死にたいを許して

21歳/女性


私は発達障害の傾向がある。診断はついていない。5年以上通院している心療内科の先生は、私が自分で気付くまで発達障害のはの字も出さなかったし、初診の高校生の時から今まで病名なんかを教えてもらったことはない。だから私は自分が鬱と発達障害なんだと思ってるけど、正確にはわからない。診断名が付けづらいグレーゾーンなのかもしれない。それでも思うのは、発達障害を「特性」という言葉にしないでほしいということ。肌触りのいい言葉を使って救われるのは誰なんだろう?

多分私はASDで、小学校高学年くらいから学校に行きたくなかった。

小学生の時、大人は理不尽で、世の中は理不尽な事が起きまくると知った。屁理屈と理不尽を振りかざす担任と正面から言い争い続けた。

中学生の時、子供は身勝手だと思ったし、自分の考えは誰も彼も理解できないと知った。

高校生の時、自分が異端なんだと知った。ずっと自分が間違っていたと気付いた。

「あなたの言ってることは間違ってない、”けど”それは世間に通用しない」という説教を親によくされた。正しいことを誰も正しいとは言ってくれなかった。それは正しいことを唱える私そのものへの否定でもあった。今思えば、主張する私の剣幕があまりにも強いせいで反感を買っていたのもあると思う。結果的にそうやって積み重なった自己否定、人間不信で私は出来ている。昔は自己愛だった。誰も認めてくれないなら私だけでも私が間違ってないことを信じ続けないと、どこにも救いがないと思っていた。

元々私は自分の思考力、頭の良さ以外に取り柄がないと思っていたが、それは高校で進学校に入学したことで崩壊した。周りの誰よりも私は勉強が出来ない馬鹿だと思った。「勉強ができる」ということでしか自分の行動や発言、心を支えてこなかった私はなす術なく狂っていった。取り乱し喧嘩をして絶縁した友人がいた。私が私を受け入れられなくなった。

両親は精神的な疾患に理解がある方だ。なぜなら両親も心療内科に長年世話になっている身だから。だけど発達障害のことをどこまで知っているのかはわからない。特に母は訓練次第で多少何とかなると思っている節がある。努力で何とかなるなら私はもう少しマシな学生時代を過ごしていただろう、と何度言っても理解されない。何故私が頑張っていなかったと思うのだろう?授業でペアを組めずに毎回余ってしんどかったのも、普通に友達と昼ごはんを食べたり行事を楽しんだり、という事が出来なくて1番苦しかったのは私自身なのだけど。

自分がASDかもと分かったときは安心した。私の頭が「普通」じゃなかったから出来なかったんだ。比較的理解のある家族、いじめのない学校、恵まれた環境でみんなが当たり前にできる事が出来ない私は、普通のはずなのにどうして出来ないんだ?という疑問、自己愛、自己否定は義務教育の間に何千回とループした。私は普通のはずだから弱音を吐けないと思っていた。心療内科に長年世話になりいつもしんどそうな両親に迷惑をかけてはいけないと思っていた。学校に行きたくないとか死にたいとかいえなかった。発達障害であることで「死にたいと感じることを許された」ような気がした。

障害者を差別をする人が世の中には割といるのを私は知っている。差別的なイメージを払拭するために「特性」と言っているのか、医学生物学的に病気じゃないのか知らないが、それでも「発達障害は病気じゃなくて特性です。個性のひとつです」という売り込みには私達当人の苦しみが表現出来ていない気がする。精神疾患系は目に見えず「甘えだ」「怠けだ」という批判をされるのが当事者のストレスになるっていうのに、特性と言ってしまうと「病気じゃないなら頑張れば何とかなるんでしょ」という誤解を招きまくってしまうだろうと思う。間違いではないかもしれない、でも「頑張る」対象は、発達障害者の周囲の人間なのだってことをどれだけの人が知っているのだろう。

私は発達障害でも生きたい人を否定しない。応援する。だけど発達障害で死にたい人を励ますのは出来ない。今私は学校にも行かず仕事もしていないニートだ。将来仕事や通学が出来るとも思えない。どんな発達障害の本・サイトを見ても「周囲の理解や環境調整が大事」と書いてある。つまり私はこれからも一生家族や友人に「私が普通だったらしなくてよかった苦労」を強いながらじゃないと生きられない。それでも生きたいと思えるほど私はこの世の全てが好きじゃないし、私の大事な人達の事は愛してる。

私は私が嫌いになってからあまり怒らなくなった。大嫌いな世界の方が普通で、善悪は重要視されないと知ったし、正しいことのために怒るメリットはもうない。私は私が嫌いになってしまった。今はただ誰にも嫌われたくないと思うだけ。誰も傷つけたくないと思うだけ。

ずっと認められないのが嫌だったから私も極力他人を否定しないでいようと思っている。

価値観はそれぞれだし人間は根本的に分かり合えないし、理解できないものは怖くなって避けたくなるし悪いものがあるとしたら時の運だけだ……というと極端だが、それくらい、全て否定せずにいようとしている。だからって他人が私を否定せずにいてくれるわけでも、私が認められるわけでもないのは分かっている。

私は息を潜めて生きている。自殺は迷惑をかけるから、誰かに殺して欲しい。病気でもいい。生まれた時から脳の発達が偏ると決まっていたなら、私は生まれてきたのが間違いだった。生まれたっていう罪を償うためにこの世の地獄で生きているのか、生き続けることでさらに罪を重くしているのかわからない。結局のところ、誰も正確に教えてくれないので「私が発達障害で鬱だ」という事すら「診断もついてないのに被害者妄想激しい、大袈裟すぎ」と言われかねない。だから特性と言わないでほしい、せめて「私も誰も悪くなく病気で生まれてきた運が悪かった」という逃げ道を残してほしい。

