死にたいを、書きたい

23歳、男性


こんにちは。Twitterからこのサイトのことを知りました。
つらチェックを受けてみて、改めて自分を顧みることができたので、体験談を書こうと思いました。

私は自分のことをかなり恵まれた人間だと思っています。このサイトの体験談を一通り読む中で、改めてそう認識しました。
私の両親の仲は良好です。二人とも働き者で、酒もたばこもギャンブルもせず、贅沢はできずとも、私や兄妹を大学院に進ませて、その費用まで負担してくれました。
やや過保護なところがあり、経済的自立が行えていないのかもしれません。しかし、その選択は自分に委ねられているので、単純に自分が甘えているだけということになります。
束縛を受けている感覚もなく、しっかり愛情を持って育ててもらえたと思っています。

それでもふと、死にたいと思うことがあります。
今はその理由が、自分が社会に馴染める自信を持っていないからではないかと考えています。

私は昔から、叱られる、怒られるという体験を極端に苦手とします。
親との喧嘩は数多くあるのでそれが本当かも断言しにくいのですが、親以外の誰かに叱られた体験は幼少期から遡っても覚えていることがあります。
今でも叱られるようなことがあると、それがたとえ小言でも大変なショックを受けてしまい、少なくともその日一日は何も手が付けられなくなります。また、それから数日間は調子が悪くなります。
そのため、自然と怒られないように振舞うようになりました。あるいは、いい子にしていたら褒められたことが嬉しくて、そちらを優先した結果、経験不足から怒られるのが苦手になってしまったのかもしれません。
成績を高く維持していれば親や先生から怒られることはありません。それを大学院生まで維持してしまっているのが、精神的な幼さを象徴しているような気がします。

さらに、私はかなり要領が悪い人でもあります。
典型的なシングルタスク型で、マルチタスク状態になるとすぐに混乱してしまいます。大人数が受けるアンケートやテストなどでは最後の一人まで残り、接客などの仕事や家事も周りの人の三倍以上の時間がかかります。
これと、前述の叱られることを恐れる気質を掛け合わせると、仕事ができない人間ができあがります。もっと打たれ強ければ慣れでカバーできたのかもしれませんが、それとは対極にいるような人間でした。
おかげでバイトの類はどれも長続きせずに辞めてしまい、親の支援を頼るしかなく、自信を失っています。

高専という五年制の学校に入学した頃(一般での高校一年生)からつらさが表出し始めて、心のもやもやに折り合いを付けることができず、学生相談員の先生に相談をしに行ったり、学校のカウンセリングを受けたりしていました。
高専三年生のときが最も深刻で、所属していた運動部の顧問とかなりもめて喧嘩別れのようなものをしてしまい、不登校になる寸前のところまで行きました。

自殺願望が最も強かったのは高専四年生の頃だったと思います。良くも悪くも人間関係が継続していたので、部活を辞めても学校で部員や顧問と否応なく顔を合わせてしまうのが大きな負担になっていたのかもしれません。
当時は今のように冷静ではなかったので、常に死にたいと考えていて、毎日がつらかったです。自傷行為までは至らなかったので客観的には軽い症状だったのかもしれませんが、主観的にはかなりしんどかったことは確かです。

高専は学科に拠りますが男性の割合が多く、自分が所属する高専はほぼ男子校でした。さらに、まだ昭和的な風土が残っていて、厳しい上下関係の指導や体育会系の気質がありました。
自分の性別も男性で、「男なんだから甘えるな」という類の言葉を数多く受けてきました。かなり差別的な発言となってしまいますが、自傷行為に走らなかったのは、それが理由のひとつにある気がします。
環境が合わなかった部分はあるかもしれません。しかし、一度落ちた成績はなんとか持ち返し、皆勤賞を取得して卒業しました。周りは称えてくれましたが、自分は成績や出席に特に価値を感じることができず、内心は苦しいままでした。

