埼玉県 20歳 男
自分にはこれといった死にたくなる理由もなく、ただ人生を楽しいと思えないから消えたいというだけの人間であることはご容赦ください。
経験談と言いますが、自分は高校を中退して引きこもりになる以前の記憶があまりありません。それどころか引きこもってからの出来事もさほど無いため薄い内容になってしまいます。
産まれてこの方ずっと貧乏でした。さらにきょうだいも多かったため騒がしく、次第に自分は自己主張しない大人しい子供になっていったのだと思います。
8歳まで住んでた家は広めなアパートの一室でした。
至る所にゴミが散乱していて、服は脱ぎ放題になり、なんならネズミが壁に穴を開けて住み着いていました。太いマットのような大きいベッドを2つ横並びに置いたのが家族の寝床でしたが、飛び跳ねるとチュウチュウと中にいるネズミの声が聞こえてきました。
保育園や幼稚園には行っておりませんでしたが小学校には上がれまして、そこが初めての集団生活の場となります。
確か嫌われていたと思います。理由としてはお風呂が壊れていて使えなかったために「くさい」と言われていたような。
しかしその小学校からは3年生になりたての頃に転校することになりました。学校にいる時に突然先生に荷物をまとめさせられて、なんだか分からないまま校門に連れられると父以外の家族がいて、母について行くまま真昼間ですが夜逃げするような形で移動していきました。
父が悪かったのです。浮気するわ家族の面倒見ないわ怒ったら物壊すわということで、DVのサポート的な何かがどうこうしたのでしょう。
その後は各地を転々としていきました。ワケありなシングルマザーの支援施設をいくつか経て、そして小学5年生の時に施設じゃない住居に行き着きました。それが現在も住んでいる場所になります。
引越したてで数週間の頃、家に父がやってきました。夜中に訪問してきて、自分と母だけが起きていて父と会いました。どうやら母は父が来ることを知っていたというか、前々から連絡を取り合っていたらしいのです。
「この人から逃げ回ってたんじゃなかったの!?」というツッコミは心の中にしまって「まあ、そういう事ならそれで良いけれど」と思うようにしました。
その後に父とは会っていません。幼少期の思い出を色々と忘れていますが、この出来事は何故か記憶と印象に残っています。
小学校高学年と中学生の頃はクラスメイトとも仲が良く、それなりに充実していました。
ただ自分は欠席と遅刻を繰り返して宿題をやらない生徒でした。母が早くに働きに出るのをいいことにダラけていたのです。ちなみに他のきょうだいもあまり学校には行っていないようでしたね。それを見て心理的な抵抗は薄らいだのだと思います。
一応、頑張ろうとした時はあるんです。中学の頃に「このままではいけない!」と一念発起して1ヶ月連続で登校してみましたが、反動なのかその後1週間学校に行かなくなりました。
他にも、小学校6年生の頃に学校に行きたく無さすぎて部屋の扉の前にバリケードを張ったこともあります。
でも具体的に何が嫌だったかの理由は無いんですがね。それなのに過剰に行きたくならない自分に悩んでいましたが、成績なら真ん中より上取れてて怒られないから良いだろうと思うことにしたのです。
そして特にトラブルだったり問題はなく中学を卒業できました。
高校に入る前に先生たちからしきりに言われたのが「高校は甘くないから中学のようには行かないよ」でした。休みがちな自分を心配してくれていたのです。
「高校ってのは厳格でサボっちゃダメな場所なんだな。しっかり頑張らなきゃ!」と意気込んで怠け者の自分を変える目標を立てたのはいいものの、1年の1学期で撃沈。不登校になりました。
その時の記憶はありません。全く思い出せないのです。不登校になったのが5月か6月か7月なのかさえ分かりません。4月はさすがに無いと思いますが……。
自分にしては思い切った決断なので覚えてそうなものなのですがね。不登校を決めたきっかけはなんだったのか、どういう心境だったのか、決めた翌日の登校時間にはどうしたか、家族の反応はどうだったかなどなど、その時期の記憶をさっぱり忘れてしまっています。
しかし不登校になる直前のことはうっすら覚えていて、中坊上がりにはキツいくらいの重荷を抱えて限界状態で通学に使う電車に乗っていました。
色々とメンタルが削れる要因はあったのですよ。
