19年の所感


埼玉県/19歳/女


私は今年で20になる。関東の田舎とも、都会ともとれないような曖昧でぼんやりとした町に20年間漂い続けている。

大学はいまだ開かず、流れていく日差しとツイッターの友人たちのつぶやきとオンラインの飲み会の笑い声を横目に、ただ私はペンを握ったまま過ごしていた。

絵が描きたかったはず、小説が書きたかったはずだった。しかし今、楽しかったはずの行為は認められるためだけの行為にすりかわっている。どうしてだろう。すこし昔と今を整理したほいがいいかもしれないと、思った。直感だった。

芸術を学ぶ大学に入って、最初に感じたのは「好きなことがないと価値がない」だった。好きなものを追求して、研究して、創り出して、認め合って、そういうサイクルの中にみんないる。でも私にはこれといって好きなものが無かったことがわかり、愕然としてどうすることもできないでいる。何故だ。

絵は物心つく前から描いていたらしい。幼少の頃の記憶は曖昧で、母から聞いた程度のエピソードしかない。だが大学生の今でも絵を描いているということは、これは絵が好きということなのだろうか。自分のことなのに自信を持って断言できないでいる。

絵には苦い思い出がありすぎる。この歳にもなって小学校の頃の記憶を引きずっているのは恥ずかしいようにも思うが、六年生のクラスが学級崩壊を起こしたのだ。学級崩壊の中心となったのが当時の担任のO先生で、彼は大声でどなりつけるような人というよりは笑顔でねっとりと人を否定するような人だった。どなりつけもしたが。

その先生がいなくなる少し前、図工で絵を描く課題がでた。よくある写生だった。私は薄い色が好きだったので薄い色あいで校舎を描いた。そしてそれを先生に見せたところ、「先生はこの絵好きじゃないですね」と一言。曰く、子供らしさがないとのことだった。

子供らしさがないという言葉は私にとって呪いにも近い。親からも子供らしさがない、もっと子供らしくしなさいと言われ、もっとわがままを言っていい、甘えなさいとも言われた。けれど私は意固地になって大人ぶろうとしていた。余計子供らしくしなさいと言われるのは明白だ。しかし今になって思うと、甘え方や頼り方をもっと勉強すればよかった。一人で抱え込んで、体調を崩すことが多くなった。泣いて寝れない夜が増えた。バイトのことで相談できる相手を作れなかった。そのことを、休職する前思い切って上司に伝えると半分自業自得じゃない?と。そりゃそうだ。

自分の意思で他人に頼ってこなかったんだから。

でも甘えたい、誰かに話を聞いてもらいたい、肥大していくそんな欲求と板挟みになっている。でも自業自得なのだ。

絵を嫌いといった先生は、突然学校に来なくなった。もともと問題児が多かった学年かつクラスで、いじめ・いじめられはしょっちゅうだし暴力なんかも多かった。所詮は子供のやることの範疇なのだが、当時の私たちにしてみれば暴れる男子は怖かった。

しかし男子はまだわかりやすいからいいが、陰湿なのは女子一派だった。陰口とはよく言ったもので、影から影へ伝播して回りくどく自分のもとにじめじめした言葉がやってくるのだ。私が表立ったターゲットになることはなかったが、陰口はあったし友人が女性の音楽教師に陰口を叩かれてそれをノートに記されていたこともあった。先生も一応女子である。

ピンチヒッターで現れた校長先生は私たちを腐ったリンゴとよび、目の前で生徒の一人を平手打ちした。それに関しては謝罪もしていたが、金八先生が元ネタと知った例の言葉を放つ校長の姿は、今でも鮮明に思い出すことができる。

ちょうどその頃、一部の生徒の間では読書がブームになっていた。大人しくしている他なかったというのもある。その頃読んでいた文庫の小説賞が新設されるとかで、私は何気なく筆を取りさーっと物語を書いて送ってみた。入選したのはいいのだが、それ以降作品を書く=認めてもらう、という方程式が出来上がってしまったような気がしている。今でも認められるために作品を書いているような節があるのがその証拠だ。誰にだか知らないが。

中学にあがると、勉強と絵の二つに躍起になっていた。絵で賞をとり、勉強は学年上位に入る。頑張っていたというより、しがみついていた。それ以外に何も無かったから。

しかし自身の頑張り=承認という方程式がまたも出来上がってしまっていて、絵なんかは小学校の頃から誰かに認めてもらうために描いていたような節もあったもんだから、もはや取り返しがつかない。全ての行為が認められるための行為になっていた。

すごいね、えらいね、いい子だね

反吐が出そうな言葉を鵜呑みにしていた。でもそこから抜け出そうとしてこなかった私が悪いのだ。環境が悪かったのか、親が悪かったのか?でもそれは他人のせいにしているだけで、責任転嫁しているだけで、本当は抜け出そうとしなかった私のせいなのでは?と、今も夜になるたび脳裏に渦巻いている。自業自得だ。

