経験談

生きづらさを感じる人が語る 経験談

経験談はそれぞれの投稿者の個人的な価値観や感じ方をそのまま掲載しています。一部、リアリティのある描写や強い価値観が含まれるため、読む人にとっては負担等を感じる場合もあります。各自の判断で閲覧してもらえるようにお願いします。

人間不信となった自分の心の醜さ

もう生きたくない。もう頑張りたくない。もう誰も信じられない。そう考えるようになってから10年以上経った。

小学生高学年の頃イジメられて周囲からバイキン扱いされるようになった。自分が汚いからバイキン扱いしたのか分からないけど。

小学生の頃でありながら本気で死にたいと考えていた。学校でのイジメと家にいるととても息苦しいから。

家では、自分の兄は難聴と重度の知的と発達障害で意思疎通は難しく、毎日奇声を上げるわ、ワガママを言うわ、欲しい物があったら金を請求してくるわ、そんな繰り返し。

自分はそんな兄のことが大嫌いで、「お前なんかいない方が良かった。」と最低な事を考えてしまう。兄に対する不満を母に言っても

「それでも家族だ」「文句があるなら出て行け!」と怒られるだけだった。母は自分を含め3人の子供を平等に愛してくれるからだろうけど、こんな事になるなら本音なんて言わなきゃ良かったと後悔するようになった。

特に忘れられないのは、母に何か言いたいことがあるかと言われた時、母にまた本音を否定されるのではないかと怖くて部屋に逃げようとしたが「逃げるな!」と怒られ、目を合わさないように本音を半分だけ言っても結局怒られるだけだった。だから言いたくないって思ったのに。苦しい。

また、自分のお腹の調子を整えるために知り合いの方からもらった手作りの黒ニンニクが食べられずにいたら、母に無理矢理食べさせられそうになった。自分は前に匂いと味覚のキツさで吐いてしまったから食べるのを拒んだが家族誰も止めてくれなかった。妹は「頑張れ」て見ているだけで、父はTVを見ていて自分の方を見ていなかった。

結局、気持ち悪くなって吐いてしまい母に怒られてしまった。食べたくなかったのに、見てないで助けて欲しかった。

その出来事で余計に死にたいという気持ちと人間不信が増して、自分の心がだんだん醜く感じた。

口約束なんて嫌いだ。母に明日どこか食べに行こうと言われても結局、母は仕事などで疲れて行けなくなることが度々あったことで(行けた日もあるが)自分は心の中でいつも「始めからできない約束なんてするなよ」とドス黒い感情がわいていた。それ以降約束が嫌いになった。

クリスマスなんて嫌いだ。兄が欲しい物を要求してくるから。金かかるし、周りに迷惑かけていることを自覚していないから。

もうこんな否定的な自分なんか消えてしまいたい。仕事はしているけど家の手伝いをしようとしない父とワガママな兄のことは許したくないし大嫌いだけど、家族のことが信用できない自分が一番嫌い。

感想1

「もう生きたくない。もう頑張りたくない。もう誰も信じられない。そう考えるようになってから10年以上経った。」という出だしの文章が印象的でした。「もう」という言葉は過去と比較して「これ以上は…ない」という意味で使われる言葉で、そう思いはじめてから10年が経っているという表現から、限界をずっと感じ続けてきたのだろうと思いました。

学校ではいじめがあり、家庭内でも理解し合える関係が構築できず、またおそらくはその2つの他には所属できるコミュニティが見当たらず、学校と家庭の往復に困ってきたのかなと想像しています。

比較的良好な思い出(たとえば母親さんといっしょにご飯を食べに行けた日のことなど)があったとしても、そうでなかった記憶が鮮明に残り、かき消してしまっているのかもしれないと思いました。また、「家族のことが信用できない自分が一番嫌い」と締めくくられており、本当は家族のことを信用し、家族との信頼関係の中で生活したいと願っているのかもしれないとも思いました。

たまたま家族という形の中にいるとしても、別のことを考えて別の形で生きているそれぞれの人間が分かり合い、うまく生活を分かち合っていくことはそうかんたんなことではないと思います。そこから離れること、離れずに折り合いをつけること、やりかたはいろいろあると思いますが、今の状態だけが選択肢のすべてではないだろうと少なくとも思いました。

感想2

小学生の頃でありながら本気で死にたいと考えていたのですね。投稿者さんにとって、死にたいという感情が身近にあることが投稿内容から理解できました。

ふっと思ったのですが、小学生が死にたいと考えていることがあることに気がついている大人はどれくらいいるのでしょうか。少なくとも私は、このサイト等に出会うまでは、小学生が死にたいと思っていることに気がついていなかった側にいたと思います。死にたい気持ちが身近に存在しなかった私は、こどもが死にたいと思うことを想像できず、死にたいと感じるのは大人になってからという思い込みがあったのかもしれません。

家族のことが信用できない自分が一番嫌いなのですね。どうしてそう感じるのか私なりに考えてみたのですが、もしかしたら、『家族は信用するべき』という考えが常識として存在していて、少なからず投稿者さんにも影響しているからかもしれないと考えました。この数年、縁あって小中学校の卒業式に数回参列したことがあるのですが、卒業生が主役の卒業式というよりも、卒業生が親や学校や地域に感謝していることを伝える会みたいなテイストになっていて違和感がありました。大人がこどもに感謝を強要している、特に家族への感謝を強要している式典だと感じました。家族を信用できなかったり、感謝したくなかったりする卒業生もいるだろうし、本当は家族に対して怒りの感情があるのに怒りの気持ちに気がつかず、感謝している卒業生もいるだろうなと思いました。

 投稿者さんは口約束やクリスマスや父や兄が嫌いだと表現していました。私はその感情は真っ当な感情であると思います。自分を傷つける内容や人を嫌だと感じる感情は健全であると私は考えるからです。自分の心が醜い、自分が嫌いという表現もありましたが、もしかすると周囲が変化することは期待できないので、もう自分を嫌いになる、自分のせいにするしか気持ちの行き場がない状態なのかなと想像しました。

投稿者さんが家族を信用するためにはどんな要素が必要だろう。もしくは、家族以外に信用できる存在が見つかるにはどんなプロセスが必要なのだろう。そんなことを考えながら返信します。経験をシェアしてくれたことに感謝します。ありがとうございました。

お返事1

【感想1への返信】

いじめでは中学まで続き、家庭でも現在進行形で自分が口下手であって身内に理解し合えるかどうか悩んでいました。

「本当は家族のことを信用し、家族との信頼関係の中で生活したいと願っているかもしれない」と書かれておりますが、どちらかといえば家族のことを常に信じるべきか?と疑念に抱いている方です。

たしかに選択肢はすべてではないかもしれませんが少しでも話を聞いてくれる環境があればいいと思いました。ありがとうございました。

【感想2への返信】

そうですね。小学生の頃から学校や家庭で悩み、今でも死にたいという気持ちがありました。また過去のトラウマで「家族は信用するべき、家族なんだから当たり前」という固定概念にとらわれていました。だけど家族であっても信用できなかったり負の感情があるのに無意識に抑えこんでいたかもしれませんね。

「その感情は真っ当な感情〜想像しました」辺りの文章を見て、自分が本当に言って欲しかった言葉をかけてくれてとても嬉しく思います。家族以外に信用できる存在は自分で見つけていこうと思います。本日はありがとうございました。

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