どうしてこうなってしまったのか

千葉県・10代


ずっと死にたい気持ちが消えないままここまで来た。最初に死にたいと思ったのは小4の時で、運動が苦手だったのにバスケ部に入れられ、ついて行けなかったという些細なことがきっかけだったと思う。そこからずっと、些細な劣等感にずっと苛まれて、気づいたら高校を卒業しようとしている。

元々人の目を気にするたちだった。周りとちょっとでも違うと恐ろしく不安になった。何かがきっかけというわけでもないが、小さい頃から今の今まで人の目を気にして生きている。苦しい。慣れる為に人の前に出ることを積極的にしてきたが、大抵ぐしゃぐしゃになって泣いていた気がする。ずっと慣れない。

話は変わるが、私は世間一般的に見たら恵まれた家庭に生まれたと思っている。母方、父方両方の初孫で、両親の初めての娘で、何不自由なく、愛されて生きてきたようにも思う。それなのに、どうしてこんなに死にたいと毎日呟く人間になってしまったのか。どうしてなのか、ずっとそれを自問して苦しんでいる。

100%の愛情を注いで育ててくれた親に申し訳ない。ずっと申し訳ない。恩を仇で返している。死にたいと相談した時も泣いてくれた母がいる。愛してくれている。それなのに私は私を剃刀で傷つけている。自分でもわからない。何が引き金で死にたいのかも、どうすれば恩を返せるのかも、何もわからない。ただ死にたい。無責任で卑怯で最悪だと自覚しているが、全部かなぐり捨ててそのままパッと死んでしまいたい。でも私がそれをしたら悲しむ人がいる。それがギリギリで私を引き留めていて、呪いのようでもある。

友人にも家庭にも、環境にも恵まれている。そんな自分がこんなに弱くて申し訳ない。生きていて申し訳ないというよりは、生まれてきたことに申し訳が立たない。私がいない方がきっと妹も幸せだったし、母親が悩むこともなかった。

妹が幼い時に、私は妹にひどいことをした。小さくて好奇心旺盛の妹を邪険に扱っていた。その一件で私は父に叱られただけだったが、妹はそれから今でも私に怯えている。

私がいなければ良かった。妹の性格を捻じ曲げたのは私だ。しかもそのことを私は父に指摘されるまで覚えていなかった。いじめっ子はこうして都合よく記憶を改竄するのだと知った。私は身内に消えない傷をつけた最悪の人間だ。

自分のしたことと自分の身勝手さに死ぬほど嫌悪感を抱く。その癖都合よく死にたいだなんだとほざいていて、どうしてこんな人間になってしまったのかとまたずっと自問している。早く楽になりたいけれど楽になってはいけない気もする。苦しい。

感想1

死にたい気持ちや考えを共有してくださり、ありがとうございます。
これまでに、いろいろな相手から見た自分を知る機会は少なかったのかな?他の人の生き様を知る機会もあまりなかったのかな?と想像しました。だから、自分のことを自分で知ろうとするしかなかったのかなぁと思いました。自分についての理解は、他の人からの理解や、他の人への理解と一緒に進んでいくものだと思うので、いろいろな人と不安なく関われる経験が少ない場合は、自分への理解も行き詰まりを感じてしまうのかもしれないと思いました。

また、自分に100%を求めているような感じがしたので、もう少し手を抜いて気楽に生きるのもいいのではないかと思いました。完璧を目指していたら、細かいことが気になって、本当に自分が大事にしたかったことが分からなくなりそうな気がしたからです。

それから、死にたい気持ちや弱みを、他の人に見せないように、常に気を配っているような感じがしました。自分の感情を良くないものと見なして、抑え込むようにしていたら、苦しいだろうと思います。私としては、死にたい、苦しい気持ちになることが、劣っているとか悪いことだとは思いません。むしろ、今の社会で生きていれば、死にたくなるのも自然な気持ちの一つなのではないかと思います。

母親さんに死にたい気持ちを相談したエピソードから、他の人の感情を感じ取って、影響されやすい方なのかなぁと思いました。なので、距離の近い人よりも、離れている人(例えば匿名の相談機関やオンラインの自助グループなど?)の方がマッチしているのかもしれないと思いました。

また、これから生活の環境や人間関係が変化したり、新しい趣味などに手を出してみたりすることで、同じことを自問し続けている現状から、思考や感情の枠を広げていけることもあるのではないかと思いました。

感想2

経験談読ませていただきました。
「友人にも家庭にも、環境にも恵まれている」と表現する投稿者さんが、ずっと死にたい気持ちが消えないままでいることに私は興味が湧きました。
何故興味が湧いたのか、それは、「恵まれている」と「死にたい」にギャップを感じるからなのか、恵まれていると「死にたい」と思ってはいけないのかという疑問が湧いたからなのか、投稿者さんが何故死にたい気持ちを抱え続けているのか探求してみたくなったからなのか、そもそも恵まれているって何だろうとか、複数の要素が入り混じっているように思います。

例えば、「虐待を受けて育ったことで死にたい気持ちを抱えている」という状況は、第3者が聴いても理解しやすいのではないかと思います(その人のことが理解できるというのではなく、状況的につじつまがあっているようなイメージがあるという意味でです。)。一方で「恵まれた環境で育ったことで死にたい気持ちを抱えている」という状況は、第3者にはイメージしずらく「恵まれてるのに!」と無理解が生じやすいのではないかと私は思います。そして、私は恵まれた環境で死にたくなる状況って声に出しずらいだけで結構多いのではないかと考えてしまいます。

誰かが良いとか悪いとかではなく、投稿者さんの環境を見た時に、子どもの頃から投稿者さんを見る目が多かったこと、100%の愛情と表現されるくらいに目をかけられていたこと、学校という良し悪しで評価されやすく同調圧力の生まれやすい環境など、いつも自分が見られていて、それらの目に応えなければいけない意識も持ちやすかったのではないかと想像し、大きなきっかけはなくても日常の中でのプレッシャーが積もり積もって逃げ出したくなることもあるのではないかなと私は思いました。

恵まれていると思っていても、恵まれていないと思っていても、死にたい気持ちになることは事実で、きっと何かしらの負荷がかかっている状態なのではないかと私は思いました。

それと、人は知らず知らず他者を傷つけたり迷惑をかけあったり、逆に他者の支えになっていたりするのではないかと私は思います。私自身も極力他者を傷つけたくはないなと考えていますが、自分を守るためであったり無意識な発言で人を傷つけてしまっていることがあるのだと思います。私は、1人ひとり違う人間が同じ社会で生きているので摩擦が起こることは避けられないと思っていますが、気がついた時からどうするかを考えることができたり、知ることだけでも成長につながるのではないかとも考えています。
私の場合、自分を完璧にしようと意識して考えると苦しくなるので、その時その時の無意識の自分が以前より成長した自分であって欲しいと思うくらいにしています。

投稿者さんの経験談からも「恵まれている」と表現していても死にたい気持ちを抱え続けている人がいることや今の社会で何が起きているのかを改めて知り考える機会をいただきました。経験談の投稿ありがとうございます。