幼少期からの生きづらさを解消出来ない

 青森県/20代後半/女性


 私がはっきりと死にたいと思うようになったのは、小学1年生の時でした。初めての自殺企図は小学2年生、それから自殺の方法の知識を得て、中学生から頻繁に本格的な自殺企図を繰り返すようになりました。

 小学生当時、私の両親は自営業の共働きで子供に時間を割く事は出来ず、2個上の兄も私も、食事、入浴などはあまり無く、両親(特に父)は兄には大切にしている物を目の前で破壊する、私には毎日暴力を振るうという対応をしていました。

 学校でも生徒間や先生とのトラブル等があると、親からクレームの電話が来ないからという理由からか、私が殆どの責任を負う形が多かったです。大体やっていない事を私がやった事にしなければいけなくて、私が責任を負った事になり謝罪して、その場を丸く納めていたようでした。そうしないと、学校に来る事を許して貰えなかったです。

 また、反対方面の家に住む不登校の女の子が居たのですが、この子の家に毎朝歩いて迎えに行くようクラスメイトや先生から言われていたため、毎朝迎えに行き、帰りはその子の家に寄り愚痴を2時間程聞いてから帰るという生活が小学2年〜中学2年まで毎日続いていました。

 ここでは不登校の女の子をAちゃんと呼ぼうと思います。Aちゃんは毎朝迎えに行くと、学校行く準備するからと家の中に私を招き入れ、私は毎日その準備を手伝いながら待っていました。しかし大体遅刻ギリギリの時間になっても準備は間に合わず、結局「今日はやっぱ行かない」と言って布団に入るので、私はその後走って学校に向かい、毎日ギリギリの登校や遅刻をしていました。

 クラスのリーダー的な女の子からは、「今日もAちゃん来てないじゃん。ちゃんと行ってあげてるの?Aちゃんが可哀想じゃないの?」と、Aちゃんが来ない日の朝にいつも言われていました。

 担任の先生にも、いつも「私ちゃん、Aちゃんをよろしくね。私ちゃんのお陰で本当に助かってるから、明日もお願いね」と言われていました。学年が変わり、担任の先生が変わっても言われる内容はほぼ変わらないか、労いなどは無く来ないと困ると渋い顔をする先生も何人か居ました。

 私はいつもそれに下を向いて「ごめんね。」と、笑顔で「はい。」と答えていました。そうすると、クラスメイトも先生も満足そうにしていたので、私にはなによりでした。

 またAちゃんはとても束縛心が強く、私が誰かと楽しそうに会話をするとヒステリックを起こして暴れたり、クラス皆んなの前で泣きながら辛さを訴えかけるので、私は小学校2年生からクラスの子に話しかける事は出来なくなってしまいました。でもこっそり話しかけて、内緒で手紙のやり取りをしたり、少しお喋りして仲良くしてくれた子も数人いました。しかし、たまにAちゃんが登校した日にそれがバレるとその日1日のクラス全体が本当に大変で、授業も全く進まないし、あくまでAちゃんは可哀想な子なので、責めたり咎めたりする事は先生にも私達生徒にもあり得ない行為でした。仲良くしてくれていた子たちも「ごめんね」と言って私から離れていってしまいました。

 そんな毎日が6年程続き、その間私は学校に馴染めないけど家にも帰れない、どちらに居ても緊張状態という状況に置かれていました。小学校5年生頃になると、だんだんAちゃんの登校する頻度が多くなってきて、Aちゃんにも友達ができ、私とも共通の友達になる子が数人出てきました。しかし大半の子たちはAちゃんと時間を共にするのがしんどいからと、私にAちゃんの対応をお願いしてくる形が多かったです。そこで私はAちゃんと他の友達の間を取り持つ役割を基本的にしていました。

