経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

「死にたい」と「殺したい」

もう10年も前のことになります。

私は高校生で、ものづくりを行うサークルに所属していました。
このサークルの目的は年に一度あるものづくり系の競技大会(大学の学生フォーミュラの高校版みたいなもの)で優勝することでした。

大会の競技課題は毎年変わります。競技課題が発表されてから約半年で、競技に出場できるマシンを1台作らなければなりません。活動はハードで、大会が近くなると徹夜で作業することもありました。そんな生活を続けていると、夜一人で泣いてしまうこともありました。元々私は泣き虫ですが、顔だけでも笑顔を作ると心が明るくなるのだと聞いて意識して笑顔を作っていました。確かにこの頃、笑顔でいられるうちは大丈夫だと思うことができていました。

しかしそんなことを続けるうちに、段々自分のことが分からなくなっていきました。笑いたいと思っていなくとも顔は笑顔を作ってしまう。そうすると、自分が辛いのか辛くないのかがもうよく分からなくなってしまうのです。そして一人になると辛さが一気に溢れだして死にたいと思うようになりました。

もう死にたい、限界だ。そう思っていても、私はサークルを辞めることができませんでした。その代わりに、私は死にたいという思いを逆に利用しました。苦しいことに対して、「もっと苦しめば死に近付ける。死にたいんだろう?」と自分を追い込むことで、死にたい気持ちからエネルギーを取り出すのです。今思えば何かがおかしいのですが、その時は全力で見て見ぬふりをしました。こうして、私は死にたい→苦しいことを続ける→死にたいというループを作ることで、ハードなサークル活動を耐えていきました。

最高学年になった年、私を含む6人が中心となって一つのチームを作り、その年の競技課題に取り組みました。各メンバーにはそれぞれ担当が割り当てられますが、私はというと全体が見える部分を担当していたことからなし崩し的にメンバー全員の担当の取りまとめのようなこともやることになりました。

初めのうちは順調に進んでいましたが、そのうちチームメンバー内で軋轢が生じました。メンバーのAさんの担当部分がどうしてもうまく動かなかったのです。チーム内で散々揉めた末に、Aさんはその部分の担当から外れ、別の部分を担当していたBさんが後を引き継ぐことになりました。しかし担当がBさんに変わってもうまくいかず、しかしBさんの元々の担当もBさんにしかできない部分であったことからBさんに負担が集中する形になりました。更にBさんの心に余裕がなくなり攻撃的な言動が増えたためにBさんとメンバーとの溝は益々深くなり、私はBさんと他のメンバーとの橋渡し役として日々関係修復と調整に追われました。もうこの時、私はほとんどものづくりに関係することをしていなかった気がします。

果たして、競技大会ではあえなく敗退、精神的に病んでしまったBさんは精神病院へ通うこととなりました。サークルにもほぼ顔を出さなくなり、たまに校内で見かけるその目は既に死んでいるようでした。彼は私との会話も拒んでいて、私にはそれ以上どうすることもできませんでした。ただ、彼はそのうち自殺するのではないか、そうならないで欲しいと私は願うばかりでした。

それでも何とか高校を卒業し、大学に進んで数ヶ月経ったある日、メンバーからメールが届きました。Bさんの自殺を知らせる連絡でした。

彼を殺したのは私でした。私が他のメンバーとの間の橋渡し役として、Bさんの最も近くにいたのです。更に言えば、Bさんと私は高校時代、同じ寄宿舎に住んでいました。学校でのクラスは違いましたが、立場的にも時間的にも、おそらく最も彼の近くにいたのは私なのです。大会直後、メンバーの一人が私に「ありがとう」と言ってきました。「君のお陰でチームが空中分解せずに済んだ」と。そのことをふと思い出し腸が煮えくり返る思いでした。人が一人死んだ、この結末の何がありがとうなものか。空中分解するならしてしまえば良かったのです。そうすれば少なくともBさんが事の全責任を負ったような形で自殺することは無かったでしょう。結局橋渡し役であったはずの私がしたことは、人を一人自殺に追い込んだだけでした。

