生まれてからずっと不況だリストラだと、凋落する日本を見て育った世代でした。「人間なんて、遊びたい盛りは勉強勉強で、それが終わったら働いて、それが終わってやっと解放される、そして死ぬだけ」と小学生の頃から人生を悲観していたのですが、学校のない土日は楽しかったし、それで平日の大変さが埋め合わされていました。しかし、その収支のバランスが崩れて以来、生きていたくないなと思って生きています。特に理由が思い当たらないのですが、 15の頃からでしょうか。
「別に死んでもいいな、人生キツいし」「通学路で車が飛び出してきて轢いてくれないかなあ」などと、ふとした瞬間に思ってしまって、でも外面は変わらず(変えられず)高校に通っていましたが、苦手な数学の予習を家でしているときにこう思ってしまったのです。「生きててもしょうがないのに、なんで嫌いな数学の予習をやらなくてはならないのだろう」って。
そこから3ヶ月不登校になりました。解放感があったのは最初の1週間程度で、そこからは焦燥感で日々つらかったですね。母に「高校に行かないなら行かないでいいから、身の振り方を考えてくれ」と言われたのもつらかったです。そんなのこちらが教えて欲しいくらいなのに(今だからこそ思いますが、不登校児の家族もつらいのですよね)。
不登校だったときはいつ死のう、家のどこで首を吊ろうと毎日考えていたのですが、ニュースで同じ年齢の高校生が自殺した事件を見て、なんというか我に返ってそれから元の高校に通い始め、そのまま卒業しました。大学も第一志望の所に浪人もせずに合格し、留年もせず4年で卒業できました。そしてそこで電池が切れて、もう頑張れないと思ってしまって、以来、実家でひきこもりです。
もっと高校で不登校していたときにケアが受けられればよかったのですが、スクールカウンセラーは学校にもいたようですが特に面談はせず、担任からの勧めもなくで。担任は家にも訪問に来ましたが、体調はどうか? という質問の次に「何かやりたいことがあって学校に来られないのか?」と聞いてきて……。それがないから学校に来られないのだが……と思いましたがそのときは伝えることができずに単純に「いえ、特に」と否定して終わりました。
不登校から復帰して、勉強の遅れも取り戻して、受験もこなして、と頑張ってきたつもりだったのですが、特に報われることもなく、こなして当然じゃない? という周囲の反応でした。大学で卒業に必要な単位を揃えるのも大変だったのですが、じゃあ次は就活だね、と言われてもこなすエネルギーは既になく……。不登校もせずに学校に適応してきた人でさえつらいのに、どうして私にこなせるでしょうか。もう勘弁してください。もうなにもしたくない。私は貝になりたい。
しかし貝ではなく無職になった私に、生活を許してくれるほど甘い世界ではないのでした。今の生活保護の保護費水準は、憲法25条の唱える「健康で文化的な最低限度の生活」から「健康で文化的な」の部分を無視したものにしか思えませんし、いわゆる行政の水際作戦を突破しても「私はひきこもりなので」という理由で就労指導をかわすことはできません。高齢、障害、あるいは疾病などの理由がないとハローワークに行って、その実績を書類に記入して……と無駄な作業をさせられるのです(不況で、生活保護を受給するような人に、しかもこのコロナ禍でどんなまともな職があるのか)。働いてまで生きていきたいかと言われても別に……と思ってしまっているので、じゃあ自殺するしかないよね、という結論になり……。いやいや、列車にとびこむのも自分でロープを用意して首くくるのもゴメンなのですが、最後のセーフティーネットですら「働かざるもの食うべからず」というスタンスなので、じゃあ死ぬわ、となってしまって。しかし死ぬのは嫌なのだった。以下無限ループ。
なんかもう、生きてても楽しい人たちだけで生を楽しんでください。私は自分で自分を始末するので、と告げておさらばしたいのです。しかし安楽死は日本では無理。あまつさえ「死にたくなったら相談を」「命を大切に」などとのたまう。
死にたいほどの事情が相談ごときで解決すると思っているのか。就労環境や経済を改善させず悪化させ、その後始末を個人につけさせやがって。
それに、「命を大切に」というときの命は質的生命というより、量的生命のことを言っていると思うのです。自殺すると稼働年齢の人口が1減ってGDPがウンタラカンタラだから死ぬのはやめてね☆という社会のホンネを美辞麗句に翻訳すると、「命を大切に」ということだと思うのです。パワハラセクハラ低賃金労災なんでもござれの、この日本社会で生きていくほうがよっぽど命を粗末にする営みだと思うのですが、どうでしょうか。「かけがえのない命」という言葉とは裏腹に、かけがえはあるように命が扱われているようにしか思えないのです、日々のニュースを見ていると。
無駄に生きながらえて、苦痛と面倒をまきちらしてしまったという考えがぬぐえない。さっさと死ねば良かったのに。誰か殺してくれればよかったのに。いや死ぬのは嫌なのだが……