 また、クラスにはAちゃんから、私のやってもいない噂や悪口を流されて居たらしく、私のイメージは全く別物だった、と当時のクラスメイトから後ほど聞きました。(もちろん噂を信じないでくれた子、後から違うのでは?と気づいてくれた子もいました。)

 Aちゃんのお世話は、中学2年の時に初めて母が「小学校の頃からずっとAちゃんの家に通うよう言われてて、娘が家に帰るのが毎日19時を過ぎてるのですが…そろそろ受験なので直接家に帰しても良いですか?」と担任に電話を入れた事により、3年生からは小1からずっと一緒だったクラスを初めてAちゃんと分けられ、家に行くように言われる事も突然無くなりました。それから中学卒業と同時に私はAちゃんから解放されました。

 しかし、今思い返すと我ながら酷い話だな。と思うのですが、当時の私は生きるのに精一杯で、余りこの状況に不満や怒り、他の子に対する憤りや何故自分だけが、という疑問等はまるで無かったです。疲れるな、今日も行かなきゃ、今日こそ学校に来てもらわないとまた何か言われるな、という負の感情が少しあるくらいの感覚でした。ただ漠然と毎日が辛いけど、別に当時の私にとってはただただ普通の毎日を送っているだけでした。今思えば原因はAちゃんやクラスにもありそうですが、当時の私は全く気付く事が出来ませんでした。
 
 それに、家に帰れば食事もないし殴られる、さて、どうやって明日を生きようか、と毎日考えて生活していたので余り楽しいとか辛いとか、そもそも自分のなかに感情と言うものを感じた事がなかったような気がします。

 しかし無意識にストレスを感じていたのか、中学で私は非行に走るようになりました。また、中学からは自分の生活用品や食事を得る為に、万引きをよくしていました。先生に非行がバレ(万引きは結局1度もバレなかったですが)、呼び出されて説教を受けている間も、疲れたなぁ、早く終わらないかなぁという気持ちの方が強く、私自身は真面目に話を聞き謝罪をしていたつもりだったのですが、先生からは余り真摯な対応に見えなかったのだと思います。
 
 まだ体罰がある時代で、先生たちから竹刀で叩かれたり胸ぐらを掴まれたり正座を2時間位させられるのですが、私が余り反応が無かったためか、生意気だ、更生する気が無いと受け取られてしまい、その後は先生達から嫌がらせに似た行為を3年間受けていました。

 よく他の生徒を従わせる為の、晒し者のような役割として使われていたと思います。でも別に私がどうにか出来る事でもないし、先生にとっては保護者からクレームが来ない貴重な存在だったし、ストレスの捌け口にはうってつけの存在な訳で、正直しょうがないのかなと思っていました。

 しかし、高校に入ってから私の人生がいきなり激変します。美術系の学科に進み、中学時代までの同級生が全く居ない環境になりました。(正確には別の学科に2人居ましたが、大きな学校だったので学内で会う事はほぼ無かったです)
 美術系でみんな同じ道を目指しているし趣味も合う、そして中学時代までの私を全く知らないクラスメイト達は、当然のように私を人間扱いしてくれました。私はクラスメイトみんな大好きでした。

 しかし私を人間扱いしてくる事が余りに衝撃的で、なかなか慣れず、結局3年間本当の意味では受け入れる事が出来なかった人物たちでした。先生達も、悪い事をした時しか注意してこないし、普通に生活するだけで褒めてきたり、ちょっと気味の悪さを感じる程でした。

 この頃には母が完全な専業主婦になり、食事面の心配が要らなくなりました。1日一食は確実に食べられていたので、普通に生きていけるな、という感じでした。また、突然高校あたりから、父からの暴力が劇的に減りました。あまり身体の危機の心配もする必要がなくなってきたのが、この頃からだと思います。

 でも、人生が突然生きやすくなった私は、リストカットが急激に悪化し辞められなくなってしまったのです。毎日毎日切れる所を探して、服に隠れるところは全て切り刻みました。