制服を買えないから学校のサンプルを着させられたり、入学から1週間程度上履きを買って貰えなかったり、みんな持っていたスマホが自分には無かったりして、クラスメイトとの疎外感とコンプレックスを持っていました。
当時パンクしていた自転車で駅まで片道30分は体力的にしんどく、さらに修理されてない自転車で通学するのにもコンプレックスがありました。
自分のせいで発生する出費、電車の定期代や昼食代などで家計を圧迫してしまうのがだんだん辛くなっていきました。
怠けない人になるという目標を持っていたはずなのにやはり宿題が手につかず、どうして自分を変えられないんだという自己嫌悪とこのままでは退学になってしまう焦りがありました。
他にも要因は色々とありますが、不登校になるまでメンタルが追い詰められた1番の理由は、そこまで追い詰められていて誰にも頼らなかったことなのです。
自分、昔から人に頼るということができないんですよ。
高校の担任だった先生にはいつでも相談に乗るよと言われていました。でも自分はそう誘われているにも関わらず相談しなかったのです。
頼ったら絶対に動いてくれる確信がある時にしか人を頼りたくない想いがあり、そして自分を助けるために動くだろうと信じていい人は居たことがありませんでした。
つまり信頼してない人に頼ることがとにかく嫌で嫌で嫌で……。ですが現状は人に頼らないとどうにかなるものではありませんでした。そういった精神と状況の矛盾は基本的に大事なものを手放すという形で終わります。
自分は流れで高校を退学し、そのまま19歳まで引きこもりました。それが自分の青春時代です。
引きこもり中にすることと言えばネットサーフィンがメインで、他に犬の世話や散歩とちょっとした家事くらい。そんな日々を16から19まで続けていました。
ただずっと同じような時間をループしていたのです。母やきょうだいにも冷ややかな目で見られました。
友達はいませんしどこかに出かけるということも無かったです。
中学の頃にクラスメイトと仲が良かったと書きましたが、厳密には友達になったわけではありません。あくまで学校の中でだけ楽しく会話しますが学校外だと会わず、誰も自分の住所と連絡先を知りませんし知らせませんでした。
そんな引きこもりの日々の中で悟ったのが、自分は潜在的な人嫌いであると。
人はどうしても信用できないし、人は何しでかすか分からなくて怖いし、ただ人が自分を認知しているというだけでも精神が疲れるし、1人の方が気楽だったのです。
その引きこもりの日々を終えたのは母でした。知っている職場に面接の電話をかけて自分に応対させたのです。それが19歳になる頃。そのまま数日後面接からの翌月バイト決定という呆気ないオチで終わりました。別に働くことが嫌な訳じゃなかったので。
こんなことなら自分がすぐにバイトの面接の電話をかけていれば3年も引きこもらずに済んだでしょう?
でも出来なかったんですよ。電話をかけて何を言われるかが怖い。母に代わりにかけてと頼ることもできない。母が自主的に動いたから自分は面接に行けました。
自分ってすごい人間ですよね。1人じゃ何もできないのに人を頼ろうとしないのですから。
そうして現在まで働けています。お菓子を自由に買えるようになったことは嬉しいです。
ですが生きる意味が見つかりません。
バイトしている時にふと思うのです、「こんなに苦労してまで生きるほどの人生か?」と。寝るために目を瞑っていると思うのです、「わざわざ寝るの?昨日と同じ今日が明日もあるだけなのに」と。
ここまで目を通した方なら分かって下さると思いますが、自分は生きていて全く楽しいことが無かったんです。
もちろん楽しい瞬間はありましたよ。だけど自分の人生が楽しいと思ったことは1度もなくて、きっとこの先の未来もそうなんじゃないかって不安が拭えません。というよりももう確信になりつつあります。
自分には生きたいと思える理由もないのですが死にたいと思える理由も持っていません。頑張って生きていくのも苦しいけど、頑張って死にに行くのも悲しいと思ってしまいます。
ずっとずっと生きる意味を考えていましたが、結論として、今日偶然生き残った事だけが明日を生きる理由なのです。
潜在的な人嫌いであるため、よくあるような人に必要とされて生きる意味を得る方法はあまり実感が湧きません。むしろ自分にとって人から必要とされるのは嫌気が差してしまいます。
