『自分らしく』は生きづらい


22歳・FtoX(ノンバイナリー)


『シャンプーハットをつけてほしい』

そう言ったら父親は眉間に皺を寄せて虎の鳴き声のように低くて唸る声で「はぁ?」と怒った。

『一緒に遊んでほしい』

そう言ったら父親は無視をした。
私よりもテレビの方が大事なのだと思った。

どちらも3歳の頃の私が経験した事だ。

小学生の間も父親とは色々な辛い事があった。
楽しかった思い出を思い出そうとしても私の記憶というノートには記されていない。

母親と妹と弟との関係は良好だから、父親の事はどんなに辛くても多少は乗り越えてきたと今は思っているつもりだ。

中学の頃、学問の成績が良くて歌や絵も得意な転校生として注目された時期があった。

当然、私の事を面白くないと思ったり妬んだりする人物が居た。

私は運動がとてつもなく苦手だから体育の時は『戦力外』と突き放されたり、『動きが変』と嘲笑われた。
それらを書き出したらキリがない。
体育に関してはとにかく良い思い出がない。

普通に生きる方法が分からなくなって周りに合わせるようにした。

親戚や近所の評判の為に無理やり通わされた高校でもそう過ごした。

大学には進学せず就職した。

パワハラや人格否定と戦う日々だった。

職場を転々とした。

自分が不器用なのは知っていたが、ことある事に『手が遅い』『邪魔』『字が汚い』などと言われ、モチベーションを保てる訳が無い

自分らしさが分からなくなっていった。

人と関わるのが辛く苦しい。
何度も死のうとした。

そんなフリーター生活を3年ほど続けた。

今は仕事をせず、家に引きこもっている。

精神障がい者保健福祉手帳2級を取得できるほどの鬱状態になってしまい、食事やお風呂などの日常生活すらまともに送れていない。
20代前半ながら紙オムツを履いている有様である。

今日もあのドス黒くて重い負の感情がのしかかってくる。
自分なんて存在しない

自分なんて存在する価値が無い
生きてる意味なんて無い

…そんな事を口に出すと、周囲の人間たちは『そんな事ないよ』と言う。
相談すれば否が応でも飛び出してくる、もはや決まり文句である。

自分らしく、生きようとすればするほど『自己中だ』『周りの事も考えろ』と言われ
自分らしさを閉じ込めて、生きようとすればするほど『もっと自分らしく居ていいよ』『自分のしたい事をすればいい』と言われ

自分らしく生きようとすればするほど怒られて
自分を閉じ込めれば閉じ込めるほど優しい言葉をかけられて

自分らしく生きようと再出発して、すぐに怒られる。
何度も何度も怒られて、自分が壊れそうになる。

だから自分を閉じ込める。
怒っていた人はすごく優しくなる。
その方が気持ち的には楽に見える。
自分を閉じ込めれば閉じ込める程に本当の気持ちを溜め込んで、たまたま本当の気持ちをもらしてしまうと、優しい人は怒る人に戻ってしまう。

学校の先生、同級生、職場の上司、両親、兄弟、親戚、医者、カウンセラー、コンビニとかの店員、市役所の人………
生まれてから現在まで、出会った人間の9割がそうだった。
1割は『そんなに気負いしないで』という共感しようとする者か、『私だって辛い』と悲劇のヒロインを始める者。

そもそも自分なんて、3歳くらいの頃から存在しないのだろうか。
実の父親と遊びたかった一心で父親にちょっかいを出したら、首根っこを掴まれて2〜3メートルほど引きずられた、あの日から自分なんて存在しないのだろうか。

自分らしく生きたら死にかけた
自分を閉じ込めて生きたら死にかけなかった

自分らしく生きてはならない
でも
自分を閉じ込め続けるのは限りがある

自分を出す事も閉じ込める事も非常に疲れる
そう、生きる事は疲れる
それでも生きろと言われる、死ぬ事を物理的にも止められる

『死んでほしくない』と言われ、『生きて』と言われ、普通なら存在の肯定という良い事象であるが、私にとってのそれは生きづらさに拍車をかける。
かといって『死ね』『生きろ』と断言されても生きづらさが緩和される事は無い。

生きる事の価値が分からない
自分の本当の気持ちが分からない
自分がなんなのか分からない
なんで生きてるのか分からない
なんでまだ死んでないのか分からない

分からない分からない分からない
分からない分からない分からない
分からない分からない分からない
ずっと分からない
頭がグチャグチャ
イライラする
生きてるのは迷惑ですか?
死ぬのも迷惑ですか?
自分って何なんですか?
自分らしくないって何なんですか?
私は喜んじゃいけないんですか?
私は怒っちゃいけないんですか?
私は悲しんじゃいけないんですか?
私は楽しんじゃいけないんですか?

