揺れ動く自己と生死観

神奈川県/29歳/女

私の体が蝉のようであれば、死にたいという気持ちが塊となって、自分の背中を突き破るのではないかというくらい、この死にたいという感情は苦しいものです。けれどおかしなもので、死にたいという言葉に打ちひしがれている時と、死にたいという言葉に逃げている時があります。

私の死にたいは、単なる衝動的な言葉なのか。と自問自答することもあります。
それだけ「死にたい」を常用してしまっているから、周りにも死にたいという気持ちを軽んじられてしまうのかもしれません。
だけれど、私の死にたいは、コロコロと姿を変える、本物の「死にたい」だと思っています。暑くて死にたいでも、恥ずかしくて死にたいでもありません。

自分が知的障害者であること。
就労、継続、生活、将来、老後。
そして家族。
過去の過ち。トラウマ。どうしたって変えることができない特性。
正しい反省とは何か?それらが私を死にたいという感情に走らせる事柄です。

それに悩まされているのは私だけでないのはわかっています。
問題なのは、私がそれによって大きく揺さぶられ、外でパニックを起こして壊れてしまうことがあるからです。
記憶が飛んだり、涙が止まらなくなったり。お薬はそういう症状を緩和したり抑えてくれる作用にはなっても、特効薬にはなってくれません。

貯金をし、実家を出て、独り立ちを果たした後、さらに理想を持って転職したのですが、挫折を繰り返し、今は休職してしまっていること。楽しい未来が描けないこと。
自分に前を向く資格はあるのか。
色々考えます。自分の考えも感情も信じられなくなるくらい、コロコロと変わります。移ろいやすい自分も怠惰な自分も、嬉しいことも楽しいことも、全てをひと突きして、ふっとこの世から消えてしまいたいです。
でも、自死を選ぶことで、たくさんの人に迷惑をかけたり、逃げたと思われることが嫌で、踏み止まっています。

この世に生まれてしまった自分を、最後まで責任を持って生き抜くことこそが、どうしようもない自分を唯一”ちゃんと頑張れる自分”にしてくれるのではと思っています。
自分の力で生き抜いた後、自分のお墓を自分で立てて、家族や誰かに負担をかけることなく、人生を全うすることのみが私の生きる目標です。
でもその願望も土台がグラグラと揺れていて、長い人生の中で、いつ崩れ落ちてしまうか分からないという感じです。
それ以外は、「死にたい」という気持ちと「物欲」と「憧れ」しか残りません。

感想1

正しい反省とは何か?という投げかけから、これまで誰かにこれまで「迷惑」という言葉を使われて自分自身の落ち度を指摘されてきた経験が多い方なのでは、と感じました。過去や家族やいろいろなものを抱え、そしてお自分の中にある「死にたい」を自分で分析し、そして生きる目標を「ちゃんと頑張れる自分」になること、と設定されていらっしゃる。すなわちそれは社会への適応、経済的、精神的自立を指すのではないかと推察するのですが、果たして「ちゃんと頑張れる」自分でいつでもいなくてはならないのか?すでにあなたは様々なことを抱えながら家を出て就職し、理想の自分になった、または挫折を繰り返しつつも捨てずに理想やあこがれに向けて、頑張り続けているのではないでしょうか。それらはあなたが積み上げてきた努力と財産となりあなたの生きる力として蓄積されているかと思います。「ちゃんと頑張れる自分でありたい、そうでなく人に迷惑をかけるのであれば死にたい」といったような、不完全な自己とこうありたい、こうあるべき自分とのギャップに苦しみ、死という方法をもってしてその葛藤から解放されたいのでは、というようにも感じました。

そもそも人は不完全で人に迷惑をかけることなく生きることはできず、そのことを罪深く感じてしまうのは生い立ちやご自身の特性からくるものかと思います。一度も挫折せずに生きてきてしまうと痛みは伴わない代わりに深みも増しません。どれだけ頑張っていても、生きていればこちらが準備していなくとも向こうから「死にたい」と思わされるようなことが突然くることもありますし、死にたい、は形やそれを指す意味が変わったり揺れたりしてもいいのでは、と思いました。

土台が揺れている、という表現は、あなたのその生きる目標、が他者基準になっていることからくるのではとも感じました。もちろんそれも立派な目標だし、他者基準だから悪いということではありませんが、目標に対して、もう少し自分が喜ぶ、自分の人生が豊かになるエッセンスがあるとまた土台の在り方も変わってくるかもしれません…。

感想2

経験談を投稿してくれてありがとうございます。自分の気持ちは本当なのか、自分に資格はあるのかと自問自答しながら生きているのかなと想像しました。もしかすると、あいまいなままにすることや不確定な要素があることが苦手なのでしょうか?だとすると、自問自答している問いに明確な答えはないかもしれないので、大変そうです。また、トラウマがあるならなおさら、自分自身の気持ちや考えがよくわからなくなっても不思議ではありません。