ずっと許されたいと思っていた。死にたいほどしんどいことも、未来がいらないことも、生まれてしまった後悔も、病気だったから仕方ないと許されたかった。もう十分がんばった、もう頑張らなくていいと抱きしめて殺して欲しかった。

これから先、「死にたい」と思う人が減ったらそれは良い社会だと思う。発達障害の人でも生きたいと思える世界になればいいと思わなくもない。未来と幸せを無条件に望める世界があれば私だってそこにいきたい。でもそうじゃない今の社会で、死にたいと思うことを許すこと、誰のせいでもない逃げ道をどこかに残しておいてほしいと思う。言葉だけポジティブにしても虚しいだけだ。どうか死にたい私達のことを知ってほしい。これから、あるいは今もどこかで私と同じような思いをしている人がいるなら、彼らが1人でも多く救われてほしい。私はもう疲れている。

感想1

これまでの人生と、経験を通して考えてきたことを聞かせてくださって、ありがとうございます。もう一生分の努力をして、疲れたのだな、と思いました。死にたいと思うことを許されない理由は何もないと思います。

文章を読んで、どうしてこの社会は「誰のせいでもない」ということを受け入れないのだろう?と疑問を持ちました。特定の誰かのせいにした方が、解決方法が分かった気がして、一時的にでも楽になれるから、ということでしょうか?

たしかに、今の社会は「課題解決」を求めすぎておかしくなっている気がします。生きていれば苦しむことを避けられないので、理想と現実のギャップがあるのはある意味自然なのに、ギャップは「課題」だからすぐに「解決しないと!」という捉え方をされがちだなぁと感じます。

けれど、苦しみの理解や想像を飛ばして「解決」ばかりに躍起になっているような社会は、かえって排除や分断を生んでいる気がして、私は居心地が悪いです。当事者の話をよく聞いていないのに、本人の努力でどうにかなると決めつけてアドバイスを押し付けたり励ましたりしてくる大人には、正直呆れてしまいます。

親から「私そのものへの否定」を積み重ねられれば、人間不信になるのも当然だと思いますし、無理をして人を信頼する必要はないと思います。

世間一般の考えや習慣は、アップデートされないまま凝り固まっているものや、偏っていて多様性を排除するものが多くあると思います。おそらくあなたは物事を多角的にみる洞察力を持っているので、世間のおかしさ、不寛容さに気づきやすいのだと思います。その気づきを発信してもらうことは、今の社会への警鐘としても貴重だと思うので、また機会があれば死にトリで、あるいはほかの場所でも、気づいたことを発信してほしいです。

感想2

死にたいと思うこと自体、誰かに制限されることではないと思います。死にたいと感じているのは事実で、そう感じていることは誰かが否定したりできるものではないと考えます。

これまで生きてこられて、自分のつらさを認めてもらえなかったり、わかってもらえなかったという思いがあるとのことでした。これは否定とも感じられるもので、否定は、エネルギーを著しく奪うものだと思います。だから、そんな状況で疲れてしまうのも無理のないことだと思います。

文章を読んでいて、自分の気持ちも大事だけど、周りの気持ちも考えられる、そういう能力があるからしんどくなってしまう部分もあるのかな、と思いました。

「『頑張る』対象は、発達障害者の周囲の人間」とありましたが、この言葉を見て当たり前のことだけどハッとしてしまいました。その人のせいに押し込めて、本当は大きな世界で考えなければならないかもしれない問題を見ないようにしてしまうのではないかと思ったからです。そのため、投稿者の方の身の回りの環境だけじゃなくて、もっと大きな世界でその生きづらさを解消していかなければならないのではないか……と感じました。

今回、貴重なお話を聞けてとてもうれしかったです。本当にありがとうございました。

お返事

感想を読ませていただきました。思いついた言葉を書き連ねただけの、読みにくい経験談だったと思います。それでもしっかり読んで感想を伝えてくれたこと、本当に嬉しかったです。

先日、心療内科の医師から私がASDであると、ようやく説明していただけました。そのため発達障害者であるという前提で、感想を読んで思ったことを書かせていただきます。

私が生きるのが苦しく、死にたいと感じるようになった原因は発達障害でした。これを悪いものじゃないと思うことは私にはまだ出来ません、特性という表現は今も引っかかります。でも、それはイコール「私が悪い」のではないと知ってほしかったのかもしれません。

私は普通の人間になろうとしてきて、普通にできない自分を殺したいくらい、自分が自他に与えるデメリットを理解して悩み苦しんできました。「誰も悪くない」はずなのに、自分のせいで自分も周囲も苦労するのは事実です。これまでも、これからも。故に私は生きてるだけで絶え間なく罪悪感に苛まれ、本当に一生分の挫折と苦労を繰り返してきました。

「死にたい気持ちは否定できるものじゃない」そう言ってもらえて、安心すると同時に、悲しくなりました。死にたいことが悲しいと思った。この苦しみや悲しみはどうしたらいいのでしょう?私達はこの病とどう向き合っていこう?

死にトリのように死にたいことを考えてくれる人達がいることに、私は安心しました。少し、自分の中で物事が進んだ気がします。私の脳の偏りは物理的には現状「解決」はしません。だけど変わる余地のあるところが変わっていけたらいいと思います。このサイトや私の考えが、少しでも同じように苦しむ発達障害者やその他の苦しい人達の思考のきっかけになれば幸いです。ありがとうございました。