 また、学校が好きになってしまった私は、学校の授業を受けたいと思うようになっていて、学費を稼ぐ為にしょっちゅう売春をしていました。 親から少額のお小遣いは貰っていたものの、美術の勉強には物凄いお金がかかります。画材を買っていると貰った月の初めには全てお小遣いは無くなってしまうので、あとは全て自分の体を売り賄っていました。

 それから高校1年の中頃、担任の先生と保健室の先生が私に違和感を感じたらしく、リストカットの事や家庭環境の事を聞いてくるようになりました。保健室の先生には児相や精神科への入院の話しをなんども持ちかけられ、最後の方には懇願されているような感じでした。でも当時の私は、普通に接してくれるクラスメイト達に、これからも普通に接して欲しかったので精神科への入院は拒否し、通院だけしていました。あと、今思えば両親のやっていた事は虐待ですが、高校に入り、今はもう暴力も減り食事も取れているのに、虐待されていない私が何故児相に行く必要があるのか本気で分からなかったので、児相も拒否し続けていました。

 でもその間も何度も自殺企図を繰り返していました。そして自殺企図をしては母がキレてワインの瓶で私の頭を小突いて笑っていたり、ODをしては髪を鷲掴みさらトイレに引き摺られていき吐けと叫ばれながら便座にガンガン頭を突っ込まれ、リストカットがバレては母が暴れまわっている日々でした。お前がおかしいからアタシがこんなに辛い思いをしなきゃいけないんだ、お前のせいだ、お前さえ居なければ、と母は毎日私を罵倒していました。一転、家から出ると私を物凄い大事な宝物のように扱い、周囲に私への心配を零し、愛を表現していました。

 それから私は県外の美大に進学し、1人暮らしを始めました。大学生活はとにかく何もかもが楽しく、学校の授業も友達も先輩もサークルも、全てが夢みたいに最高なもので、毎日がとにかく充実していました。

 でも気がつくとすぐに自殺企図を起こしてしまいます。毎日楽しい、楽しいとにかく楽しい、と過ごし、突然自分でも訳のわからないまま何日も意識を失いアパートに倒れていて、あぁ、またやったのか。と思いながら、身体が動くようになるのを待ち、回復したらまた大学に行く。そんな毎日を過ごして居ましたが、どんどん自殺企図の内容が酷くなっていき、ついに大学時代の精神科の主治医に、地元に強制的に帰され入院する事になったのです。

 私は自分の全てを失ってしまった気がして、地元に居る今が苦痛で仕方なく、それは10年経った今でも消えないです。

 地元に帰ってきてから今までの10年も、死にたい日々はまだまだ続いてます。むしろ具体的に死にたい気持ちが強いです。その間に、地元の病院で何回かの入院や、発達障害が見つかった事、障害手帳をとり就労支援B型で働いていた日々など色々な事があり、他にもしんどさを感じる事がまだまだあったのですが、長くなってしまったのでここで終わりにしようと思います。

 地元に帰ってからの10年間と今現在はかなり人生の中でもがいて、私の自我が芽生えた意識が出てきました。きっと私の自我は3歳くらいなのでしょうか。自分の意思を持ち、私は幸せになりたいとすら考えるようになってしまいました。
 
 しかし自我が芽生えてしまったからこそ、自分の人生がどんな物だったかを理解してしまい、自分で人生を歩みたいとすら考えるようになってしまった私は、今まさに、これから親の呪縛に晒されながらどうやって生きていこうか、私の気持ちは過去を清算出来るのか、そもそも私は明日も生きているのか、今から自殺してしまうのではないか、毎日なやんでいます。

感想1

経験談を投稿してくださってありがとうございます。

家庭にも学校にも安心できるところはなく、常に緊張している状態を思い浮かべ、それは生きることへの実感も自信も奪われてしまうだろうと思いました。小学生の時から自殺企図を繰り返さざるを得なかったのだと思います。