感想1
独自の目線で本質的に物事を捉えながらこれまで生きてきた経験をご自分の言葉で語られているな…と思いながら読ませてもらいました。「人間なんて、遊びたい盛りは勉強勉強で、それが終わったら働いて、それが終わってやっと解放される、そして死ぬだけ」これはある意味世代を問わず人生ってまさにこの流れで進むよな…って妙に納得してしまいました。ずいぶん昔は、遊びたい盛りに勉強したことが社会に出たらそれなりに報われる世代もあったのかもしれませんが、もう30年以上前からその希望がもちにくい社会になっていると思います。きっとあなたには地力があって、勉強をしようと思ったらできるし、希望したらそちらの方向に進める方なのだと思います。しかし色々敏感に感じとったり考えたりすることができるからこそエネルギーもすごく使って疲れてしまうところがありそうだなって想像しました。あなたが高校の時に適切なケアを受けられたら良かったと私も思いましたが、「いえ、特に」って答えるしかなかったあなたの一言でそのまま流されてしまったことは残念に思いました。回復して走り続け、就活の声が聞こえる頃にはあなたのエネルギーが枯渇していたのも無理はありません。15歳の頃に収支のバランスが崩れたと表現されていましたね。これが“こころの収支”だとしたらその内訳(内容)も聞きたいと思いました。エネルギーを蓄えて解放する…この経験談を書いてくださっているいまのあなたの収支はどんな感じでしょうか。日本社会はたしかに大きく括ると命を大切にと言いながら、でもミクロの現場では日々パワハラやいじめなど暴力があり命が大切にされていない場面が多々あります。家庭、学校、職場…そこではあなたがおっしゃる通り、命を粗末にする営みに遭遇することは否定できない事実だと私も思います。一方でそういった被害を受けた時のために様々なサポートが制度的には用意されていることも確かですし、それらを利用して社会の営みに戻って行くひとに出会うこともありました。様々な制度には不備もあれば、ひとがやっていることなので、対応は様々だと思いますが、なかには自分事として想いや人権意識をもって少しでも社会がましになるように活動したり、ひとを支えているひとに出会うこともあります。(まさに質的生命に向き合うように)この死にトリもまた死にたい気持ちを抱えながら悩めるひとたちが社会参加という形で社会のひずみを明らかにすることがひとつの目的です。そしてまさにあなたの経験談もそれを明らかにしてくれているように思いました。私も自分のこととしてできることを考え行動していきます。また死にトリへの参加お待ちしています。経験談の投稿ありがとうございました。
感想2
嘆きと憂いが満ちているけれど、タイトルや表現に時々、ウィットや軽快さも感じ、明るさと苦しさのコントラストが交差する経験談だと思いました。どのようにして死にトリを見つけて、経験談を書こうと思ったのでしょうか。子どもの頃の学校の休みは楽しかったエピソードや学校を休んで解放感が少しあったことなどの様子から、楽しいことや好きなこともあるのだろうと思いますが、強制されて設定されて何かをすることへの窮屈な気持ち、圧迫なのか、とても苦しく感じる印象を受けました。そう思って読み返すと、義務的な活動やコミュニティへの所属に対して違和感が強かったのではないかと感じました。おそらく、とても真面目で一生懸命なために、そうした「やらなければならない」という場面になると、全力を尽くしてしまい、いい加減とか適当にということが苦手なのかもしれないと勝手ながら想像していました。そうした、真面目で一生懸命な人にとっては日本の学校や職場という集団はとてもつらいところになるだろうと思うと、不登校や引きこもりは自然な選択肢の一つだと思っています。
学校にしても職場にしても、いろいろな人がいろいろな形で緩やかに所属できる仕組みがあるといいのにと私は思っていますが、どうしても100%所属するか、しないか(できないか)を迫られることが多いと思います。あまり個性の違いは考慮されていないように感じます。あなたのおっしゃる通り、それは命が大切にされているとは思えないことも多くあると感じます。社会の仕組みが私たちが生きることをずいぶんと窮屈にしてしまっていると思います。
最後の方にあった「命を大切に」というメッセージについての意見にはその通りだと思いました。生きる気力や希望を失っている人に向けて「命を大切に」というのは、傷口に塩を塗るような行為だと思うことがあります。私たちは一人で生きていけません。命を大切にするのは個人の責任ではなく、社会全体の問題だと思っています。経験談を読み、本当は「命が大切にされる社会になってほしい」という期待や願い(といっても、ずいぶんと諦めてしまっているのかもしれませんが)も感じましたが、どうでしょうか。私はそういう社会になってほしいし、そうするためにはどうしたらよいか考えています。
何かアイディアがあったら教えてください。