コミュニケーションができない


幼稚園や小学校のころから苦手意識を感じていた。

先生と仲良くなることができなかった。敬語とタメ口の使い分けがわからない。声のトーンがわたしだけ違う気がする。なにか話しかけられても「そうなんですか」としか言えなかった。

卒業後、ある場所で先生と再開した時、友達はみんな気さくに話しかけていたけど、自分だけ話しかけることができなくて無言でいたら、「そういえば○○さんはいないんだね」と言われた。目の前にいるのに。

同級生の親からは「大人びてるね」と言われたけど、甘えられないだけだった。クラスメイトから「○○はキャラがわからない」と言われた。私だってわからない。自分をさらけ出すって何?わたしはずっと自然体なのに。

運動会でクジで応援団になってしまった。大声の練習で自分のときだけ先生が苦笑いしてた。コミュ障なうえにあがり症で、音楽のテストで声が震える、楽器が弾けない、暗唱テストでパニック状態で人の3倍の時間がかかる。職員室に入れないまま30分たつ。やっとのことで知り合いの先生に「○○先生呼んでいただけませんか」と伝えると、「なんで?自分で大声出して呼べばいいじゃんw」と言われ、恥ずかしくてどうしようもなかった。

ちょっとした用事で人と話すたびに、苦笑いされる。駅員さんとか公務員の方とかに。久しぶりに会った幼なじみたちと、自分だけ馴染めなかった。私の一言一言が場を凍りつかせ、みんなを苦笑いさせる。なんだかわからないけど変なこと言ってるみたい。話も聞けてないみたいで、「さっきその話したでしょ!」とか。リアクションも下手なんだと。一番仲良かった子に「なんでそんなつまらなさそうに話聞くの?」と怒られた。ただ緊張してて、なんて返事しようかで頭がいっぱいなだけ。怒られてパニックになって、空笑いしかできなかったから、余計空気が変になった。私が変わったのか?それとも、変わらなさすぎたのか?幼なじみたちとの断絶は本当にショックで、それきりまともに会えていない。

大学、自己紹介の時緊張しすぎて、うまく喋れなかった、自分だけ先生からのコメントがなかった。同級生に話しかけられたけど自分から話しかけなかったせいで友達ゼロ。ディスカッションの授業で自分の意見を言ったら、先生に苦笑いされた。先生に「何を言っているのかよくわかりません」と真顔で言われたこともある(しかもみんなの前で)。「○○についてどう思いますか?」と言われて、何も思いつかなくて、頑張って喋ったのに、そんなこと言われてとてもショックだったし、周りの同級生はみんなうまく喋ってて、わたしだけが異常者みたい。わたしの苦しさをきっと誰も知らない。

映画や本が好きだけど、好きな理由を聞かれると答えられない。ことばがうかばない。他人の感想を流用するのもなにか違う気がする。「考える」がわからない。自分が何が好きなのか即答できない。

学年が上がって、友達を作らなきゃと勇気出して隣の人に話しかけたけど、全然会話が盛り上がらない。相手は良い人だから、自分と一緒に居させるのが申し訳ない。もうあまり話しかけないようにする。

雑談ができない。こちらから質問しても、相手の返答に「なるほど」「そうなんですね」しか返せなくて会話が続かない。どのタイミングで笑えばいいのかわからない。頬がひきつる。「頬がピクピクしてるw」と悪気なく言われたこともある。人と目が合わせられない。話してる時にこちらを見ないでほしい。緊張して、顔がひきつる。目が泳ぐ。うまく笑えない。家族でもだ。

もう本当にどうしようもない。わたしのこれらの生きづらさに名前はつかないし、薬も、明確な改善方法もない。本人の努力不足だと思われるのが嫌だ。遺伝なのに。だって、母方の親族はみんなまともに話せないから。兄は私よりも重症でずっと友達ゼロ。

私はギリギリ社会生活を送れるレベルだと思う。こんなことで悩むなんて…と思う人もいるだろう。実際、わたしは予め準備をすればプレゼンだってそれなりにできるし、事務的な会話は容易だ。学校のカウンセラーの方には「まだまだ若いんだから、これから希望あるよ」と言われた。

でも、私の感覚では、確実に、日常に支障が出ているの!

もう苦笑いをみたくない、「は?」という顔をさせたくない。恥をかくのはもう嫌だ。自由自在にことばが扱えたらどんなに良いだろう。人と楽しく雑談がしたい。友達がほしい。コミュニケーション能力が鍛えられるなら鍛えたい。でもどこに行けばいいの?お金もないし、方法もわからない。わたしはADHDや自閉症じゃない。もうどうしようもないから誰か助けてほしい。精神論で説教しないでほしい。インターネットにはしょうもない精神論しかない。あがり症に「相手をかぼちゃだと思って」とか馬鹿じゃないの?わたしは動悸や震えを抑制する心臓関係の薬であがり症を改善させた。結局緊張のしやすさは遺伝、身体の問題だったんだ!それを知った時心が軽くなった。コミュニケーション能力もきっとそうなのに、わたしの出来なさはまるでわたしの責任みたい。

結局、できる人間にできない人間の気持ちはわからない。コミュニケーションから逃げても良いんだよと言うかもしれないけど、でもじゃあ今の大学の必修授業はどうすればいいの?大学院だって行きたいし、教授と雑談できないと円滑に指導が進まないでしょ?同級生とディスカッションしないと成績もらえないでしょ?私に逃げ場はありませんし、これから先、うまく生きてる自分の姿も見えません。だから、もう死んで全てを終わらせたい。