でもこんな人間でも助けてくれた先生や話を聞いてくれる人はいた。強烈な思い出の裏に隠れてしまいがちだけど、保健室は唯一の逃げ場所だったし学年主任の先生は私に本をプレゼントしてくれた。もう少し大きくなってから読み返して、支えになってくれればと思ってくれていた。そんな人たちがいてくれたのに、なんだか人のせいばかりにして自分は悪くないと開き直っているような気がしてしまって、鬱々とする。

言葉をつらつら書いている間も、悲劇のヒロインぶっているのでは、とか自分だけ可哀想みたいに振る舞っているのでは、とか、いろんな声がぐるぐると聞こえる。自身の声だ。こいつらをかき消すには死ぬしかないのではと思うことも多々ある。自意識過剰なのはわかっているし、被害妄想もおそらく入っているのだろう。だから死ねば解決する。

そして私の家族もあるべき姿になるので一石三鳥どころではない。

私には妹がいるのだが、これがまた自分のやりたいことに熱心になり、努力し、前を向いていける人間だった。正直羨ましかった。歳が一つしか変わらないこともあり、どっちが姉なんだかわからない時もある。情けなかった。容姿も彼女の方が整っていて、中学卒業後日本舞踊系の修行に出て仕事もしているため、ますます綺麗になっている。努力しているのだ。何もしないで得られるものではない。努力できる彼女が羨ましい、と思うことしかできないで行動しない自分に腹がたつ。でも努力しないままだった。

自分に甘いのだろう。受験勉強も頑張っていたと胸を張っていえない。だから後ろめたいまま大学に通っている。希望した大学に通わせてもらっているけれど、こんなことを思うのは甘えなのだろう。

今妹は仕事がないため、修行先の京都からこちらへ帰ってきている。好きなこと、ものに熱心に突っ走るのは相変わらずだった。親元を離れて考え方が変わってきたのか、大人びたようにも思う。輝いていた。情けなくなった。努力すればいい、頑張ればいい。でも何を頑張ればいいのか、好きなことをやればいいというけれど好きなことはなんなのか。絵を描いても小説を描いてもどこかで誰かに認められることを求めている。邪な気持ちだらけだ。

甘え上手で子供らしいかった妹が、両親の間で楽しそうに歩くのを遠巻きに眺めていたことがある。あれがあるべき家族の姿だろう、と思ったことが何度もある。親戚一同いわく子供らしくないらしいが、子供らしさとはなんなのかわからないから、せめて大人ぶろうと必死に背伸びをしながら見ていた。

被害妄想が過ぎる。

親は私たちを等しく愛してくれているのは理解できる。実感がないだけで。心配もしてくれるし、援助もしてくれる。とんだわがままだ。

でもこんな心境を吐露することはできない。まためんどくさい、という顔をされるから。わかりきっているので話さないけれど、やはり時折吐き出したくなってぽろっと持ちかけると、途端に不機嫌になったような顔をするのは気のせいだろうか。時折面倒くさいよね、嫌なとこばっか似ちゃったとか言うのはやめてほしかった。話を聞いてもらいたいだけなのに。打開策とかはいらない、アドバイスもいらないから。頷いてくれたらそれでいいのに、いつのまにか私が聞き役になっている。家を出たら私の話は誰が聞いてくれるの、と母はよく言うが私の話も聞いてくれ。聞いてくれる時もあったけれど。これもわがままか。

こんな年になって親にしがみついているのが恥ずかしい。早く家を出たかった。家を出れば親のありがたみやら、育ててくれた感謝やらを実感できるのだろうから。幻想じゃないと知れるから。だが学生という身分でそんな事は言えなかった。

自分を痛めつけておけば何を言っても許されるというような姿勢があって気にくわない。だから自分が嫌いだった。死ねば解決するのだが死ぬ勇気もないのでやはり自分に甘いのだ。

こうして言葉にするというのも、結局誰かに助けてほしいと思っているからだ。でも自分の身を助けるのは己の努力だけではないかとも思う。死にたかった。

そろそろ大学の授業が始まる。小説を書き、絵を描く日々が続く。はじまる。でもその根幹にある大切な一本の筋が私にはまだ見つけられていない。あるのは誰かに認めてもらいたいだけの伽藍堂だけ。こんな文章を書いていて、自分に酔っているのではと思うと恥ずかしさがこみあげてくる。結局好きってなんなのだろう。まとまりがない思考を系統立てて話すこともできない。それなのに表現をしようとしているのは甚だ滑稽でしかないだろう。意味もないので死にたい。

【感想1】

すみません、一番最初に思ったのは、やはり文章を書く方なのだな、と。とてもきれいで情景や想いが浮かび上がるような、かつあなただけの文章を書く方なんだなと思ってしまいました。

「家族のあるべき姿」「頑張っていたというよりすがりついていた、努力をすればいい」「自分の意思で他人に頼ってこなかった」「好きなことに打ち込めなければ価値がない」という、いくつかのキーワードがあるのかな、と私は感じました。