そしてもう一つ、私は卑怯にもあの時、打てる手を全て打った訳ではないということも私にとって辛い点でした。彼の自殺を止めることだけを目的にするなら、その方法は頭にありました。私が自殺すれば良かったのです。それも、なるべく周囲に迷惑がかかる形で。うまくいけば大会へ出場停止にできるでしょうし、そこまでいかなくともサークル内で参加を自粛する方向には持っていけるかもしれません。狂気に満ちた、しかも確実性がない案ではありましたが、結果論からすれば僅かでも可能性があるなら試す価値はあったのではないか。それを、「こんな明らかに間違った方法に頼らなくても、まだ他に皆が幸せになる方法があるはずだ」とありもしない希望にすがった私はどうしようもないほど愚かでした。

時間が経つごとに、私自身が一人過去に取り残されているようにも感じるようになりました。数年後の他のサークルメンバーは、Bさんの死を既に過去のこと、と割り切っている様子でした。私は自分の更なる間違いに気付きました。私は人の強さを見誤ったのです。私以外の人には、大切な人の死を乗り越え、再び前を向く強さがありました。私は人の強さを自分基準で考え、誰も死なない道を模索しました。しかしもしも人が強くあれるのなら、そしてBさんも「強い人」の側に入るのなら、全員が生きていなかったとしても皆が幸せになることはできたのです。その唯一の方法が、先に述べた私の自殺でした。私が彼の代わりに死ねば、Bさんも含め皆一時は悲しむかもしれませんが、やがては乗り越えて幸せになってゆくはずだったのです。

死にたかったはずの私は、最も死ぬべき場面で死に損なってしまいました。ならば殺してやる。この殺人者は、必ず私が殺さなければならない。私の中にあった自己嫌悪は憎しみに変わり、怒りは殺意に変わりました。元々あった死にたいという感情と、殺したいという感情とが混ざりあい、心の奥底に黒々とした底の見えない沼が出来ていきました。

それからは、何をやってもこの二つの感情が心の中で渦巻くようになりました。大学ではこの問題も解けない私はなんてクズなんだろう死にたいだとか、この程度の内容が理解できない自分は社会に出る前に殺しておくべきだとか。

社会に出てからはこの先もこんな風にずっと苦しみ続けるなら死んでしまいたいだとか今後も何か失敗して迷惑をかけてしまうくらいなら今ここでこいつだけは殺しておかなければならないだとか。

更には少しでも遺産ができるまで、つまり働き始めるまでは死ねないだとか死ぬのは単なる逃げだとか生きることを前提に力を貸して下さっている方々に対して不誠実だとか死にたいと言いながら何かと理由をつけて本当は死にたくないんだろとかそんな自分をやっぱり殺したいだとか、それはもう色々な思いがぐちゃぐちゃのまま黒い沼に放り込まれ、沼はどんどん巨大化していき、私はもう自分が考えていることの何が正しくて何が間違っているのか全く分からなくなり、自分の思考にさえ自信がなくなってしまいました。

それをつい最近まで気合と根性で全て耐えてきました。しかし遂に自殺の場所、方法を調べて必要なものを買い揃えたことで自殺の目処が立ったこと、そして自殺を考えている自分にも自信がなくなってしまったことで、心療内科を受診してみました。鬱と診断され薬は貰ったのですが効いているかどうかも自信がありません。さらに説明が絶望的に下手という生来の特性が災いし、鬱の症状があまり改善しないまま、数ヶ月後に首吊り自殺をしようとしたものの失敗、休職して今に至ります。

