幸せになりたかった


25歳/千葉県/女


生まれはど田舎の雪国で情報も物流も何事も滞った借金まみれの土地。両親祖父母と1歳違いの弟が1人。弟は知的障害を伴う重度の自閉症。2歳児程度の知能しかなく言葉もない。言葉がないというと聾唖の印象を抱く方が多くいるが、吠え癖のある犬がたまたま人間の形を取ってしまったに近い。奇声を発し、走り、自分の耳たぶをちぎりながら笑っている生き物が弟だった。

母は真面目で時間のある専業主婦だったので、熱心に弟の療育に励み幼稚園の頃から特別支援を受けていた。幼稚園から高校まで、朝と夕方に車で30分の距離にある学校まで送り迎えをしていた。私は弟の学校行事について行き、「〇〇くんのお姉ちゃんはえらいね」と褒められ、「全然そんなことないのよ」と嬉しそうに笑う母親の間で弟の手を握って立っていた。母は弟の将来を心配し、「貴女は弟の成年後見人になるのよ」「婿養子をとって家を守るのよ」「お見合いに良い相手を見つけてあげるからね」「将来は特別支援校の先生になるのよ」と小学生の私に言い聞かせた。障害者関連の「良いお話」の本を読まされ、障害者支援のための支援者セミナーにも参加させた。私は母を喜ばせようと模範的な解答をしていた。

弟と小学校は別だったが、どこからか弟が障害者だということがバレていじめられた。「弟が障害者だからいじめられている」なんて親には言えなかった。中学に入る頃には弟の存在を隠すようになっていた。この頃から自傷行為で腕を切ったり脚を切ったりしていたが、両親は気付くことはなかった。父に「私が首吊ったらどうする?」と聞いたら「俺の母親は首を吊って自殺した、ふざけるな」と叱られた。弟を風呂に入れ、1日のスケジュールを壁に貼り付け、肥満防止のために腹筋をさせ、支援ツールを作る、そんな日々を高校生くらいまで続けていた。

その頃たまたま地上波初放送のとあるアニメ作品を見た。塔の上に幽閉されたお姫様が外の世界に憧れて旅に出るストーリーを知ってはいたが、継母のキャラクターがやけに己の母親に似ておりそこで家庭の歪みに気付いてしまった。自由に生きたいとは思ったが「障害者の弟を捨てて1人で生きて行きたいんだよね〜笑」なんて誰かに伝える勇気はなかった。1度だけ、同級生に話してみたことはあるが「そんな暗い話しないで、もっと楽しいこと考えよ!」と言われ、その後誰かに相談することはなかった。

そこからはなんとか1人で生きていく術を獲得しようともがいた。結婚したいという気持ちもあったが、見ず知らずの他人に弟と両親の事を理解してもらう事は難しいだろうし、障害の遺伝子をもっているであろう自分が子供を産まなければならなくなることも嫌だった。そもそも私は不細工なので男性から言い寄られることなどなかったので杞憂に終わる。

勉強が得意ではなかったので高卒で働きたいと父に相談したら、大学に行かないのならば今すぐ家を出て行けと言われて諦めた。教職に就けば女の身でも1人で生きていけるのではないかと思った。特別支援の教師ではなく普通校の教師になりたいと両親に伝え、「普通校の教職免許を持っていると特別支援校の教員にもなりやすい」などと言って、教育学部への入学は許可された。また、この頃から自分のことを話すとパニックになり泣いてしまうようになり、就職面接等の場面で苦労するようになる。

大学の寮に入り親元から離れての生活は楽しかったが、必修科目の単位を取れずに途方に暮れ自殺を目論み失敗し、大学を中退する。その科目の単位を取るためには選択式のテストで9割以上を取らなければならず、それが毎回7.8割ほどしか取れなかったのだ。教授も大変親身になってくれ、3年生になるまでおそらく20回以上追試をしてくれたのだが中退するまで合格することはなかった。大学在学中に運転免許試験も受けたが、それも3回ほど落ちた。テストに落ちるたび、周りの人からは白い目で見られ不真面目さを責められた。

大学中退後は実家に戻り、精神科に通いつつ地方公務員試験を受けさせられていた。両親は私を公務員にすることに固執していた。そのころ祖母は有名な新興宗教にハマり、本をたくさん買い新聞も購読し始めた。「お前のせいだ」と母は言った。

