「死」はいつだってそばにいる

宮崎県・19歳・女性


自分はもう死んでいると、時々思います。

そう思うようになったきっかけは、一年前の二つの出来事が原因なのかなと思っています。もしかしたら、他の人にとっては取るに足らない出来事だったんだと思います。それでも、私にとっては衝撃的なことでした。

まず一つ目。去年の二月頃、飼い猫が死にました。私はその時のことを鮮明に覚えています。猫は死の間際で、懸命に息をしていました。「まだ生きたい」と必死に足掻いているように見えました。そして私が目を離した隙に、猫はもう動かなくなっていました。時間が経って、死後硬直が始まって、真っ黒な瞳孔が開いた猫に私は触れました。温かくて柔らかかった体も、かたくて、冷たくて、薄い皮の下に骨の形を感じました。何より衝撃だったのが、その瞳に何もなかったことでした。さっきまで「生きたい、生きたい」と足掻いていたのに、跡形もなく消えていました。「死」は全て奪っていくんだ、と戦慄したのを覚えています。

二つ目は、その後しばらくしてから、友人から「自殺未遂をした」「死にたい」と聞いたことです。学校に長い間来ていなかった友人が心配になって、私が連絡をとったことで、その言葉を聞かされました。私は衝撃を受け、混乱し、友人のために何かできないかと考えると同時に、激しい恐怖を感じました。

「死」はこんなに身近にいるのか、と思いました。私の周りにいる人も、私ですら、明日死んでしまうかもしれない。あんなふうに全部奪われてしまうかもしれない。ひょっとしたら今日死んでしまうかもしれない。

そんな、恐怖で埋め尽くされました。その日から解離症状が出て、不眠症にもなりました。

一年経った今では、地道にやってきた自己分析のお陰か少し楽になってきています。でも、まだ夜になるとあの時のことを思い出して、(二つの出来事はどちらとも夜に起こりました)苦しくなったり目が冴えて眠れなくなります。

解離症状のためか日常に現実感が持てず、自分の体さえ他人のもののように感じます。その度に、私は猫が死んだ日、あるいは友人に「死にたい」と言われた日に死んでしまったのかもしれない、と考えています。

感想1

 死を強く意識せざるを得ない出来事があったのですね。ある意味ではありますが、死を身近に感じられるのは健全なことなのではないかと私は感じました。病院や施設という閉じられた空間で人が産まれ死んでいくからでしょうか、人の生死を暮らしの中で実感できる機会が失われていると思うことがあります。

 そんな風に考えていた私ですが、投稿者さんの経験談を読んで、私の死に対する捉え方は一面的であると思い直しました。投稿者さんは、恐怖で埋め尽くされるような死を実感した結果、日常生活に実感が持てなくなったのですね。

『猫が死んだ日、友人の方に「死にたい」と言われた日に、(投稿者さん自身が)死んでしまったのかもしれない』と考えているのですね。なんとなくですが、その感覚は自分にもありそうだな、と思いました。自己分析を地道に続けてきたとのこと。自分を研究するということは色々と発見がありそうです。自己分析を続ける中で、新しく生まれ変わるような感覚があるのかもしれないな、と想像しました。

「死」を身近に感じながら生きている人と、「死」を身近に感じずに生きている人の違いは何だろう・・・。

感想2

死にまつわる二つのエピソードが、投稿者さんにとってどれほど重大だったのかを感じました。身近な家族(猫)の死の現場に立ち会ったこと、そして友人の「死にたい」という思い。それらは投稿者さんの目に映るものの外に今まであった「死」という事象を深く印象付けるものだったのだろうと思います。

私もタイトルにある通り、「『死』はいつだってそばにいる」と感じています。生き物である以上、私もいつかは死ぬだろうとぼんやり思っていますし、それは他の人についても同じだろうと思います。ただ、だからこそ、「奪われる」だけが死ではないような気がしています。

死への思いは千差万別で、死に向かうときの表情もおそらくさまざまなのだろうと思います。また、死を見届ける人、だれかが亡くなるそのときを見守る人の表情もきっとさまざまでしょう。

投稿者さんが恐れを抱くのは、「生きていたい」「生きていてほしい」という思いがあるからなのかな?と思いました。それも生き物としてまっとうな思いだと感じます。(なにがまっとうでなにが違うのかというと、むずかしいですが)

死は身近な存在ですが、私たち人間の生活には、ほかにもたくさんの身近なものがあります。たとえば人や自然や音楽。投稿者さんが現実を感じられるものがなにかひとつでもあればいいと思いました。