長々と書いておいて申し訳ないですが、この話には結論がありません。強いて言えば、私が彼の自殺を止める最も良い方法は結局何だったのか、そして私はこれからどうやって生きていく、あるいは死ぬべきなのかということです。一度失敗したとはいえ、私はこの最後の希望をまだ捨てられないでいます。ただ、首吊りは準備に時間がかかるので次は飛び降りで一息に殺してやろうとは思っています。

高校時代、一番長く私と接してきた先生は最後にお会いした時私に向かって吐き捨てました。「お前にかけた金も時間も、全部無駄だった」と。私はそれを否定したかったのですが、最近では正しいと思うようになりました。先生に限らず、親も会社も、私にかけた金も時間も全部無駄なのです。私はどこまでいっても死に損ないです。もう二度と生まれてこないよう、気を付けられる範囲で気を付けます。ごめんなさい。

長文に加え、あまり上手くまとまっていないことを重ねてお詫び申し上げます。この話を人にしたことが無い上、自分でも心の整理ができていない話なのです。申し訳ございません。

感想1

経験を詳細に書いてくださり、ありがとうございます。時系列で何が起こったかを語っていく展開にこの経験が深くあなたの中に刻まれていて、それを一つひとつ確かに起こった出来事として整理しようと書いているのだろうかと、書いているあなたの姿を想像しながら読みました。
あなたは、身近な人の自死を自分と関連付けて語っていますし、その関連付けはとても強いように思いました。私は普段から自分の問題と自分以外の人の問題をまるで切り分けて考えてしまう性質なので、あなたが強く結びつけて、自分を殺さなければならないような気持になることに強く興味を持ちました。私は誰かの存在価値や存在そのものは誰かのためにあるわけでもなく、だからといって自分自身のためというわけでもなく、単に存在してしまっているだけであり、生まれることも死ぬことも、どんな理由であろうがどちらも自然なことだと思っています。そして人間が知能や文化や価値を手に入れてしまったので、存在否定や生きている苦しさから逃げられないし、そこから逃げようとする人や逃げる人がいるのも自然なことなのではないかと思っています。ただ、そのような背景もあり結果としてBさんが死んでしまったことよりも、Bさんやあなたが受けた苦しみや扱いについては理不尽だと思いました。その人自身にそんな苦しみを負わなければならない道理はないという気持ちはありますし、そんな道理が通る社会に対して何とかしなければならないとは思っています。
自分が死んでもいいと思うぐらい絶望しているあなたが、他の誰かの自死にはそんなにも悔いて苦しんでいるのはなぜなのだろうか?繰り返し考えていますが、まだわからないことがたくさんあります。これからも、考え続けるためにあなたの話を聞かせてもらいたいと思います。今後ともよろしくお願いします。

感想2

最も身近だった人を自殺という形で亡くすというのは、言葉にならない重みがあるかと思います。人は、身近な人を亡くすと「もっと何かできたのではないか」「自分があの時ああしていれば」と思うものだと思います。私も大切な人が自ら命を絶った時、同じように自分を責めました。しかし、本当にあなただけの責任なのでしょうか。チームの軋轢や、自殺にまでBさんを追い込んだのは、あなただけの責任なのでしょうか。あなたは、一番近くでBさんに寄り添い、あなたにできる最善を尽くしたのではないでしょうか。最善を尽くしてなお、それでもBさんは死ぬことを選んだ、納得がいかないかもしれませんが、それは誰にも止めることが出来ない歯車のようなものがズレてそうした結果になってしまったのではないか、と私は思います。もしくは、サークル外の何かもあったのかもしれません。それはBさんにしかわかりません。

彼を止める最も良い方法は何だったのか、そしてあなたが今後どのように生きていけばいいのか、果たして当時あなたが自殺することでBさんは死なずにすんだのか、誰にもわかりません。今のあなたと同じように、自分にはもっとできることがあったのではないかと自分を責めるかもしれません。ただ、私に言えるのは、あなたは当時、最善を尽くしていた、ということです。

死にたくなっても、自分を殺したいほど憎んでも、それほど苦しい思いを抱えて生きていることを私は否定できません。ですが私は、亡くなった大切な人を、ずっと覚えていてあげよう、と思うのです。あなたにそう思ってくださいと言っているわけでは決してありません。きれいごとに聞こえるかもしれません。私はあなたの苦しみを本当にはわかっていないのかもしれません。

God, give us grace to accept with serenity
the things that cannot be changed,
Courage to change the things
which should be changed,
and the Wisdom to distinguish
the one from the other.

