生きているのがつらい

20代 女

昨日、今日と、久しぶりに何にもしない土日を過ごした。
本当に何にもしていないかというと、一応料理をしたり家中の掃除をしたり、そういうことはしたけど、あとの時間はずっとスマホを見てるかテレビをぼんやり眺めるか、日記につらい気持ちをひたすら書き綴って気が狂ったみたいに泣くか、疲れて寝てるだけだった。
それに、別に他の土日も似たり寄ったりのもので、特別素晴らしい行いをしているわけでも模範的な生活を送っているわけでも何でもない。ただ、週末になれば多少は勉強の時間を確保しているし、週明けからの出社に備えて心身を整えるために欠かさずホットヨガに行くし、飛び石連休みたいになっているこういう期間なら本来もう少しちゃんと自炊をする。
何の計画性も一貫性もない、思い付きで行き当たりばったりで何の価値も生まない、とても無駄な時間を過ごしてしまった。

仕事に行けば何かしらやることがある。中には期限が明確な仕事もあるから、その期限を守るためには、優先度の低いものまで含めて「何をいつ行うのか」きっちり段取りを考えて進めていく必要がある。一緒に仕事をする人のスケジュールにも気を遣わないといけないから、どんな簡単な雑務であっても無計画にのんびり進められるほど甘くない。それが仕事に対する責任とか重みみたいなものなのだろうと思うけれど、私にはそれこそが救いだ。仕事をしている時間が好きだ。
仕事をしていると、常に何かをしている実感が持てるから、「私って生きてていいのかもしれない」と思える。ただ消費して何も生み出せない、価値のないくだらない人間ではないのかもしれないと少し自分に期待できる。朝の通勤電車や、ざわついて落ち着かない社内の昼休みを思い出すと、本当は会社になんて1秒も居たくない。だけど私は、会社に行って仕事をすることで自分自身が救われているし、毎日当たり前に行く場所があって、黙って行かない選択をすれば罰せられる環境があることに、本当はものすごく依存して甘えていると思う。

何もしない週末を過ごした。私は生理に問題があって、もともと幼いころからも色々な刺激に対して過敏に反応する子供だった(環境の変化や他人の言動、表情など)のも関係があるのか、生理の前後になると心も体もものすごく調子が悪くなる。久々に出血が多くて、やっと終わってぐったりしていたことを差し引いても、何だかずっと心ここにあらずな状態で休みが終わってしまった。買い物に行こうとして化粧を始めたはずなのに気が付いたらInstagramで前髪セルフカットの動画を見て1時間半経っていたり、音楽を聴こうと思ってスマホのロックを開いたはずなのに「面倒くさい女は周囲からどう思われるのか」「どこに行けば人と出会えるのか」といつの間にか検索していたり、食欲がないからお粥を作って食べようとしていたはずなのに台所のシンクの中を必死に磨いていたりした。ベランダの花に水をあげようとしたけど、前日に生きていることが辛すぎて一人で泣き叫んでうつ伏せのまま寝たせいで出来たであろうクマがあまりにも恥ずかしくて、ベランダに出られず呆然としたまま、他のことをしているふりをして自分を誤魔化しつつ何時間も過ごした。結局、最初に花に水をあげようと思ってから6時間も経った14時頃、やっと立ち上がってバケツに水を汲んだ。
試験まであと3か月しかないのに、年明けの業務の繁忙期やら、出来るのに出来ない言い訳を探して逃げ回ったツケやら、家族の機嫌を損ねる恐怖で行きたくもない遠出の誘いに便乗したことやらいろいろで、当初の予定に比べて進捗が芳しくない。友達がいない私の毎月の給料の使途は、実家に入れるお金が全体の3割と、食材や日用品などの買い物代、自分のための出費はホットヨガの月額料金と資産運用、消耗品の購入くらいだ。元々あまり給料が高くないのと、このあたりのお金を出すと手元には数万円しか残らないのもあって、正直年齢が若いとはいえ実家暮らしじゃなければ相当苦しい生活になると思う。過去に心を病んで精神科に通い、入院をしたこともあるのだと洗いざらい話したうえで雇ってもらい、今では期待していると声をかけてもらえるような会社だから、少なくとも入社からこれまでの自分の赤字を全部返上して「稼ぐ人間」になれるまでは辞めたくない。少ない手取りで恩を感じる会社のために、お金を貯めて仕事に役立つ試験勉強のための学校にオンラインで登録した。その講義を週末に視聴しているんだけれど、今週、先週はどうにも生理が辛くて全くダメだった。あるいは「生理が辛くてダメだった」ことにしている、だけのような気もする。