その頃インターネットで知り合った女の子と仲良くなり、スーツケース2つ持って家を出てきた。そこからまた精神科に通いだし、発達障害の検査を受けた。自閉症スペクトラムの傾向が色濃い、とのことだった。昔から勉強が苦手で忘れ物が多くて困っていたのも納得し、安心したと同時に母親への怒りがわいた。発達障害に関してあれほど学んでいたのに、私の困り感に寄り添ってくれなかったことが悲しかった。昔、検査を受けたいと言った時に「発達障害の人は優秀な人が多いから(だからお前は発達障害ではない)」「発達障害の人は自分が発達障害かもしれないとは言わない」と言われたことが悲しかった、微塵も私のことなど見てなかったのだなと確信してしまった。

家族も恋人もいない、面接で泣いてしまうから就職も難しい、そもそもADHD傾向があるので正確な作業をこなすことが難しい。特に趣味も目的もなく、死ねないだけでダラダラと生きている。痛みもなく誰にも迷惑をかけれずに死ねるならとっくに死んでいると思う。幸せになりたかったなぁと思うが、実際私がどうなれば幸せになるかわからない。罪のない弟を見殺しにしてまで私はなにをしたかったのか。本当に生まれてきたくなかった。

感想1

経験談を読ませて頂きました。閉塞感のありそうな土地で、目に見えやすい障がいのある弟さんと弟さんを支えることが当たり前(家族の責任?)になっている家族や周囲の陰で、自分の生きづらさには向き合ってもらえず、親や周囲からの直接的・間接的なプレッシャーで我慢と諦めの繰り返しをしてきた様子が伝わってきて、私の頭には最近時々聞くようになった「きょうだい児」という言葉が浮かびました。その環境の中で、自分に興味を持ってもらえるのか、気づいてもらえるのか恐怖になるのかなと想像し、自傷行為をしたり、自分のことを話すとパニックになるのも無理ないと思いました。後から自分のADHD傾向がわかったとのことなので、親の期待に応えようとする時にも、人にわかってもらいにくい努力や疲弊もあったのではないかと思います。同時に、我慢や諦めが多い中で「普通校の教師になりたい」や「家を出てきた」など自分のための主体的な考えや行動もあったので、親や弟さんから離れた今、自分でも見えにくくなっているかもしれませんが、あなたの中には何かしら主体性(~したい)を見つけられる力も潜んでいるのではないかと私は思いました。
私にとってあなたの経験談は、障がいを抱えた家族のその陰で、気づいてもらえない家族がいることについて、とても考える機会となりました。ありがとうございます。

感想2

「本当に生まれてきたくなかった」。そんな大変な思いをしているのに、お話を聞かせてくださってありがとうございます。投稿された文章を読んで、これまで周囲の人々から否定されてきたと感じる経験が多かったのかな、と感じました。その経験によって自分を肯定する力が少なくなっているから、生まれてきたくなかったというようなつらい感情がわいてくるのかなと思います。

また、自閉症の弟が中心に置かれるような生き方を母から求められたり、高卒で働こうと思ったのに大学進学以外の選択肢を与えられないなど、投稿者様自身の人生を生きることが難しいような状況にあるように感じました。そういった状況では自分のことを認めて、自信を持つということは難しくなるかもしれないと思います。

ですが、インターネットで知り合った人と家を飛び出したという話もあるなど、行動するエネルギーがあるようにも思えました。勇気を出して同級生に本音を話してみたのに、まともに取り合ってもらえなかったことで、誰かにつらい気持ちを話すことをあきらめていたかもしれませんが、エネルギーがあるから、今回経験談を表現してくださったのではないかと思います。

つらい思いを話すことで心が軽くなったり、前に進む力が生まれてくることがあると思います。今後とも死にトリの場でも、ほかの場所でも話しやすいところでお話しいただければ嬉しく思います。

感想を読んで

きょうだい児(私はもうきょうだい者と名乗るべきなのですが)の助け合いの場もありますが、私自身が子供や家庭を持ちたくないと思いつつ孤独でいることにも向いていないのでどうすれば…と悩むことばかりです。インターネットでは、結果論的に「産んでみたら障害が遺伝しなかった」「子に遺伝しても協力的な身内がいる」などというものばかりがひっかかり、そういったコミュニティでさえ引目があります。
主体性があると書いていただき、嬉しく思う反面もう私が主体になろうとも幸せになる未来が見えなくて無気力になってしまいます。
自分がなにをしたいのかどうすれば満足できるのかわからないまま生きるのはとても不安ですが、死なないうちはとりあえず生きるしかないと思いがんばります。
返信ありがとうございました。