感想3

高校のサークルはかなり成果主義的な場所だったのだろうなと感じました。メンバーは成果を出すことに追われていたのではないかと想像します。そうさせたのは先生の指導方針だろうと思います。もう少し、チームで一つの物を作るプロセスにも価値があるという考えができれば、雰囲気や人間関係も違ったのかなと思いました。その経験によって、今も「〇〇すべきだ」「〇〇できなければ意味がない、生きる価値がない」といった考えに囚われて苦しんでいるのではないでしょうか。

時間やお金で測る価値と、人の人生・存在そのものの価値を比較するべきではないと、私は思います。先生は「お金も時間も全部無駄だった」と言ったそうですが、無駄かどうかを勝手に一方的に判断すること自体がおかしいのではないかと思います。それは先生の本音だったとしても、偏った価値観の押し付けではないでしょうか。一方的に価値観を押し付け、人の存在価値を否定するような言葉は、大人が発してはいけないと思います。ただ、年齢が大人でも、社会的地位を持っていても、未熟な行動をとってしまう人はいるでしょう。そんな言動に社会的立場の弱い方が押しつぶされるのはあまりにも残念です。もっと多様な価値観を共有し、寛容性のあるコミュニティを一緒に創っていけたらと私は思います。これからも死にトリにご協力よろしくお願いします。

お返事1

自分が死んでもいいと思うことと他人の自殺を何がなんでも止めようとすることについてですが、私は自分のことが大嫌いです。この世に生きていてはいけない存在です。笑顔など以ての外です。でも、周りの人に対してはそうは思いません。周囲の人達は皆私にとって大切な人達なのです。関わりたくないような人が居ないとは言いませんが、それでも皆笑顔でいて欲しい。それが私の願いなのです。

ところが、笑顔でいて欲しい人間の中に私は含まれていないにも拘らず、私が暗い顔をしていると周りの人が笑顔になってくれないことがあります。つまり私がしばしば皆の笑顔を奪う元凶になっています。それは排除しなくてはなりません。一番良い方法は私が私を殺すことだと思うのですが、これは矛盾しているのでしょうか。自分の考えを自分で信じることができないので、私にはよく分かりません。

Bさんの死については、私ではどうにもならなかった、誰にも止めることは出来なかった、と、当初の私はそうやって逃げていたのです。しかし、それではまた同じことが起きるかもしれません。「残念だけどしょうがないよね、私は最善を尽くしたからその死に責任はないよね」と、遺族の方の前でそれが言えるか?と考えた時、「どうにもならない」では到底納得できないものを感じるのです。かといってどうすべきだったかが分かる訳もなく、延々と出口のない迷路をさ迷い続けることが、少なくとも今の私にできる彼への償いなのです。

先生の発言については、確かに大人が発してはいけない言葉だとは思うのですが、今は正しいと思わざるを得ない状況です。現に今の私は休職して、何の役にも立たず人に迷惑をかけ続ける存在です。ずっとあの言葉は否定したいと思っていました。でも、やればやるほど自分の役立たずっぷりが、人に迷惑をかけているという思いが、嫌になるほど目について、「なるほど確かに無駄だったと言われても仕方ないな」と納得してしまうのです。自殺を思い止まったことで最後の一線は守ったような気がしていましたが、それも落ち着いて考えてみると果たしてどうなのか、やっぱり分かりません。