何もできない週末だったけど、せめて夕飯くらいちゃんと買い物して作って、旅行から帰ってくる家族も食べられるように準備しようと思った。だけど暑さのせいにして出かけられないまま、もうすぐ2時間が経とうとしている。本当は視界に入る他人の幸せそうな顔を見るのが怖いからなのに。
昨日、一人だから気が済むまで泣こうと思って(それでクマができて困ったわけなんだけども)、感情のままに泣いたり大声出したりした。「なんで?どうして?」「やっと普通になれたと思ったのに、何でまたこうなるの?」「どうすれば、普通に幸せに生きていけるの?」「私の何が間違えてていつもこんなにつらいの?」「何で他人と笑顔の時間を共有すればするほど、私は傷ついてるの?」泣きながら私は、そう叫んでた。

笑顔で楽しそうに見えるから、何の苦痛も抱えていないなんていう発想は違うと頭ではわかってる。だけどもう、できれば死ぬまで一生笑わずにいたい私にとっては、あんな風に笑える人に「本当はこんな悩みを抱えて生きていてすごくつらいんです」なんて言われたとしたら「うるせえよ嘘つくなこの甘ったれが」と思う気がする。ちょっと訳ありな感じを出しておけば人間としての深みが生まれると思っていて、そういう自惚れの世界に生きている自己愛に満ちた愚かでかわいそうな、さぞかし幸せで苦痛とは対極の世界に生きる人間なんだろうなと思う。思ってしまうと思う。

だって私の世界の中では、私が誰よりも一番苦しい。私が誰よりも孤独で、人の支えを本当は必要としていて、だけど頼れるあてがないから全部自分で解決して(あるいは解決しないから時の経過にかけてじっと我慢して)、そういうことの積み重ねで仕方ないから自分の殻に閉じこもっているのは当然のことのように思える。だから他人の苦しみを察知して助けてあげられる余裕なんてないし、むしろ他人が苦しそうにしているのを見れば見るほど「ふざけんなそんな程度で他人の力借りようとすんな私はもっと苦しいのに一人で耐えてんだわ」って感じるし、私にしてみれば大して辛そうじゃない誰かが人に助けられているところを見ると、余裕がないなりに他人から受ける相談や愚痴は例外なく最後までちゃんと聞くようにしている私の努力って、テレビとかでよく聞く「助け合い」って、いったい何なんだろうと思えて気が遠のきそうになる。
他人を頼ること、頼ったうえで上手に生きていくことが、本当は自立することとか大人になることを指しているんだと思う。他人に頼ることは悪いことではないんだと、頭ではわかってる。だけど他人に頼ったことがないから頼ることと甘えることの違いがわからないし、甘えの方をとって他人にしな垂れかかって生きていく情けない大人には絶対なりたくないし、誰が頼ってよくて誰がいけないのか全然わからないから、殻にこもることしか出来なかった。

