同じくらい素敵な世界

 東京都・20代・女性


その日の夜、私は死ぬはずだった。ある方法で、自殺をしようとしていた。

「死にたい」と思うことはいつもだったが、その日は「死ぬのだろう」というなにかの確信があった。でも、うまくいかなかった。「覚悟がたりなかった」のかもしれないし、「死にそびれて惨め」かもしれない。しかしいま、生きていてよかったと思わずにはいられない。

私はすぐに死にたくなる病気を持っている。かかりつけのお医者さんによれば、双極性障害の2型(躁うつ病)。いままでそれで何度も休職や退職をした。うつがやってくるのは周期の問題のような気がしている。だいたい、3ヶ月。3ヶ月のなかで、躁状態(正確には軽躁状態)になりうつ状態になる。とは言っても、いつもは「死にたい」とは思っても、具体的な自殺企図をするほどではない。それは大学以来、約7、8年ぶりとも言えるような悪い状況だった。

思い返せば、前月末くらいからなにか状況がおかしかったのだ。頭はやたらくるくる空回りし、仕事もなにもかもにやる気はあるのだが、ケアレスミスが増え、こなすべき仕事は手に付かない。この時点で躁状態に近づいてきていることに気づくことができたらよかったのだが、そのときには「なんか変だな」としか思えていなかった。そうしているうちに体力が途切れ、気づいたら、うつに急降下していた。

最初は腹痛だった。体が重い感覚があり、次第に気分も下がった。そうなれば、ちょっとした雑務をこなすことも、会議に出席することもむずかしく、本当に何ひとつできなくなってしまった。急に休み、準備していた様々なことが手につかなくなり、いろいろな人に迷惑をかけてしまった。

そして冬至の日、私は死ぬことに決めた。というより、それが決定事項のように思えていた。「今日ですべて終わるんだ」と思い、なぜかとても穏やかな気持ちだった。普段から「死にたい」と思うことは少なくないが、そのときにはたくさんの好きなこと、素敵なことが未練になって歯止めをかけてくれる。ただ、この日、私は食べたいものも読みたい本も会いたい人も思い出すことができなかった。

主治医によると、それは「躁うつ混合状態」だったらしい。行動力、思考力は上がったまま、気分だけがうつになる。だから、死にたい気持ちのまま行動することができてしまった。
結果的に自殺が失敗に終わったのは実質的で具体的な話ではあったが、様子がおかしいと連絡をくれた友達には感謝している。


さて、私は死なずに布団に入って眠り、翌朝目覚めた。朝、相変わらず気分は悪く、「死にたい」と思った。そして「死にたいと思っているということは危険信号だから、はやく病院に行かないといけない」と思った。「危険だから、友達に助けを求めないといけない」とも思った。そして、そう思ったことに感動した。前日の私は、死への思い込みを遂げるためになるべく未練を残さないようにしたくて、連絡をとらないようにしていた。それなのに、朝になれば生きるための手段を探している。やっぱりあの結論が正しかったわけではなくて、ただそのとき、取り憑かれたように思い込んでしまっただけだったのだ。そう思えたことがうれしかった。

病院に行き、薬を調整してもらった。友達に電話し、話を聞いてもらった。そうしているうちに少しずつ「大丈夫」という感覚が戻ってきた。その日から、私はぐったりと眠ったり、食べたり、人と話したりしながら考えた。今後、私がどのように生活できるかはよくわからない。まだ万全ではなくて、以前よかったときのように働けるとも思えない。多分、一時的には今後また同じように働けるようになるだろう。働けるときは、まあまあのエネルギー量で働けるのだ。以前、友達にタスクリストを見せたら「やりすぎだ」と苦笑されたこともある。しかしきっとまた働けないときもくる。その波の大きさは、私自身にもアンコントローラブルで把握し得ない。それではきっと「ふつう」と聞いたときに一番に想像するようなやり方で働くのはむずかしい。私みたいな人が十分に生活していける社会なら、私以外の人もいくらかやりやすいのではないかと思う。それがどうやったら実現されるのか、それともそんなのはむずかしすぎることなのか、まだわからないけれど。

だれにも自分を殺さないでほしい。その中には当然自分自身も含まれるが、それだけではない。友人、知人、見える範囲の他者、それから見ることもできない遠くの誰か。すべての人が心地よく生きていられる世界平和を、私は願ってやまない。それって、どういう世界なんだろうと思う。他者の気配やぬくもりのある世界だろうと思う。


冬至の日を過ぎて、少し落ち着いてから、また何人かの友人に連絡をした。みんな、びっくりするほど私の話を真剣に聞いてくれた。変な言い方をするけれど、それは私自身の自殺リスクを下げるものだ。いのちの電話みたいなものにも助けられた。困ったときに聞く肉声は温かい。1人の友達が「あなたがいるこの世界で生きていたい」と言ってくれた。それは以前私が彼女に言った言葉だった。