また、資格の勉強や運動といった自主性が問われる取り組みへの意欲が薄れていったのも高専生の頃からでした。
成功体験と呼べるものは、高専三年生のある資格試験の合格以降で止まっています。それ以降の挑戦事はことごとく挫折し、自分は何をやってもだめな人になってしまったな、と努力を避けるようになりました。
大学に編入してからも何もやる気が起きなかったので、流石にカウンセリングだけでなくしっかりと診てもらおうかと思い、メンタルクリニックを受診してみました。

結果は、少しだけ抑うつの傾向があるだけで問題はない。軽めのお薬だけ処方しておきます。というものでした。
それ以降、相談する相手が、というよりも自分自身が信用できなくなりました。
「自分は発達障害かもしれないと思って診察を受けたら、ただの健常者で怠け者なだけだった」という言葉がインターネットにはありますが、自分はまさにその類の人間でした。

しかし、その診断結果はなんとなく予期していたものでもありました。
というのも、私は頑張れば周りの人と変わらないように過ごすことができるためです。
人間関係の構築や接客といった苦手分野も、本当に頑張れば(内心では泣きそうになりながらも)なんとかこなしていけます。やりたくないからやらないだけに過ぎないということです。

後々、ある本を読んで私は内向型のHSPらしいということが分かります。
本当に闇の深いことを言うと、私は現実の身の回りにおいてHSPという気質に価値を感じたことはほとんどありません。特に男性に救いはないだろうと思っています。
生まれた時点で備わっていて直ることはないらしいこの気質については、後でまた取り上げます。

高専二年生から大学四年生まで、場所や担当者が変わりつつも定期的なカウンセリングを受けてきましたが、特に心境が変化したことはありませんでした。カウンセラーさんの方も扱いづらい印象を私に対して抱いているようでした。
自分の相談の仕方も悪かったのかもしれません。とにかく話が噛み合わず、共感や理解を得られたという経験は一度もありませんでした。
本当はカウンセリングなど受ける必要もない健常者だったからかもしれません。今でも少し自分を疑っています。
話すときには自分のつらい記憶や気持ちを引っ張り出さなければならないので、カウンセリングの後はむしろ苦しさが増しているようでした。

こうやっていろいろとうまくいかない学生生活を過ごしてきて、大学院に入ってからはほぼニートのような生活を送っています。
本当は研究が好きだったはずでした。たくさん論文や本を読んで勉強しつつ、がんばってアウトプットもこなしているような自分を思い浮かべていました。しかし今は、それとは程遠い姿でこうやって体験談を書いています。

来年は就職します。自分の気質は既に分かっていたため、噂でもなんでも、社員さんが優しいと言われている会社を選び、なんとか内定を受け取りました。
ただ、それでも入社後が怖くてたまりません。マナー講習などで簡単に心が折れてしまいそうです。飲み会が苦手すぎて大人の人付き合いというものについていける気がしませんし、仕事をする以上、叱られたり苦難に立ち向かったりするのは避けられないと思います。
そのときに、自分がどうなってしまうのかが分かりません。本当に怖いです。
辞めたり病んだり死んだりしてしまえば、それだけ会社や親、学校に迷惑がかかります。数年後のキャリアデザインすら立てられず、ただ暗い未来を予感するばかりです。

私は今、自分の自殺願望に焦点を当てて小説を書いています。
体験談を書いている最中にも「自分は死にたいと思っていいような境遇の人間ではない」という考えが何度も浮かびました。それは客観的な事実でもあります。
ですが、過去に強い自殺願望があり、それを今も抱えていることは、どうしようもなく事実としてそこに在るので、何とかして言語化を試みようとしています。

私は小説を書くことが趣味です。高専生の頃から書き始めました。
趣味と呼べるほど高尚な行いはしていないし、半年以上何も執筆しないこともざらにありましたが、それでも今までに何本かの小説を書いてWebサイトに投稿してきました。
ここで初めて、私のHSPの気質が活きました。小説を手に取ってくれる読者さんがいて、「美しい物語だった。この作品に出会えてよかった」と言っていただくことができました。
SNSですら自分を演じがちな私ですが、小説の世界でなら自分を表現することができました。

