなった。ひさびさの学校生活で気付いたがわたしにとって人と関わることは自分の欠点と常に向き合うことになる。誰かと関わればからなず比較してしまって劣ってる自分が嫌になる。クラスの女の子たちはみんな優しく声などもかけてくれるが自分と向き合うのが怖くて他の人すら受け付けられなくなってしまった。
こんなに生き辛くなってしまったのにもう死ぬ体力も気力も残っていない。ただただ昔より使えるようになったお金で憂鬱を一時凌ぎで押し除けてひたすら時間を潰している。新作の菓子パンを食べてみたりブックオフで買った本を読んだり1人カラオケでひたすらうたったりして。ふとした瞬間に精神科代やカウンセリング代などのメンタル維持費に心が締め付けられる。お金を使ったってみんなに追いつけずただただ死ねないなりに少しでも楽になるように縋っている。この先も1人でお弁当を食べるだろうし歳をとるたびに生きる難易度が上がっていくだろうがわたしは死ねないと思う。もうそろそろ21歳の夏が来る、これからはただ失っていくだけだ。何か持ってる実感はないのだが。
感想1
経験談を送ってくださり、ありがとうございます。あなたの文章を読んで、しっかり自分を持っている方なのだなという印象を受けました。死ぬことへの強い思いは常に持っているのかもしれませんが実際に行動に移していなかったり、死ねなかったりする理由は「わたしは自分の考え方や発想、文章もなんやかんやブスな顔も結構愛している。」という言葉にすべて詰まっているようにも思えました。あなたはあなた自身のどのような側面も“これが自分”というように確立されているようにも感じました。(私が勝手に感じているだけなので、押し付けているわけではないですよ。勝手なことばかりすみません。)
また、周りの理解があまりないことや気の合う人がなかなかいないなと感じてしまうことで、孤独感や孤立を感じてしまうことも多いのではないでしょうか。今は死にトリ含め様々な生きづらさを抱えている人や同じような悩みや感覚を持っている人と繋がれるツールはあるので、負担のない範囲で探してみてほしいなと思います。周りと少し違うからという理由で、評価されたり“あなたはこういう人だから”といったような判断をされると感じてしまう今の社会の風潮に、違和感を抱いていたり苦しんでいる人はたくさんいると感じているので、どうすればそういう人が今より少しでも生きやすくなっていくのか、今後も一緒に考えていってもらえたらなと思います。