本来なら、子どもは周りの大人に身の回りの世話をしてもらい、人と共に生きていくことを教わる立場なのに、学校の先生はあなたのこともAちゃんのことも人間として尊重せず、「学校はみんな毎日登校して静かに授業を受けるもの」みたいな、大人が勝手に作った都合を押し付けて管理し、「ちゃんとしてる先生」に見せるために、あなたを利用していたのではないかと思い、悲しくなりました。子どもに自分の都合を押し付け、ストレスの捌け口にする大人の生き方は人間として恥ずかしいと思います。

感情や感覚が麻痺してあまり感じられなくなり、それでも今日明日を生きるためにどうするか考えないといけない日々の連続は、気づかないうちにじりじりとエネルギーを搾り取られていくのではないかとイメージしました。高校時代には突然人間扱いされるようになり、それまで奥底に封印されていたストレスが一気に反応したのではないかと思います。自殺企図をして母が暴れまわるという状況は、外から見れば心身の危険な状況ですが、あなた自身から見れば昔からよくあることで、一種の自然現象のようなものだったのかなと思いました。

自分の学びたいことを学べる大学で充実した日々を過ごしていたのに、強制的に地元に帰らされたのは愕然としたのではないでしょうか。入院するにしても、地元ではなく大学付近の病院にするとか、もっと別の選択肢はなかったのだろうか、と悔しくなりました。そうした苦痛の中、10年間を生き抜いてこられたことに敬意を抱きました。「自分で人生を歩みたい」との思いを大切にしつつ、芽を出した自我を育みながら、自分の手と足と心で生きていく仲間や協力者と出会ってほしいなと思います。

感想2

死にたい日々のことを、文章で共有していただきありがとうございます。

教えてくださったいままでの経緯や他者から受けたつらいことを読んで、生きづらいと感じるのはもっともだと感じました。

もがきながら獲得した「自我」がすこしずつ成長することで、いままで理解しないですんでいたことにも目を向けなくてはならなくて、苦しい気持ちになってしまうのだと思います。

同じ経験ではないですが、いままで言語化できなかったもやもやしたことが、不意に言葉にできた(できてしまった)とき、負のエネルギーを突きつけられたような気分になって、不安を感じることがあります。それをもっと強くしたようなイメージなのだろうか……と想像しました。

「幸せになりたい」、「自分で人生を歩みたい」。その意志はとてもすてきだと感じます。

「そもそも私は明日も生きているのか、今から自殺してしまうのではないか」という気持ちになるのは、自分で生きたいと思うからこそだと思いました。(そんなふうに自覚できる人はどのくらいいるだろう? と考えてみると、多くはないような気もしてきます)

希死念慮を持ちながら生きたいと願うのは、とてもまっとうなことだと思います。しんどいですが、でも、まっとうだと信じています。

私自身も希死念慮を持っていますが、それでも、明日の自分が幸せであってほしいと願うことをやめたくないと思います。

文章を読んで、こういう気持ちで生きている人がほかにもいて、そしてこの場所を通して出会えたことに、とても心強い気分をもらいました。

感想3

経験談の投稿ありがとうございます。きっと生まれたときから、この経験談に書いていないことも含めてたくさんの出来事があったのだろうと推測します。どの出来事もあなたの存在や安心、居場所を脅かすものばかりで、いつもギリギリの状態で生き延びてきたのだなという印象でした。

自分の生活だけでも大変なのに、お兄さん・Aさんと学校の人たちに挟まれていたのは、本当にしんどかったのではないでしょうか。生きるか死ぬかの間にあったあなたに気づかず、その上あなたに役割を課した大人たちに憤りを感じました。あなたは生きるために、その役割を全うするしかなかったのではと思います。それと同時に、自分がそのように無自覚に人を追い詰めているのではと考えさせられました。