Web小説なので、お金は一銭も入ってきません。さらに私は執筆速度も異常に遅く、数千字を書くためにその日一日を潰すこともざらにあります。この体験談も、一日をフルに使って書いています。
本来は、そこでバイトや学業に精を出して生産を図るべきなのに、周りの人々はそうしている中で、ただ表現するためだけに家に閉じこもって小説を書いています。世間から許される類の趣味ではないだろうと思っています。

二年ほど前、自殺願望が強く出た日に、似たような題材で短編を書き殴って投稿したことがありました。
朝の準備の遅さや、急にキレる教授への恐怖、友達がいないことなど、世間では甘えと断じられるようなものばかり綴りました。そのため誰にも読まれないか、批判を受けると思っていました。
しかし、届いた感想には程度の差はあれ共感が多くありました。感情が強すぎてショックを受けた、という言葉には申し訳なく思いましたが。
一番心に刺さったのは、「こんな人がいるとは思わなかった。大事なことだと思ったので憶えておく」という感想でした。それこそ、本当に誰かを救うかもしれない言葉でした。

Webサイトの利用者層というものは固まるものです。案外、器用に生きられずに苦しんでいる人は多いのかもしれないとそのときに思いました。
大学院生の私の身の回りには、そしてこれから就職していく先にも、そんな人は誰一人としていなさそうな雰囲気だったので、少し不思議に感じました。

次に書く小説は、死にたいという気持ちを実現まで持っていくにはどうしたらいいか、に焦点を当てていくつもりです。
いくら死にたいと願ってもなかなか死ねないどころか、それは自己愛の裏返しでただ一方的に救われたいだけ、という救いのなさを、せめて物語の中で踏み越えてしまおうというものです。つまり、自殺推奨の小説です。
以前よりもさらに抽象的で、読者さんが何も読み取れないかもしれません。でも、自分に何かあったときの遺書の代わりにもなるので、学生で在れるうちに頑張って書いていこうと思います。

今の私の身の回りの社会(狭い)は、多数派から価値が与えられなければ、何かの役に立つことが証明されなければ、存在自体が許されないのだろうなと思っています。
研究をしていても、成果の出にくい基礎研究は予算が削られたり、学校から詰問を受けている様子が伺えます。「実際にやっていることよりも、やっているように見せかけることが大事」なんて声も聞くようになりました。
それは人々の心を強かにするというよりも、心が折れてしまう人を増やし、そして着実に人を殺しているような気がするのですが、今の社会はそのための人殺しなら許容してしまいそうな印象です。
役に立たない人間は役に立つ人間の負担になるので死んでもらった方がまし、なのかもしれません。このとき私は、間違いなく役に立たない側に割り振られるだろうと思っています。

死にトリの体験談を読み進めていく中で、思わず天井を仰いでしまうような記述を何度も見かけました。
私は希死観念の方をあまり持たないのですが、それは両親からしっかりと愛を貰えたおかげなのだということに気付かされました。また、人生を狂わせてしまうような人に出会っていないという幸運もありました。

その上で、この言い方は本当に意地が悪いというか。ひねくれていて、自己中心的なものなのですが。
私は本当に幸せで、幸せに生きないといけないはずで、だからこそ死にたい。
そんな自殺願望は、果たして許してもらえるのでしょうか。
今まで許してもらえたことはなくて、同じ息苦しさを感じている人が社会に潜んでいるかもしれない。この本当の甘えの塊のような存在は、存在してもいいのでしょうか。

かなりの長文となってしまいました。ごめんなさい。作家なら規定文字数を守れという話なのですが、2000字もオーバーしてしまいました。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。スタッフさんもご自愛ください。