なんで私は死にたくなるのだろうかと考える。苦しいからだ。苦しいとき、自殺は苦しみから逃げ切る唯一の方法のように見える。苦しみとはなにか。それは多種多様で一言では言えないが、そのとき心理的な苦痛と身体はこびりついていて、ただただ体感として「つらい」としか言えなくなる。

でも振り返ると、その感覚は案外てきとうで曖昧だ。私には大抵の苦痛が「死にたい」と「ご飯を食べたい」と「気持ちよくなりたい」で表現される。極端に言えば、喉が渇いているだけなのにご飯を食べてしまう。寒いだけなのにセックスをしてしまう。熱が出てつらいだけなのに死のうとしてしまう。そんなことすらある。複雑に感じているはずの体を、私の脳みそは単純な回路で分類してしまうようだ。それはさすがに極端だと思うが、後から考えたら合理的ではなかったと思うような結論に達してしまうことは、だれにでもきっとあることだろう。もしそれを解きほぐしていくことができれば、それは喉の渇きで、上司の何気ない一言による疎外感で、電車の中での不快な出来事による怒りだ。それ以上でも以下でもない。そういう問題として対処すればいいだけなのだ。「もしかして、喉が渇いていませんか?」そういうサジェストアプリがあったらいいと思う。身体と脳みそのマッチングアプリ。

一瞬の間に、人一人に分かることなんてたかが知れているのだ。だいたい、人が理解できる人の価値だって、そのごく一部でしかない。だからその時々の社会でその時々の尺度によって人の価値が判断される。苦しいのは人が誤謬とともにある、思考のいきものだからだ。

空高く翔ぶ鳥の目になる。遠くから見る、世界の目になる。そんな風にイメージすることがある。そこから自分を見る。周りの人を見る。風景を見る。「なんか、いいな」と思う。世界はうつくしくただそこにあって、そこに私もいる。
「生きるのは苦しいの 同じくらい素敵なの」
岡崎律子の「空色」という曲だ。私はそれをつらいときによく口ずさんできた。歌う元気もないときには、ただ歌詞を眺めて涙した。「同じくらい素敵」なこの場所で、私は「あなたがいるこの世界が好き」と言っていたい。そういう世界で生きていたい。生きていたい。そして、すべての「あなた」にも生きていてほしい。そのために、できることってなんだろう。そんな風に、いまも死にたい気持ちを抱えながら、そっと考えている。

感想1
死にたくなる気持ちの変化や行動に至るまで、貴重な経験を詳細な描写で書いてくださり、ありがとうございます。人が社会という複雑で多様な環境の中で、これまた複雑な心と身体を駆使して生きていくうえでの困難が独特の世界観と洞察力で表現されているように感じました。

人が生きることと同時に、死ぬことも同じように日常にあり、生と死がいつも共存しているはずなのに、生まれることがことさら美化され、死ぬことが悪いことかのように捉えられることが不思議で、違和感がありましたが、あなたの文章を読むと、どちらも同じように自然に描かれていて、その感覚に共感を覚えました。マッチングアプリはとてもいいアイディアだと思います。マッチングの誤作動を起こして、苦労している人は多くいると思います(むしろ、うまくいっている人の方が少ないかも)ので、役立つと思います。
それと同時に、誤作動を起こしている人たちの個人的な解決ではなく、あなたの言う通り、この社会がそんな誤作動を必要以上にさせないところであるような配慮や努力が必要だと思いますし、誤作動を補い合えるような場であってほしい(ありたい)と思っています。少しでもそういった社会に近づけるよう、これからも死にトリに参加してもらえたら嬉しく思います。

感想2
自分を殺しそうになった経験を、鋭い感性と思考によって表現してくださってありがとうございます。
あなたも書かれているように、一人の人間が一瞬に認識できることはごく僅かです。私たちはしばしば偏った認識や思考に陥ったり、感覚と行動が結びついていなかったりすることがあると思います。そのような意味では誰もが「不器用」です。だからこそ、人間は当たり前に支え合って生きていくものなのだろうと考えました。
あえて「支え合おう」と考えるまでもなく、人は普段の何気ない生活の中で支え合っているのだと思います。人間どうしだけでなく、他の動物や植物たちが織り成す生態系にも支えられています。そのことに気づき、世界は美しいと思える感性は、きっと誰もが生まれつき持っているのだろうと思います。
ところが、その感性を邪魔するものがあると思います。「その時々の社会でその時々の尺度によって人の価値が判断される」ことです。今の社会は、個人の価値を「判断しすぎ」なのではないかと考えます。
たしかに、善と悪、正義と不正義を判断しなければ、一部の人による心ない行動(権力を振りかざして搾取するなど)に歯止めがきかなくなり、平和は保たれないでしょう。しかし、今の社会で行われている判断は平和を保つための範囲を超えて、一部の人たち(マイノリティー性や病気を持っている人など)の人格を否定することになっているのではないかと、私には感じられます。
「世界は美しくただそこにあって、そこに私もいる。」と感じられる状態は、社会が作り出した過剰な価値判断から解放された本来の人間らしい状態なのではないかと思います。もっと多くの人がそう感じられれば素敵だろうなと思いました。
そのような社会への道のりは遠いものかもしれませんが、こうして自分の感じたことを表現してくださることに希望をもらっています。