あなたはすがりついていただけ、とおっしゃってましたが、そこまで絵を描き続けること、成績を上位を撮り続けること、希望する大学に入学できたこと、etc…これらを努力と呼ばなければ何と呼べばいいでしょうか…100%の力を出さなかったという意味をさすのであれば、長期的な努力は時々いい加減になる必要があるし、成果や形にするための努力であれば十分それは努力と言っていい気がしますし、努力の形やその目的も様々かと思います。

そして私は家族絶対神話はもうそろそろ人類は卒業したほうがいいと真剣に思っています。テレビCMで流れているような理想の家族しか認められず、産んでくれた親には感謝しなくてはならないのが常識であれば、そうでない家に生まれた子を否定することになるし、あなたが甘えられなかったり、頼れなかったのは、あなたにとって親は頼るべき存在としては頼りなかったのでは、と私は感じました。保健室の先生方には頼れたあなたがいるのも事実です。人に頼る、というのは意外に難しい力だな、と私は感じています。自分の弱さをある程度人に見せることが出来たり、相手に対して安全を感じていないと出来ないことではないかと。これまでそういった経験が乏しければなおさら。人に頼らなければならないわけではないですが、本当にきつくてつぶれそうなときなど、今回体験談をよせてくださったように、SOSが出せるようになれればいいのかな…と思います。

最後に、好きなこと、についてですが、産まれてきて初めて好きになったことを永遠に好きなこととし続ける必要もないし、途中で変わっていくことも当然あるかと思います。

そして私個人の意見として聞いていただければと思うのですが、20歳という若さで本当に自分が何が好きか、をわかっている人のほうが少ないかと思います。社会に出ていろいろなものに触れて自分はこの道を極めたい!と思うこともあるでしょうし、必ずしも好きを仕事にしなければならないわけでもないと思います。何が出来るか、よりも何か出来ることがある、ということの方があなたの財産になってくると思います。

余談ですが、私の知り合いで演奏家になりたくて吹奏楽の強い高校に入学した方で、音楽自体もすきだけれども、それに伴う演奏会などの荷物の搬送に興味を持ち、今は運送会社の楽器や高価なものの輸送、に関する仕事に就いています。

【感想2】

うまく伝わるかどうかわからないのですが、小さいころから継続的にアイデンティティーを傷つけられる経験をされてきたのではないだろうかという印象を抱きました。自己表現である絵を嫌いと言われたり、自分のありのままの姿を認めてくれなかったりが、その経験にあたりそうです。その状態だと、何が好きかはよくわからないし、認めてもらいたくなるのではないかとを想像しました(うまく伝わらなかったらごめんなさい)。アイデンティティーを言い換えると、あなたのいう「大切な一本の筋」なのかもしれないとも妄想しています。

個人的には、「好き」からつくられる芸術と、そうでない芸術に価値のちがいはないと思っています。負の感情からつくられる芸術があってもいいし、がらんどうでもいいと思います。もしよかったら、死にトリには「アート」というコンテンツがあるので、そこに投稿してみてほしいです。あなたがどんな絵や小説を書いているのか、私は読んでみたいです。

【感想3】

経験談を送ってくださってありがとうございます。昔と今を少し整理したほうがいいかも、という直感で書いてみたのですね。

死にたい、でも誰かに助けてほしい、複雑な気持ちが伝わってきました。今も傷を残していそうな強烈な記憶がある一方、人に支えてもらった記憶もある、というのは自然なことだろうと思います。

親に「子供らしさ」を求められ、話の聞き役にされてきたということですが、親があなたに依存していたのではないでしょうか。親自身に、「いい子の親でいなければ認めならない」という恐怖があって、あなたに「子供らしくていい子」であることを求めてきたのではないかと推察します。あなたが認められるための努力をしなければならなかったのは、親や環境に原因があると私は思いました。親の依存対象にされて苦しむなかで育ったなら、早く家を出たいと思うのも自然なことだと思います。(私自身もそうだったので、やや強めに書いてしまったかもしれません。)

人には社会や周りの誰かに認められるためだけではなく、自分自身の人生のために生きる権利があると思います。とはいえ、自分を抑えて過ごさなければならない、周囲の要求に応えなければ怒られるという環境を生き抜いてきた人にとっては、難しいことでしょう。まずは自分の感じたこと、考えたことを、誰かの評価を気にせず率直に出すことができれば、自分のやりたいことにも少しずつ気づけるのかなと思います。

ところで、絵や小説には、言葉や理屈ではうまく表現できない曖昧なものを誰かに伝える力があるのではないかと思います。また、表現活動に限らず、何かに取り組むのに「好き」という感情は必要不可欠というわけでもないのではないでしょうか。ネガティブな感情から生まれる表現もあって自然ですし、複雑な思いをなんとなく表現したものも人間らしい奥行きが出るのではないかと思います。(と言いつつ、私は表現が苦手です…)