感想1
文章を読んで、ご自身のことをよく考え、よく勉強してきたのだろうと思いました。そうして培われた言語化の力は、とてもすてきなものだと思います。

恵まれていて、しあわせ(であるべき)。それなのに死にたい。とても共感しました。
「自分の認識している自分自身の生活をさまざまな水準で比較したときに、これはしあわせと呼ばなければいけない状態である気がする。それなのになぜこんなに苦しいのか。死にたいなんて私はおかしいのではないか」私自身、そんなふうに考えた経験がたくさんあります。
でも、考えてみれば、しあわせかどうか決めるのは自分で、しかも「しあわせな瞬間がある」ことと総体として「しあわせである」ことはべつのことです。だから、声を大にして死にたいと言っていいのではないかと思いました。

へんな言い方かもしれませんが、役に立つかどうかって、どうでもいいことだと思います。「わかりやすく役に立つもの」にたいして、私はうたがいを持っています。
役に立つかどうか決めているのはなんでしょうか? それは社会です。それによって隠されてしまっているものはなんでしょうか? ……社会とは人が作ったものですから、不完全で不十分です。そこで行われる判断は、不完全で不十分な判断だと思います。そこに選ばれた「役に立つもの」だけが素晴らしいなんて、どうして言えるでしょうか。

私も小説や、詩や文章を書くことが好きです。それはたしかに「役に立たない」と言われるものかもしれません。でもそうだとしても、私はそれらを愛していようと思います。それが窮屈なこの社会のなかで、本当は余白・余地になることもあると思いますし、なにより、書いているあいだ、読んでいるあいだ、愛しい気持ちをもち、しあわせを感じることができるからです。

こうして経験談を寄せてくださったこと自体、だれかにとって意味のあることだと思います。でもそうでなくても、たとえだれからも意味が与えられなかったとしても、あなたがここにいていい、すてきな存在だということは絶対に揺るがない、確かなことだと思います。

経験談をお寄せいただきありがとうございます。
あなたの小説を、いつか読んでみたいと思いました。

感想2
サイトを見つけて、経験談を投稿していただき、ありがとうございます。
叱られることを恐れる気持ちは、おかしいものではないと思います。ただ、他のことが手に付かなくなってしまうのは苦しそうです。

アルバイトが続かず、経済的に親に頼るしかないことで、自信を失くしているとのことですが、今の社会にありがちなアルバイトは、対人関係や社会性を殊更に求められるものが多いと思います。それは今の社会の偏った一側面でしかないと思っています。それに、もし学生が学業をしながら生活するのに必要なお金や資源が公的に保障されていれば、アルバイトや親に頼らずとも自立した生活ができるのではないでしょうか。学生の自立した生活を保障しない今の社会の制度はおかしいと私は思っています。

また、おそらく環境の理不尽に敏感に気づくことのできるあなたにとっては、高専の昭和的な風土はかなりしんどいものだったのではないかと想像します。

発達障害は傾向のグラデーションなので、傾向はあるけど頑張れば普通の人と同じように社会生活を送ることができる、いわゆるグレーゾーンの人がたくさんいます。グレーゾーンの場合でも、周囲に自分の傾向を理解してくれる人がいるかどうかによって、生活のしやすさが変わってくるように思います。
本来はグラデーションだからはっきりと線引きすることができず、得意や苦手とすることも人それぞれであるのに、この社会では発達障害であるかどうかを診断で二分してしまって、診断されなければ「発達障害ではないのだから、これくらいできて当然」みたいに決めつけられるような気がして、とても息苦しいと感じます。

内向型のHSPという気質は、自分と冷静に向き合ったり、人や社会の動きを深く洞察したりするイメージがあるのですが、私はとてもすてきなものだと思っています。同時にストレスを感じやすいところもあり、自分でストレスに対処するのが大変で、気質そのものが嫌になってしまうのかな、と考えました。