褒められた後は虐められる
虐められた後は…褒められて、虐められて、褒められて、虐められる
ずっとその繰り返し

自分を大事にすればするほど目上の人から怒られたり、『ゲームをしてはならない』『外出してはならない』など、行動を制限される

自分を粗末にすればするほど目上の人から大事にされるが、怒りや悲しみといった負の感情を溜め込んで、それが爆発すると好きな物や趣味といった嬉しい、楽しい事が突然嫌いになってしまい、やがて自分を含めたすべてが嫌いになっていく。

トラウマが記憶に存在する限り、私は『自分』と向き合う毎に生きづらさを感じる。

拙文および乱文にお目通しいただき、ありがとうございました。

感想1
自分が生きられる場所、存在できる場所を探し求めてこられたように伝わってきました。
普段からあなたは色々なことを感じたり考えたりしていて、自分なりの思いや考えがある方で、だからこそ押し込めるのは辛いのではないかと思いました。
どのような生き方を選んでも、生きること(存在)には他者が介在してくると思いますが、他者が自分の存在を妨げることになってしまうとしたら皮肉で悲しいなと思いました。
私は、自分の存在を証明できる人はいないし、そんな方法はないのだろうと考えています。そして、何かの価値も、誰かが証明できるものではないと思います。
現在は、心身に痛みを与えるようなことをされない環境で安全に暮らせているのか、気にかかりました。「目上の人」という言葉が出てきて、もしかすると格差が大きく、上の者が下の者を虐げることを良しとしてしまう組織文化の中にいるのではないかと思いました。私はなるべく格差のない人間関係を世の中で広げたいと思います。
また、感情の感じ方がよく分からなくなっているのかなと思いました。感情をそのまま感じてみる経験はどんなふうにできるのだろうと、私も気になります。でも、この経験談にはあなたの様々な感情が表現されていたと思うので、経験談を書いたことを通して、何か気づきがあればいいなと思いました。

感想2
自分らしさについての経験と考察を書いていただき、ありがとうございます。「自分らしさ」という言葉には、いつも不思議な感じがします。
自分はどうあっても自分でしかない気がするのに、らしいか、らしくないかを誰が決めるのかなと思います。せめて自分の納得の範囲でのみ決められることならまだいいけれど、周りから言われると困ってしまいそうだと感じました。
投稿者さんは「自分らしく」生きてこようとしたことがあるのだろうと思います。それは、自分の感覚や感情を偽らないことであったり、忘れないことであったりするのかもしれません。

「自己中」と言われたことが書いてあり、ふと思ったのですが自己中は悪いことなのでしょうか。
自己中とは自己中心的である、ということだと思いますが、人はだれも自己を中心として生きるしかないのではないかと思います。自分がいるからこそ、人と関わることができたり、人となにかを分かち合うことができたりすると思うからです。

投稿者さんに関する具体的なエピソードはあまり書かれていなかったので、実際にどのような経緯で生きてこられたのかはわかりません。
ただ、投稿者さんは、これまでに受け取ったさまざまなメッセージを自分の中でどうにか解釈しようと苦労されてきたのかなと想像しています。
その中で経験談を書いてくださったのには、どういうきっかけがあったのだろうか、と気になりました。

死にトリのサイト上にはたくさんの方から寄せていただいた経験談が掲載されています。それらひとつひとつはどれも、経験も、書かれた方が受け取ってきたことも、書きぶりも違います。それは多くの場合、とくに「らしさ」を意図して書かれたわけではない気がしますが、でもそこにはふと溢れ出てくるような「その人らしさ」があるかもしれないと思いました。