感想1

人前で音を発して注目されることへの抵抗感が強いのかなと、読んでいて思いました。

コミュニケーションができないというよりも、投稿者さんのコミュニケーションのパターンと、周りの多くの人が求めてくるコミュニケーションのパターンが違ったのかもしれないと考えました。そして、周囲の多数派のやり方に合わせることを求められ続けて、苦しい思いをしてきたのではないかと想像しました。

話す・聞く・考えるなどが苦手というよりも、それらを同時並行でやるのが苦手という場合もありそうだと考えました。

多数派ではないのかもしれませんが、投稿者さんと似たようなコミュニケーションのパターンを持つ人も一定数いるのではないかと考えています。ただ、そういう人もいるということを多くの人が理解しているかというと、まだそうではなさそうです。理解が広まっていないことによって、一人で悩んだり、自尊心を傷つけられるような対応をされることがあるのだろうと思います。

身体に働きかけることで、コミュニケーションの取りやすさに違いが生まれるのか、興味が湧きました。ストレッチやダンスやウォーキングなどをして身体の緊張を解すというのも一つの方法だろうか…と考えました。もちろん、安全でリラックスしやすい環境にいることも前提として大切なように思います。

他の誰かや社会に合わせるためではなく、投稿者さんが楽しい・面白いと感じられることの一つとして、コミュニケーションが取りやすくなったらいいなと思います。これからも、お話を聞いたり一緒に考えたりして探っていく機会があればいいなと思います。

感想2

投稿者さんはコミュニケーションに苦手意識を感じながら、周りの反応をよく気にして生活されているのだろうと思いました。「自分が何が好きなのか即答できない」と書かれていて、おそらくさまざまなことを考えていて、ゆっくり考えればわかるのだけど、それを即座に言語としてアウトプットするのがむずかしいことがあるのではないかと想像しました。「でも、私の感覚では、確実に、日常に支障が出ているの!」という言葉を読み、投稿者さんの叫びのように受け取りました。日常が円滑に進められない感覚は負担になると思います。

一方で、経験談に書かれている文章はとても端的で読みやすいと感じました。「即答」するよりも、熟考して、文字にしていくことで整理することのほうが得意なタイプなのかもしれないと思います。人にはそれぞれ、さまざまなタイプがあると思いますが、むしろこの文章にすることができる力を生活に活かしていくことはできないだろうかと想像しました。

コミュニケーションと一口に言っても、本来はファストで端的なコミュニケーションがすべてではなく、ゆっくり言葉を交わすやり方もあると思います。

ただ、その中で雑談などの比較的速くテンポを求められるやり方を円滑にこなしたいというのが投稿者さんのニーズなのかなと思いました。たとえば、テキストベースのコミュニケーションのほうが得意ということがあれば、とりコミュやここチャットなどで発信の練習をしてみるのもいいかもしれないと思いました。

感想3

 何だか自分と重なり合う経験談だと思いました。また、ご自身が持って生まれた身体や特性は、自己責任ではないことはその通りだと思いました。

 自分と違っていることは、投稿者さんが実に詳しくご自分や相手のリアクションの分析がなされていて、自分の力を客観的に観察されていること。また、そのことに問題意識を持って様々な試みを続けて来られたこと。

 ひるがえって自分は、相手がどう思おうとあるいは伝わらなくても言いっ放しだったことを、「相手が苦笑い」する様子を想像しているうちに気づいてしまいました。そのようなことから投稿者さんは、相手への配慮を怠らないとても誠実な方なのだろうと推察しました。そのために大学側がしてもよい配慮を望む前に、全部自分のせいにされてしまったのか、と想像しました。

 さらに想像したことは、小さい頃からマイナスのリアクションを受けてこられたことで、いっそうマイナスの評価に敏感になってしまわれたのかも知れない、ということでした。一方的な想像ですので、間違っているかも知れません。

 しかしながら現実の暮らしの中では、どんなに自覚を持って慎重に生活していても、周りからの反応や評価はどんどん辛辣になってきたようです。投稿者さんは相手も自己も理解しようとつとめたにも関わらず、理解してもらうというコミュニケーションの原則には相反した仕打ちを受け続けたようにも感じました。

 また投稿者さんは様々な試みにも挑戦されています。コミュニケーションの力を鍛えたいとも書いておられて、他人にはわからない努力や挑戦をされてきたのだと思います。それなのに否定するかのように扱われたり、まだ若いとはぐらかされたり、精神論を押しつけられたりしては、次の試みに踏み出す勇気ばかりか自由さえ削がれてしまうのではないかと思いました。

 ただ、「わたしは予め準備をすれば~」と書かれている投稿者さんに、私はまた別の想像が浮かびました。『ことばがうかばない、「考える」がわからない、即答できない』ことが目立つ環境は確かにあるように思います。でも陸上ではのろいといわれている亀が、水中では全く姿を見せるように、特性を発揮できる環境が違っているかも知れないという仮説です。(違うというのは、間違いや悪いというイメージではなくて、ポジティブで多様性をイメージしています。)

 言葉を使ったやりとりでは、時間的な余裕があるとか、答え方が「はい」「いいえ」だけのクローズトだったりとか、話題の枠組みが明らかだと私は少しは気が楽になります。即時ではないやりとりだと、言語だけでなくほかにも使える手段が多くありそうです。

 実際に投稿者さんはこうして経験談を執筆して、私はそれを読ませていただき、いたるところで同意したり共感したり、社会や制度に対して憤りを覚えたりしました。それでこうして感想を書くモチベーションを得られています。これこそコミュニケーションではないかと私は思いました。投稿をありがとうございました。