だけど、でも、ってさっきから連発しているけど、こうやって出来ない理由を正当化しているうちは私はきっと永遠に変われないし、永遠に苦しみを断ち切ることはできない。一生幸せになることもできないんだと思う。変わらないといけない。常に付きまとう苦痛が原因で、不機嫌な態度や言葉で、自覚なしに多くの人を傷つけてきたと思う。
私が変わらなきゃいけないのは自分が幸せになるためじゃなくて、社会で他人とこれからも関わり合う身として、最低限引き受けるべき責任のようなものだと思う。誰にも頼れないのは事実だけれども、知らず知らずのうちにどこかで誰かに支えられて助けられて生きているのだから、そのことを忘れて自分の感情任せに振る舞う傲慢な人間でい続けてはいけないと思う。素晴らしい何かを成し遂げたり、社会を劇的に変化させたり、世の中のあらゆる人から感謝されることはなくても、せめて微力でもいいから「この世にいてよかった人」でありたい。私が死んだときに、一人でいいから、私の好きだったところを一つ挙げてもらえるような生き方がしたい。私が苦しんでやっと自力で乗り越えてきたいくつもの壁を、少しでいいから誰かの活力に繋げていってもらいたい。すでにこれは高望みで自惚れのような気がするけど、そうだったらいいと思う。

ものすごく憂鬱で何も手につかない、ギリギリの状態で書き始めた文章のような気がするけれど、一通り書ききったら何だかすっきりした。仕事を始めてから日記を書く習慣はとっくになくなってしまったけれど、やはり私は書くことで自分と深く向き合い、別の視点から自分で自分を観察し、それが正しいかどうかはわからないけれど解決の糸口を見出していけるのかもしれないと思った。

夕食を作ろう。ハヤシライスが食べたいけどお肉がないから買いに行こう。それで今日は少し早くお風呂に入って、23時には寝よう。大丈夫、できると思う。そう信じることが多分大切なんだと思う。
今はこう思っていても、きっと明日朝起きたらまた同じ苦しみが待っていて、あっさり裏切られたような気分になる気がする。変わりたい。裏切られた気分になっても、変わらなきゃならない。それが何者でもない、何も生み出せないけど社会の端っこで生きさせてもらえている、私の最低限の果たすべき責任だと思う。

感想1
経験談というより、1つの完成した小説を読んでいるようでした。根底に自らが納得できるような人生のあり方があり、その人生への強い願いを感じました。その上で、経験談を書いてくれたモヤモヤのようなものは、人生のあり方に対して現実が伴わないことへの不全感なのかな?と思ったのですが、読んでいるうちに、何か違うような気がしてきました。
正体不明の不安や表現できない気持ちが雲のように浮遊しているのか、もしくはつかみどころのない、虚無感に溺れているところから、何かを手掛かりに抜け出したい、目指していくべき何かを得たいと探している様子が想像されていきました。
まだ、明確に何かをつかんだり、得たりしたわけでもないけれど、書くことで次に進むための少しの手がかりだけはつかめたのではないかと感じました。
この経験談は必ず読み手がいるものです。その誰かに読んでもらうという設定をうまく生かして、自問自答をすることで、解決の糸口を見つけていく様が感じられました。また、書かれている内容からも、自分の置かれている状況や与えられた条件から何かを見出す様子が感じ取れました。きっと、周囲の物事を自分の資源として活用することが上手なのだろうと思っています。迷いも葛藤も虚無ももどかしさも、チャンスとして何かをつかもうとする持ち味はこれまでもあなたを支えてきたし、今後も助けてくれるような気がしています。

感想2
経験談の投稿ありがとうございます。あなたの経験談を読ませてもらって、誰かに何かを伝えたいというよりも、自分で自分のことを整理するために書いているのかなと感じました。あなたは真面目で自分のことを整理して過ごすことが多い方なのかなっと想像しましたが、日常の中では色々な社会からのメッセージや、他者からどう思われるか等を気にして過ごしている所とのギャップがあなたの生きづらさなのかなっと私は想像しました。そして、自分の中でのこうあらねば・こうしなければという思考に縛られているのかなとも想像しました。
最後に私が変わらなきゃいけないのは、という部分を読んでいて、あなたが思うように社会貢献のようなものも求められるのかも知れないと思う一方で、気持ちの余力がない中で社会貢献をしていくことはまた矛盾や苦しみが生まれるのではないかなっと私は感じました。
自分だけでは自分の状況の整理が客観視できなくなることもあると思います。そういった時には、匿名のSNSや電話の相談などを使ってみてもらえたらと思います。