いかに体罰があって当然だった時代としても、大人たちが教育の名目でストレスのはけ口として無意味な体罰や暴言を行うというのは、本当におかしいなと感じます。体罰・暴力を受けることは当然だと生徒に感じさせてしまうのは、教育として(教育じゃなくてもですが)あってはならないことのように思います。

あまりはっきりとは書かれていない部分もあったのですが、食事や学費などで物理的に困ることもかなり多かったように読めます。それをなんとかするために、万引きや売春という手段で生き延びていたのだと推察しました。お金や安全が脅かされている状態は長い間続いていたようなので、それがあなたにとってデフォルトになっていそうです。なので、その逆の状態である自由は、あなたにとって充実さを感じる反面、居心地の悪いものなのかなと想像しました。

今も、昔の感覚が体のどこかに残っていて、ふとした瞬間に負の感覚に襲われているのではないでしょうか?日々その感覚の波に押し寄せられ、一瞬一瞬を生きているかんじがします。その中でもがいているうちに自我を持ち、幸せになりたいと思い始めたのには、素直にすごいと感じました。

最後まで読んで、この経験談をみんなに読んでほしいと思いました。理由は上手く説明できないのですが、みんなが読む必要があると思います。おせっかいですが、今あなたの周りでサポートしてくれている人がいるのか心配になったので、もしよかったら教えてください。あと、もがく中で自我が芽生えたプロセスや要因に心当たりがあれば、教えていただきたいです。

返信

 私が死にたい理由、と言うか私の半生のようなものを読んで頂いて、他者から見た場合の感想、どう思うのか、と言うことが知れて私にとってとても貴重な経験になりました。
 
 また、感想1 の方、2 の方、3の方に、それぞれ考察や想像や希望や共感をして貰い、特に共感という面で少し楽になるような気がしました。
 
 私は共感の言葉は、2年程前までは相手が喜ぶ為、コミュニケーションの手段、手法として使ったり発していたので、実際にされると楽になるのだな。と、少し自分が使っていた相手の気持ちが分かったような気がしました。以前はいつも、なぜ喜ぶのだろう、と少し不思議に感じていたので。貴重な感覚、体験をありがとうございます。


 感想3 の方が書かれている質問に答えていこうと思います。
 今私の周りにサポートして下さっている方は、発達障害者を支援している法人のスタッフの方、メンタルクリニックの主治医が主になると思います。

 発達障害支援のスタッフの方には約2年半程お世話になっていますが、最近になって段々と、恐らく信頼出来る人達なのであろうと思い始めました。最近少しずつ、幼少期や思春期の被虐体験のようなものを、チラホラとだけこぼすようにしています。しかし、(あちらは仕事なので大丈夫だとは思うのですが)機嫌を損ねた時や幻滅された時に加害されないように、相手の反応を見ながら出来るだけ、場を面白く明るい雰囲気にするよう心がけています。
 
 以前通っていた病院(高校時代から通院し、大学時代に入院した所)と、併設されていた就労支援施設では私がスタッフの機嫌を損ねさせてしまった事により、少々日常生活に支障が出る程度の管理や指導が入ってしまった為、今の私はまだ福祉関係のスタッフや、看護師に恐怖心が抜けていない状態です。

 しかし、現在利用している発達障害の施設は県から委託されており、関わっていても恐らく大丈夫そうなスタッフだと感じている為、今後はもう少し本音の会話も出来れば良いなとは思っています。

 メンタルクリニックの主治医は、以前通っていた病院の病棟看護師の体罰や増え続ける薬、就労支援施設の退所を禁じられる事から逃れるために、発達障害支援所から紹介して頂いた方(クリニック)です。今の主治医は、基本的に薬は適正量処方してくれて、減薬、増薬どちらも私と対話して相談のもと行ってくれています。以前の病院だと、全て妄想と幻聴にされてしまって、かつ、どんどん薬が増やされてしまっていた事も、今の主治医は「統合失調症の症状は無いので」と普通に相談、悩みとして受け止めてくれます。その事に関して、本当に感謝しています。

