生きたいのに死にたい

北海道・22歳・女

 私は生きづらさを抱えて生きています。小学生の頃に経験したイジメ、人間関係の破綻、失恋、身内の死別、自然災害の経験、他人から受けた暴言暴力、全てがトラウマで、何をするにも頭から離れてくれません。このトラウマ達に加え、完璧主義でこだわりが強く、強迫的になってしまいがちな私の性格が追い討ちをかけていて、毎日「死にたい」と思いながら生きています。身近に全ての悩み事を話せる人はおらず、平然を装って過ごしているため、友人らにも話せません。むしろ、他人の前では装って生きてきたため、どうしても素が出せません。

 私が「死にたい」と思うのは、過去の体験が辛くて向き合いきれない事、自分自身に価値を感じず生きていてはいけない存在なのではと思っている事、この先生きていてもメンタルが回復する兆しがないから、孤独感、劣等感、苦しいから死んで終わりにしたい、無になりたい、という理由があるからです。

 「死にたい」けど「自殺」はきっと勇気がなくてできません。何故なら家族や周りがどういう解釈をするのかが怖いから、多大な迷惑を周囲にかけるから、失敗した時のリスクが大きいからです。なので、死ぬなら「事故死」が良いなと思っています。事故であれば「ただ運が悪かった」と納得してくれると信じています。事故って死ぬのであれば明日にでも事故りたい、そう思う日々です。実際に死にたくてたまらない時、ベルトで首を絞めてみたり、薬を多く飲んだりもしました。当たり前ですが死ねず、今生きています。私が元彼と別れた原因はODと私が病んでいた事でした。女にだらしない彼氏で不安は尽きませんでしたが、決して構って欲しい訳ではなく、心の底から信用していた事から辛いという事を相談したりするようになりました。ODも好きでしていた訳ではなく、明確な理由が自分の中にはあったのですが、する度に怒られ(隠している罪悪感がすごく、白状していた)私が謝りを繰り返し、別れる事となりました。彼に未練など一ミリもありませんが、何かの拍子に彼が発した言葉、態度、振舞いが一気に蘇り、具合が悪くなります。自分が原因として別れたにも関わらず、破局後もODがやめれない、誰にも言えない、人を完全に信用できなくなってしまった、どんどん悪化していくメンタルと自分の状況に向き合い疲れてしまいました。死にたいです。

 学力も恋愛も悩み事も全て人並みでいいのに現実は厳しく、何一つうまくいきません。最近は元彼との嫌な記憶(自分が悪いけど)を上書き保存するのに必死です。色んな男性とくっついては私から離れ、を繰り返しています。破局後に出会った男性には私の心の闇を伝えていません。伝えてしまうとまた捨てられる、同じ失敗はしたくない、という思いがあるからです。けど、隠し続けるのはとても辛いです。どうしたらいいのかわかりません。これは恋愛だけではなく、日常の人間関係でもそうです。私は人間関係すら築けない、呆れてしまいます。人が怖いし、先も見えない恐怖に耐えられません。

 これらの悩みの他に、HSPの傾向があること、勉強の悩み、強いこだわり、強迫観念、強い不安感(根拠がない事を永遠と考えて不安になる)、全てが生活に支障をきたしており、「死にたさ」を加速させている気がします。また、私自身、極端な考え方しかできなく、程よく折り合いをつけたり考える事がとても難しく感じます。曖昧な表現をされたりするのも苦手です。なので周りから理解を得られ辛く、何をしても辛いのです。

 どれだけ頑張っても、頑張ろうとしても、前向きに捉えようとしても、「死にたさ」は消えてくれません。出来る事なら生きていたいです。生きて、小さな幸せを感じたり、弟の成長を見守ったり、愛犬と生活を共にしたりしたいです。けれど、もう頑張る気力も生きる気力もなく、「死んだ方がもういいのでは」「疲れた」という感情に支配されているように感じています。

 出来るのであれば生きたい、なのに死にたい。

 生きるのが辛いです。

●感想1

タイトルにある通り「生きたいのに死にたい」というジレンマがものすごく伝わってきました。ジレンマの強さは生きたい強い思いから来るのだろうと思います。ジレンマを前に「どうしたらこの苦しみから解放されるのか」という思いから生きることをやめる方向性に考えて「死にたい」と思うのでしょうが、あなたの経験談を見て、「生きること」について考えてみたら何かヒントが見つかるのかもしれないと思いました。