お忙しい中私の乱文を読んで下さったこと、本当に感謝しています。自分でも考えの浅かった部分を掘り下げていただけて、自分の中の沢山の点が線になりつつあるような、そんな気がしています。

お返事2

【返信への返信】

【コメント1】
返信ありがとうございます。とても丁寧な文章で説明してくださったので、お気持ちがよく伝わってきます。そんな中で私はあなたが「すべての責任を自分のせいにしている」ように感じてなりませんでした。
自死遺族の方に何て説明するか、「仕方ないじゃすまされない」というお言葉がありましたが、Bさんは自ら命を絶ったのであって、あなたが殺したわけではありません。確かにあなたは一番近くにいたのかもしれません。そのような状況に追いこまれる不条理さには私も憤りを感じます。生きていればつらく耐えがたいことはしばしば起こります。その時に生き続けるのか、命を絶つのか、選択する権利はいつも自分自身にあると思います。私たちは、死にたい人に対して、「あなたが私にとって大切な人である」と伝える以上のことはできないし、誰かの死を止めたり、そんな力は残念ながら誰にもないし、自分がこうしていればそうならなかった、というのはある意味傲慢な考え方なような気がします。

そして自死はいけないことなのか、場合によってはそういう選択肢しかないくらい苦しいこともあるかと思います。社会はたくさんの人が複雑に絡み合いその中で生きていく中で、個人が他者に対して出来ることはとても少なく、だからこそ自分を磨くのではないのかと、次同じようなことが起こった時に、出来ることが少しでも多くあるように。

それでも、救えないときは救えません。それはその人の人生であって、あなた自身の問題とは別の問題だからです。だから私はこのような仕事をしているのだと思います。

冷たく聞こえるかもしれません。ですが、自分の問題と他人の問題を切り離して考えることが出来ないと、本当に大切な人を、本当の意味で守ることはできない、と私は考えます。

そして今、そのことにとても傷つき、視野が狭くなっているのかもしれないと思いました。

自分のことが嫌い、笑顔になれない、それでもいいと私は思います。ただ、あなたの周りの大切な人が、あなたが笑顔でないと暗くなる、ということは、その「周りの大切な人」にとってあなたも「大切な人」である証拠ではないでしょうか。

私は自死を否定しません。ですが「あなたの大切な人」があなたがあなたを殺すことによって笑顔を取り戻すかどうか、は相手の立場に立ってみて、もう一度冷静に考えてみるべきではないかと思います。大切な人を亡くした痛みに苦しんでいるあなたには、きっとわかるかと思います。

【コメント2】

お返事ありがとうございます。スタッフブログの「仙台で印象に残っている話」で「死にたい」と「死ぬべき」について書かせてもらったのですが、あなたはどちらかというと自分は「死ぬべき」と思っているのだなと思いました。自分に対しては「死ぬべきだ」と思うけど、周りの人に対してはそう思わない、というのは、「死ぬべき」と思う人たちに共通しているようなのです。

ぐるぐると思考と感情がごちゃごちゃになった迷路をさまよっているのだろうと想像します。

そういうときに、「こんな役に立たない迷惑ばかりかけている自分だけは死ぬべきだ」というように思う人は、実は少なくないらしいということを伝えたいです。とりコミュでも、似たような思いの人がたくさんいると思いますが、それぞれ生きてきたなかで存在価値を否定された経験があるのではないでしょうか。そうだとすれば、誰かの存在価値を否定するような言葉を言い合わずに暮らせる社会を作る方法を一緒に考えていきたいと私は思います。

人と対話をすると、自分の感情や思考もクリアになってきますね。「死にたい」「死ぬべき」に思考や感情が支配されているときに、自分の考えを信じられないのは、ある意味健全なことではないでしょうか。いつか、誰かに押し付けられる正解ではなく、あなたが信じてもいいかなと思えることを得られればと思っています。

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