感想3
死ぬはずだった日とそれからを、ありのままに書き連ねた文章だと感じました。あなたの心の動きが如実に伝わってきます。
死にたくなるほどの苦しみのなか、「やりすぎだ」と言われるほど働けば、体と脳みそがかみ合わなくなっても不思議ではないと思いました。そんなときに、自分の気持ちや感覚を正しく認識して対処することは、とても難しいのではないでしょうか。さらに、あなたのいうように社会の尺度で人の価値が決まるような世界で生きていれば、自分の気持ちや感覚を頼って生きるのは至難の業です。社会の尺度に影響されず自分と向き合える世界は、かなり平和かもしれません。

【返信】

感想をいただけて、とてもうれしいです。サイトを見たときに、経験談と感想がセットになっていることによって、対話になっているところがすてきだと思っていました。対話は他者ある社会で生きる私たちにとって、根源的で大事な試みだと思います。

いまの社会は死にラップフィルムをかけて冷蔵庫の奥深くにしまうように、匂いに蓋をして遠ざけているように、思うことがあります。もちろん、死と隣合わせの生活の方がいいということではありません。でも、隠されたものが消えるわけではない以上、そして消すべきでもない以上、うまく寄り添う必要はあるのだと思います。

適切な度合いを越えた「判断」について、私も、よく考えます。私たちは日々判断をしなければいけませんが、正しいことばかり選ぶことはできません。正しいかどうかという評価自体、個人・社会の一時的なものにすぎず、絶対的な正解を知ることはできません。それでも判断をしなければ、書かれていたとおり、歯止めのきかない状態になってしまうでしょう。

私たちは手探りで、誤謬を多く孕む存在です。だからいつでも間違えますが、同時にいつでも自ら省みることができると私は信じています。私には知らないことがたくさんあります。そしてほんの少しだけ、知っていることや考えたことがあります。そのほんの少しの中から、自らの言葉を省みながら、考えを省みながら、できることを探りたいと思います。

そのためには理想を語ることも大切ですが、なにより実質的な生活の継続が必要です。落とし所がどこにあるのか、どうすれば「やりすぎ」にならずにありたいように生きていけるのか。まだわかりませんが、「死にトリ」のような実践が行われていることに、とても心強い気持ちになっています。

【返信への返信】

コメント1
お返事ありがとうございます。
私が普段の生活や死にトリの活動をしている中で、なんとなく大切だと感じていたことを、言語化してもらっているような気がしました。
とくに共感したのが「私たちは手探りで、誤謬を多く孕む存在です。だからいつでも間違えますが、同時にいつでも自ら省みることができると私は信じています。」という部分です。
死にトリはまさに手探りで、みなさんの協力を得て、気づきをもらいながら活動しています。どこかに正解があるような活動でもないので、いろいろ試しながら、良かったところは維持して、もっと改善できるところに気づいては変えていくという繰り返しです。そうすることでしか活動を続けてより良くしていくことはできないと感じています。
だからこそ、様々な生きづらさを感じている人、あるいは関心を持ってくれる人たちに主体的に発信してもらい、学びあう営みを続けたいと思っています。

また、ご返信に書かれているように、傷ついた心身を回復させるには、それなりに安定した現実の生活を継続することが重要だと感じています。
死にトリも現実の生活感覚から離れることのないように活動していて、それを継続する中で生まれるものがあるのではないかと、個人的には捉えています。
誰でも分からないことは常にありますが、分からないなりにも、一緒に現実を受け止めて悩んだり発信したりしてみたいと思いました。

コメント2
「いまの社会は死にラップフィルムをかけて冷蔵庫の奥深くにしまうように、匂いに蓋をして遠ざけているように、思うことがあります」との部分に共感しました。
私はいつも死にたい(生きづらい)人の話を聞いているときに、本当の社会を見聞きしている気持ちになります。そうじゃない話には、リアリティがないなと感じます。
社会や生活の本質を見失わないよう生きたいと、あらためて思いました。