おそらく、他の人たちも生きるのがつらい時にどうやったら死ねるのか、楽になるのか、「生きることをやめる」ための方向に考えてしまうのは無理もないと思いますし、当然だと思います。でも、あなたも言っている通り「生きたい」という気持ちがあって生きるのがつらいのなら、「どう生きるのか」ということを考える機会があったらどうなんだろう?と思ったのです。

社会は結果や成果、表面的な状況を示したり、求めたりしますが、「どう生きるのか?」というテーマについて考えたり、示したり、学んだりする機会を与えてくれないような気がします。

「どう生きるのか?」はとても難しいテーマですし、そんなことを死にたくなるほどつらい人が一人で考えるのは苦しすぎます。だから、ネットの居場所を通じて私は「どう生きるのか?」ということを改めて考えてみたくなりました。あなたの経験談を読んで、私自身新たな発見をさせてもらいました。ありがとうございます。

●感想2

人が怖い、素の自分を表現するのが難しいと感じながらも経験談を送ってくださり、ありがとうございます。できるのであれば生きたいけれど、苦しさから解放されたり、小さな幸せを感じられるようになるイメージもできないことから、死にたい気持ちになっている様子が伝わってきました。

ご自身でも完璧主義だと書かれているように、何事も「うまくやらなければならない」と感じていそうです。その「理想」が、素のあなたの願いであるなら大切にしてもらえたらと思います。しかし、今の社会では残念ながら、周囲の人に「〇〇でなければならない」と思わせられて苦しむことがたくさんあるのではないかと私は考えています。しかも、周囲に押し付けられた理想が内在化されると、本来の自分の願いと区別することも難しくなっていそうです。

強いこだわりや強迫観念、不安感などは、もともとのHSP気質の影響もあると思いますが、トラウマによる影響もかなり大きいのではないかと考えました。心身を傷つけられるような経験が重なったことで、強迫観念や不安感を感じやすくなっても不思議ではありません。逆に、傷つけられることの少ない安全な環境に出会うことができれば、少しずつ強迫観念や不安感も弱まっていくかもしれません。

完璧主義的なことから、一人でなんとかしようと考えすぎて苦しくなっていそうなので、お節介かもしれませんが、少しでも安心して過ごせる環境を一緒に探したいと思います。

【返信】

●感想1について

 以前、私はとにかく「死にたい」としか考えられませんでしたが、「死にたい」対して「普通に生きられないから」「このまま生きていける気がしないから」という理由が潜んでいる気がしました。そのことから、「私は実は生きたいのかもしれない」と思ったことがきっかけで「生きたい」と思っている自分の存在を知りました。感想1を拝読し、私が知った「生きたい」と思っている自分は、想像以上に強く「生きたい」と思っているのかもしれないと思いました。

 確かに「どう生きるのか?」というテーマについて考えたり、示したりする機会は与えられることが少ない(無かった?)と感じます。極度の人間不信なので、他人と「どう生きるのか?」について考えることは先のことになってしまいそうですが、「一度だけ人を信用してみよう」という気持ちを強く持てば出来るような気がしました。そして、信用できる人を見つけたいのと同時に、そのような機会が欲しいと強く思いました。

●感想2について

 私が「〇〇でなければならない」と考えるようになったきっかけは明確にはわかりませんが、私の経験、厳しかった周囲の大人と環境からきているのかもしれません。加えて、社会や周りの大人、他人の評価を極度に気にしてしまったり、負けず嫌いな自分の性格も影響しているかもしれないと思いました。

 私は本来の自分がどのような人なのか、わかりません。今まで、場面によって自分を使い分けてきたからです。とても分かりづらい例えですが、自分の中に何人も「自分」がいる感じです。状況に応じてその「自分」がいるため、本来の自分の願いがなんなのか、分かりません。常に「死にたい」と思っていますが、私にはやりたい事、やってみたい事、将来の夢、理想があります。ですが、それらはどの「自分」の事なのか、考えているのは「私」なのに分からずにいます。そして、それすらも辛くて尚更死にたくなります。自分と向き合うことは自分を知る機会となるプラスな面と、一方で自分を知ることで落ち込んだり、絶望したりといったマイナスなこともあります。「本来の自分」が分からない今、私は「本来の自分」を知った時にこの辛い状況がより辛くなり、再起不能に陥り、死ぬのではないかと怖いです。