しかも、この社会自体もかなりあいまいです。私は昔、将来の夢に向かうルートがはっきりと存在するものだと信じていました。それに、努力すれば将来の夢はかなうとも信じていました。しかし現実では、いくら自分が望んでもかなわない夢はあるし、夢をかなえるためのルートなるものも存在しなかったです。理想をもつことは人生にとって大切な側面もある一方で、そこからズレたときのダメージがありそうです。

今振り返ると、私にそう思わせていたのは周囲の大人や教育だったかもしれません。あなたの理想がどこから湧いてくるのか知りたくなりました。よければ、どうしてあなたが理想や「ちゃんとした自分」を持つようになったか、教えてほしいです。

感想3

自分の内側の世界を通して、色々なことを感じ、考えている様子から、どちらかといえば「内向型」の人なのかなと思いました。内向的な性格ゆえに、「死にたい」気持ちを誰かと共有することもあまりなく、自分の中で繰り返し「死にたい」が生まれ、増幅していったような印象を受けました。(もし違ったら教えてほしいです)

それほど自分の「死にたい」気持ちと付き合いながらも、最後まで自分を生き抜くことが責任であり唯一の目標でもあるというあなたの考えを聞いて、私も色々と考えさせられました。

私は、責任を果たそうとする人には、必ずそれに見合った自由もあるのではないか、と考えています。あなたは今、自分を生きるという責任を果たしているかと思います。それなら、自分がどう生きるかを選び取っていく自由もあるはずだと思います。

内向的な人は、自分が決めた人生の目標に向かって突き進む、努力家タイプが多いような気がします。「貯金をし、実家を出て、独り立ちを果たした後、さらに理想を持って転職したのですが、挫折を繰り返し…」という部分から、当てはまっていそうです。もしかすると、自分とは違う外向的なタイプの人に憧れているのかなと推測しました。よければもう少し詳しく、あなたの経験や憧れるものについて聞いてみたいです。

感想を読んで

お返事を頂いてから、改めて自分の文章を読み返してみたところ、具体的なエピソードを挟むことなく感情ばかりを綴ってしまっていることに気が付きました。それだけ余裕が無かったのだと思います。

私は成人してから軽度の知的障害があると診断されました。明らかに周囲からは浮いた存在でありながらも、それまでは何の支援もないまま、苦しい学生時代を送っていたんです。
就職してからは、障害者雇用枠で幾つかの会社で働いてきました。一般の企業で障害者枠として働くケースと、同じように障害を持った方たちの中で働くケース、どちらも一定の期間働いておりましたが、職場に理解があろうとなかろうと、自分の能力では超えられない壁にはいつも悩まされています。他人からは理解されなくて当たり前だと思って臨んでも、特性的な所をつつかれると、いつも苦しくて申し訳ない気持ちになります。
お察しの通り、落ち度を指摘されてきた数は、人よりうんと多いです。
私の指す「ちゃんと頑張れる自分」というのは、社会に適応できていたり、しっかり自立ができていることであるのは間違いありませんが、もっとシンプルに言ってしまえば、誰かの足を引っ張らないこと、誰かを疲れさせないことです。それだけ私は子供の頃から周囲のペースを乱してきました。
ただ、そういう自分の苦しい過去や現状がエンジンとなり、常に考えることをやめず、自分を正そうと思えるのかもしれません。
そういった意味では、数々のネガティブ要素も私の生きる力になってくれてるのかもしれません。
ただその分、劣等感や疲弊も同時に生まれます。いつまでも埋まらない大きな砂場に、スコップやシャベルで砂を入れ続け、疲れてどうしようもなくなれば、「死にたい」と大暴れしているような人生なのかもしれません。

自分の人生が豊かになる目標、自分を喜ばせられるものは何か。考えてみました。人と生きることです。一対一の長期戦のなかで、果たして私は本当に人の意見を聞き入れたり、また自分を発信してきたのだろうかと、今思いました。憧れや、怒りや、自分の劣等感を誰かにさらけ出せること。そしてまた、こんな自分でも頼ってもらえたり、甘えてもらえたりしたいのです。それだけ常に、どれだけ親しい間柄でも一線を置いて付き合ってきてることに気が付きました。なのでもっと他者と思い出を作っていこうと思います。
それが本来の土台作りに繋がりますか?繋がると信じたいです!

内向的な自分を、外へ向けたい。もう不確定なものと向き合って、もがき苦しむのは疲れてしまいました。この度、この感想を拝読し、そう思いました。ただやはり、自分を律する気持ちは常にないと駄目ですね。私は今、休職期間中の間で、それを放棄し始めていたような気がします。今それに気がついてよかったです。
私の憧れは、常にかっこよくふわふわ楽しそうに生きて、誰かにそっと寄り添える人になりたいということです。
あと、人の中に埋もれたくないです!
常に個性的に生きていきたいのです。
最初の文章よりは、自分の気持ちを明確にできたような気がします。
ありがとうございました。