 しかし、毎回診察室に母が同行するので、母の機嫌を損ねないように、いかに「家庭内で溜まってしまったストレスで起こした自傷だ」等の状況を伝えるかが大変です。言葉選びに毎回気を張って診察を受けています。勿論家庭内の事情や幼少期の虐待について、主治医は全く知らないので、診察中に母の言う意見も参考にしているようです。

 母の意見は、私の事がとても心配で大事だ、という話しから始まり、大体私が母に圧を与えて家庭内が大変だ。という内容で落ち着くため、中々主治医に体調の実際の状況を伝えられない状態でいます。今は私は、いかに母に悟られないように現状を主治医に伝えられるか、第三者を通して伝える為にカウンセリングの申し込みや、カウンセリングは主治医が勧めたくないとの事なので、家族の隙をみて病院に事情を説明する電話をかけてみようか、等色々と模索している所です。

 自我が芽生えた要因に関しては、美術の分野にしばらく身を置いたと言うことが大きいかもしれません。美術の分野では、良くも悪くもかなり実力主義で本人のレベルを決められます。たとえ高校1年生でも、レベルが高い学生は、美術だけ3年生と同じ授業を受けたり、クラスで数人技術が高い学生がピックアップされ、他の子達が普通にデッサン授業をしている間に、選ばれた子達だけ実際の画家の先生から日本画を学んだりします。

 それは大学でも同じで、あまり評価に先輩後輩は関係なく、実力が評価され、そしてみんなそれを普通に受け入れます。すごい時だと教授にも忖度は無い事が多いです。(制作後の講評中に教授が、君はTAや教授含めこの教室内で、一番色彩感覚が優れているね。パースの取り方は下手だけど。や、院生に向かって筆のタッチが素人くさいね、でも前より良くなったか。と発言する等)
ある意味忖度などなく、ただ実力を評価され、世の中には天才が居て、努力は簡単に裏切るとしっかり認識させられる場でもあったので、私にはかなり評価が明確で分かりやすく心地よい場所でした。もし出来ない事があっても、努力が足りないと責められる事は無く、甘えだと言う考えの人はほぼ居ないようでした。

 また、変わった人やマイノリティな人がいても、阻害されたり煙たがられる事はありません。むしろ興味を持ってみんな近づいていきます。私が初めて自分のやりたい事をやった場所だと思います。

 それを踏まえて、自分にある程度の人と関わる自信をつけた上での、コミュニケーションとはどうとるのか、練習した事が大きいかと思います。(よくデパートに、服屋やバス用品など接客業がメインの店員さんと、ひたすら会話のキャッチボールをどうすれば続けられるのか、練習させて貰う目的で商品を購入しにいっていました。)そしてコミュニティを広げて、他の人の人生観、思想を聞いてみたりした結果が、ここ2、3年の自我が芽生えたキッカケだと思います。

 また、社会学やジェンダー論など、ある程度は学業として学生生活で学ぶので、単純に知識量が増えたという点も大きいと思います。それに今は、SNS等で人の意見をのぞき見る事も可能な時代になりました。そういった時代の変化もあるのだと思います。

 今の状況は幸せではないし、ずっと息苦しいのですが、以前よりかなり身の安全を確保出来ています。少なくとも餓死や暴力で殺される事はなく、生きる事が出来る状況です。生活面でも、パートナーのアパートに夕方から行く事は親に許可されているので、夕食や寝泊りはパートナーに頼れるうちはなんとかなります。(結婚の予定等は無いので親から離れる事は無理そうですが)

 しかし、幼少期はあんなに生きるのに必死だったのに、いま生きる事が可能な私は、毎日死にたくてしょうがないです。そしてその気持ちが、虐待で亡くなっている方達に対しても申し訳ないです。