 「傷つけられることが少ない安全な環境」に関して、私は傷つけられなくても自分自身で身分を傷つけてしまいそうです。そのため、自分が「安全な環境だ」と思うには長い時間がかかりそうです。「あなたはあなたらしく、そのままで良いんだよ」「あなたは悪くない」「頑張っていてすごいと思う」「人一倍努力するよね」「十分魅力的だと思うよ」等々、親しい友人は声をかけてくれる時があります。学校の先生には「よく頑張ったね」「課題の完成度が高いね」「えらいよ」「自分に自信持っても良いんだよ」等々よく言っていただきます。ですがこのような言葉をどう捉えていいのか私には分かりません。勿論、声をかけてもらって落ち着く時もあります。ですがそれはほんの一瞬で、すぐに自分自身を攻撃する言葉を自分に投げかけてしまいます。こんな感じだとどれだけ「安全な場所」にいても自分自身で「危険な場所」に変えてしまいそうで辛いです。これは場所だけではなく、人に対しても同様です。私は決して仲が悪いわけではないのに自分から縁を切ってしまうことがあります。何かされた訳ではなく、寧ろ良好な関係にも関わらず怖くなってしまうのです。見捨てられる恐怖、傷つけられる恐怖、傷つけてしまうかもしれない恐怖、これら以外にも様々な恐怖と向き合い続け、向き合いきれなくなって縁を切るのです。本当は仲良くしたかった、けれどこのままだと相手を潰してしまうかもしれないと思い、恐怖に負けて人付き合いをやめるのです。友達は沢山います。おそらく、多い方だと思います。ですが、その友達ともいずれ縁を切る日が来るかもしれません。そうなると、小学生の頃の虐めで経験した孤独をもう一度味わうことになるかもしれません。もう一度味わうくらいなら死んだ方がマシだと思います。

 少々話が逸れてしまいましたが、私は傷つけられることが少ない安全な環境にいた経験がないのでどのような場所なのか全く想像がつきません。ですが、もしかしたら誰かと考えたり、探したら見つかる可能性があるかもしれないと感想2を拝読して思いました。

【返信への返信】

●コメント1
コメントへの返信、ありがとうございます。かなり詳しく湧き出るように表現しているように感じましたが、経験談とコメントの応答を通じて、改めて気づいたことがあったのでしょうか?それとも、これまでも人には言えなかったけれど、自分の中でいろいろと考えていることがたくさんありましたか?いずれにしても、あなたは自分のことを考えたり、深めたりすることがとても好きな人のように思いました。

今回の返信を見て、改めてあなたは実にいろいろなことに恐怖心があるのだと感じました。その恐怖心をまず表現できたことが大切なのではないかと思いますし、生きたいと思っているあなたの次の一歩になるのではないかと思いました。あなたの恐怖心や何人もいるような感覚をもっと深めるためには安心して自分を語ることができる機会が大切になると思います。死にトリの活動を通じて、そうした恐怖についても、そしてどう生きていくのかということについてもぜひ考えたいと思います。

●コメント2
感想を読んで思ったことを詳しく教えてくださり、ありがとうございます。「自分」の中に何人も自分がいるようで、本来の自分が分からず、本来の自分を知ったらもっと辛くなるのではないかと感じているのですね。ただ、文章を読んで、あなたはご自身の気持ちやその背景をよく分析されていると思いました。信用していた元彼に辛さを相談しても解決せずに破局した経験などから、誰かに本来の気持ちや辛さの背景を話すことのハードルが高くなっているのではないかと考えました。

私が最近考えていたのは、恋人や友達など特定の個人に頼るよりも、(できればいくつかの)コミュニティーに頼るほうが安全そうだということです。コミュニティーには色々な人がいるので、それぞれに「自分」の色々な部分を少しずつ(小分けにして)理解してもらえば、トータルで「自分」をかなり理解してもらえるようになると思ったからです。また、誰かとの関係がうまくいかないときも、逃げ場がありそうです。

実は私も傷つきやすいところがあるので、安全な環境を見つける方法はよく分かっていません。探せば探すほど、見つからなくて絶望を繰り返すような気もします。それでも、少しでも生きやすい環境を求める権利は誰にでもあるのではないかと思います。人に協力してもらいながら自分の生きやすい場所を探していくプロセスの中で、少しずつ人を信用してもいいかなと感じられる可能性はあるように感じました。