ただ、今は泡になって消えたいのです。生きるでも死ぬでもなく、泡になって空中に弾けて存在を消したいと漠然と願っています。
ここまで書いてなんですが、自分は結構明るくて前向きな人間なんですよ。現状だって「ずっと斜め下だった人生グラフがようやく横ばいになったんだから、あとは斜め上に折り曲げれば人生楽勝でしょ」とラフに考えています。
ですがふとした時気を抜いてしまうと上記のことが頭によぎり、辛くて辛くて猛烈に消えたくなってしまうのです。
感想1
経験談は私自身の経験と重なることがいくつかあったのでそれも思い出しながら読ませていただきました。あなたはいま前向きに日々生きているけれど、ふと気を緩めると心の隙間から辛い感覚がすぐに浮上してくる、そんなイメージをしました。
幼い頃のあなたの生活状況をリアルに想像してみました。あなたにとっては日常だったと思いますが、どんな感情で暮らしていたのでしょう。父親のDVから逃れるために転々と生活環境が変わったこと、それにも関わらず父親が突然訪問してきたこと…薄れた記憶の中にも時々繰り返し思い出される光景はいくつかあるんですね。そのような状況でも小学校高学年から中学校まで特にトラブルなく過ごしたことはあなたの本来もつ地力なのかなと思いました。高校入学の頃には経済的に苦しい状況によって気力も底を尽きそうになったにも関わらず、誰にも頼らなかったことはこの経験談の中で一番印象的でした。人嫌いってひとの何が嫌いなんだろう?と考えたことがありますが、それがあなたの経験談を読んで少しわかったように思います。ひとを信用するって難しいですね。自分ではない他者に期待したり、自分を助けてほしいと頼ったりすることは改めてとてもハードルが高いし、難しい行為だと思いました。さらに経験談を通して感じたのは、あなたの人生の大半が自分の意思が及ばないところで生活が決まっていく(転居を繰り返したり)ことが多く、自分の意思が反映される経験が少なかったのかなと推測しました。仮にそうだとすれば、生きる意味を考え続けて導き出された合理的な結論が「今日偶然生きてた事だけが明日を生きる意味」になった理由もわかる気がします。最後に、いまは社会に適応しながら生きているあなたの姿を想像しました。意思とは別のところで、“昨日偶然生きたから今日生きている”以外に何かあるとしたら何だろう?と質問したくなりました。あなたと語っているような感覚で感想を書かせていただきました。投稿して頂いてありがとうございました。
感想2
非常に興味深く読みました。淡々と、時にはウイットに富んだ表現もあり、一人の人が生きてきた道の語りに引き込まれました。最初に「これといった死にたくなる理由もなく、ただ人生を楽しいと思えないから消えたいというだけの人間」というどちらかというと軽い表現と、実際の歩んできた道に流れる重厚感のギャップも気になりました。そして、あまり記憶がないと言いながらも、事実はたくさん書いているのに比べて、その時の気持ちについてはあまり書かれていないので、記憶がないのは気持ちが麻痺していたからなのかもしれないと思いました。そして、人の記憶というのは事実を覚えていることはなく、感情に事実を結び付けて記憶するのであって、感情を抑えていると、記憶の機能が発揮されないのかもしれないとあなたの経験談を読みながら、勝手に推測していました。
私も「生きる意味」についていろいろ考えた時がありましたが、結局は「生まれてしまったから生きているだけ」とぐらいしか表現できませんでした。あなたの「今日偶然生き残った事だけ」という表現を見て、そういう表現があったか…と、唸る気持ちでいます。
あなた自身は毎日同じことの繰り返しで、楽しいことも実感も得る物もないかもしれません。そして、人嫌いで人の役に立つことに嫌気がさし、生きる意味も見いだせないかもしれませんが、私はそんなあなたに確かにいてもらいたいと思いました。どうしても、人の役に立って、積極的に前向きに生きる人が標準だと思われがちですが、そうしたスタンダードは、そうではない人のアイデンティを揺るがし、生きていてはいけない気持ちや消えたい気持ちにもつながっているように感じています。限られた情報からですが、あなたの生き様には人間らしい矛盾が凝縮されているように思えて、そこから感じることについて考えたり、話し合ったりしたくなります。あなたから見える風景をもう少し教えてもらいたいです。