小説が趣味で、自分を表現できる方法でもあるのですね。趣味をするためにいちいち世間の許可を取らなければいけないとしたら、恐ろしく不自由で貧しい世界になりそうです。途切れ途切れでも、方法が変わったとしても、自分を表現することは、人と繋がるきっかけになるばかりでなく、この世界の自由や豊かさを守ることにも貢献できると考えます。

「~~自分は幸せに生きないといけないはずで、だからこそ死にたい」と書かれていました。しかし、自分の幸せを決めるのは自分しかいないし、他人から「幸せであること」を強制されるのは実におかしいことだと、私は思っています。それは、本人にとっての幸せが何であるか、自分がどのように感じるか、どんな人生観を持って生きるかということを否定され、外部から押し付けられることと同じだと思うからです。

「多数派から価値が与えられなければ、何かの役に立つことが証明されなければ、存在自体が許されないのだろうな」と今見ている社会を分析されていました。とても鋭く今の世の中を言い表されていると思います。役に立つかどうかで存在価値を判断してしまうなんて、権力を持つ者の勝手な言い分ではないでしょうか。それが罷り通るような世の中にはしたくないと思いました。
今後も同じ世界で生きるものとして、ともに存在し、自分を表現し、それぞれの場所・方法で、自由を守る営みを続けていけたらと思いました。

返信

感想1さんへ
自分自身について考えることは確かに多かったかもしれません。
また、この体験談の投稿後に受けた適職診断や専門機関のテストの結果を通して、
言語を扱うことが比較的得意であることが分かり、このような体験談を通じても、その素養に日々助けられているなと感じます。

声を大にして死にたいということは、かなり勇気のいることなのかもしれないと思いました。しあわせかどうかを自分自身で決めることくらい、難しそうです。
そして、別に「しあわせ=死にたくない」でもないのかもしれないな、などとも考えました。少し屁理屈のようですが、そもそも別の言葉ですし、これらを結び付けたがる何かが自分、または自分を反映する社会にあるのかもしれません。

こういう言い方も何ですが、「役に立つ」はなんだか得体のしれない怪物のような印象を受けますね。
役に立つかどうかなんてどうでもいい、という言葉には強く頷き返したいです。もしかしたら未来の自分は否定するかもしれませんが、少なくとも今の自分はそう思います。
そして、社会が判断した「役に立つもの」によって隠されたり零れ落ちたりしているものを、自分なりに考え続けることが大切なのかなと思いました。個人にできる取り組み、というものですが。

自分も学生から社会人となり、ますます余白や余地を許さない自意識が強まって、順調に染まっていっているなと感じます。
そんな中でも罪悪感を感じながら小説や詩を読んだりしているのですが、このときに感じる愛しさや幸せな気持ちは不思議ですね。
言うならば、こういうものに価値を感じない人にならないといけないはずなのにな、という感覚です。この意見に対して反発している自分もいて、そういった無駄から創作が出力されているのかもしれません。

実際、どなたかの体験談が自分の感性に響いて、創作意識に少なくない影響を与えた、という体験をしている以上、誰かにとって意味のあるものかもしれないという言葉をもう否定できないですね。
最後の方に書かれている、「たとえ誰からも意味が与えられなかったとしても」という言葉については、自分の課題として考え続けたいと思いました。

昔、ある小説サイトさんのリンク(死にトリストーリー、でしたでしょうか)がサイトに貼られていた時代があったかな、と記憶しています。
何かの縁があれば、そして趣旨が間違っていなければ、あのページに小説を寄稿してみたいな、と考えていました。ちょっと遅かったですね……。
こちらこそ、体験談を深く読み込んでくださり、本当にありがとうございました。


感想2さんへ
叱られるということに対して不快感や恐れの気持ちを抱く人は多いとは思うのですが、それをずっと引きずってしまったり、軽いパニックのような状態にまでなってしまう人は珍しいのかもしれないな、という印象です。
それそのものも十分に辛いイベントではあるのですが、どちらかというと、このような感性に対して周りの人の理解が得られないことに苦しさを感じることが多いです。抱え込む要因になってしまっていますね。

