生きたいから死ぬ


喜怒哀楽の「楽」、それ以外の感情がまるきり正しい形で表れなくなったようでした。

なにがどうなってそうなったか、正直なところなにも覚えられることができていません。誰にも聞かれないんですから、誰に伝える理由もなくて、喋る相手もいませんから。

自分がこうなった一番の原因は自分自身ではありますが、それでも自分はたったひとりで今まで生きていたわけではないのですから周囲による原因も多少なりともあるでしょう。

私の好きな食べ物さえも知らないような家族が、どうして私を気遣うことができるでしょう。

生憎私にはもう食べ物の好き嫌いもないんですが。生きる作業で自分の健康を損ない続けていれば、嫌いや憎悪を通り越してどうだってよくなったんです。

ですから、この人生に後悔はありません。

ですけれど、この人生は間違っていたんだろうとは思うのです。

死にたくはありません。周りの人が悲しむうんぬんの前に、死にかけな時でも痛いのです。痛い思いも苦しい思いもごめんだと、誰しもが思う気持ちです。

だからこそ、私はなるべく出来る限り、誰よりも苦しんで死ななければならないのです。

そうでなければ、死にたくなくても生きられなかった方々に失礼にあたるからです。

今生きている周りの方々に失礼かどうかは考えるまでもありません。

その生きている周りの方々に私が失礼な思いをしているのですから。

私はどこかの宗教のように許せるほど優しくもなければ、長年積み続けた怒りを一度爆発させた程度で消化できるとも思っていないからです。物理的な被害は出来る限り小さくした方が、精神的な被害はきっと甚大だと思って。

どうせ心の痛みなんて、体験しなければわかるものではないのです。

今の現状を見れば理由を語るまでもないでしょう。

…まあ。そもそも13か14歳の頃から決めてたんだよな。25歳までには自殺しようって。

ずっと前から決めていた、生きる期限が今切れるだけだった。

感想1

文章を送ってくださってありがとうございます。

自分のことはどうでもいいと思いつつ、他者の痛みを想像し思いやる気持ちがあるのだと思い、少しアンバランスな状態なのかもしれないと感じました。

「25歳までには」と生きる期限を設定したのは、どんな意味や背景があったのだろうかと思いました。「周囲による原因も多少なりともあるでしょう」と書かれていて、確かにそうだろうと思います。投稿者さんが、どんな人に出会いどんな経験をしてきて、周囲からどのような影響があったのかを、もう少し聞いてみたくなりました。また、こんな人がいればいいのに、こんな人と話せたらいいのに、と思うことはあるのか気になりました。

タイトルにもあるように、生きたいという思いが伝わってきましたので、それが叶うためにはどんな場所があればいいのかとか、どんなふうに生きたいと思うのかなど、気が向いたら教えていただけたらと思いました。

感想2

生きることを真剣にとらえている人の文章だと思いました。だからこそ、死についても真剣に考えてきたのだろうと思いました。投稿者さんにどのような状況があり、「死にかけ」と描写されるにいたるまでのどのような出来事があったのか、文面から多くを読み取ることは私にはできません。ただ、「怒り」について書かれていることから、これまで多くの「痛み」を経験して理不尽なことに対する思いを抱えてきたのではないかと思いました。食べものの好き嫌いもなくなるほど「どうでもいい」という気持ちを抱えながら、同時に「どうでもいい」とは到底しきれない怒りや苦しみを感じているのだろうと想像しています。

その中で経験談を送ってくださったのにはどのような理由があったのでしょうか。よければ教えてほしいと思いました。また、機会があれば「とりコミュ」なども活用して、これからも、考えていることを発信してほしいと思います。