今のアルバイトや仕事は対人関係や社会性を殊更に求められ、それらは今の社会の偏りである、という意見について、たしかに、と思いました。本当に大河の中にいるようで、抗えなさを感じます。
大部分の奨学金制度は返済義務がありますし、学生から経済的に自立していることを良しとする社会でずっと育ってきた身としては、学生生活の公的保障という発想がそもそもなく、その提案に少し驚きました。もしそれが現実にあれば、少しだけ生きやすかった……のかもしれませんね。

正直、自分のいた高専はかなりしんどかったですね……少しずつ変わっていっているところもあるのでしょうが、やはり高専という組織の設立経緯や構成上、昭和的な文化は根強く残るものと思われます。

自分はこの体験談の後に正式にテストを受け、グレーゾーンに該当することが判明しました。
周囲に自分の傾向を理解してくれる人がいるかどうか、はたしかに重要なのではないかと感じます。そして自分は、配慮に気付いていないだけなのかもしれませんが、あまり理解のない環境にずっといるのかもしれません。
グレーゾーンのことを分かろうとしない(分かりたくない)、発達障害か否かですぱっと分けてほしいという人の気持ちも分からなくはないです。社会生活の高難易度化は全体的に進んでいると思われるので、曖昧で難しいことをこれ以上考えたくないのだろうなと感じています。

内向型のHSPについては概ねその認識で合っているかと思います。グレーゾーンの傾向もこれに沿うものでした。
ストレスの蓄積は自分にとって大きな課題のひとつです。今の仕事では「鈍感力」を身に着けるべきと熱心に言われているのですが、自分の気質はその対極にいるようなもので、より自己嫌悪を進めてしまっているのかもしれません。

小説は自分にとって扱いやすい自己表現方法ですね。話すという方法もあるのですが、勢いがつき始めると自分が何を言っているのか分からなくなることが多々あります。そういう意味でも、文章を練るということができる小説は便利です。
趣味をするためにいちいち世間の許可を取らなければいけない、という状況は、その形は違えど今の社会でも起こっているのでは、と思いました。特に就職活動に顕著だった気がします。
恐らく、創作という形で自己表現を行うことで普及する自由や豊かさというものは、自分が今所属している社会では不要ということなのだろうな、と考えています。
小説なんて書いている暇があったら、という思考は常に自分の中にあって、その矛盾を抱えるのにもけっこうな労力を割いている、という自己診断です。客観的に見ても生きることに無駄が多いですね。

かなりひねくれた考え方かもしれませんが、SNSにかなり依存している自分としては、『「他人から幸せであることを強要されている」と信じ込んでいる自分』と向き合うところから始めないといけないかもしれません。
SNSでは不特定多数へ向けたメッセージも数多く流れてきて、それらを「自分に言われている」と感じてしまう、ある種の被害妄想ですが、自分のような人が若いうちから何年も続けていると、心に深く根を張ってしまうようです。

生活スタイルが変わった今でも、残念ながらその社会分析結果は変わっていません。むしろそれがより強まったような印象を受けています。
「ともに存在し、自分を表現し、それぞれの場所・方法で、自由を守る営みを続けていけたら」という言葉に少しの胸の痛みと苦笑いが浮かびました。蔑みではなく、切実に難しいものだな、と感じたためです。
特に存在することと続けることは厳しいですね……。いっそ死んでしまった方が楽、という気持ちに上手く付き合っていく必要がありそうです。


こうして体験談を送ることが、ほんの少しでも貢献に繋がればとても嬉しく思います。また、それはこのような対話に近い感想をいただいているからこそ、と思います。重ね重ね、丁寧な感想をありがとうございました。
今後の死にトリスタッフの方々の活動を、陰ながら応援しております。