着ぐるみ

埼玉県・25歳・女性

着ぐるみを被ったことはあるだろうか。もこもこしたスーツ、暗がりの中のふたつの覗き窓。想像してみてほしい。物心ついた時から、「わたし」と名付けられた着ぐるみを被って生きてきた、少しおかしな人のことを。

いつから着ぐるみを被っていたのかは覚えていない。私の記憶にある両親の最初の姿は、流し台でタバコをふかす姿。それと、父が母の髪を掴んで引きずり回す姿だった。つんざくような叫び声を上げる母を前にして、私は泣いた。声を限りに「おねがいだからやめて」と泣いていた。いや、泣いていたというのは適切ではない。私は心の中で、そうしなければならない、子供としてそうふるまわなければならないという一種の義務感を覚えていた。蛇口の元栓をひねるように泣き声を調節しながら、私はその後ろから「泣いている私」を観察していた。
その後数年して母は離婚した。私が着ぐるみを被った、最初の記憶だった。

母も、すこし、おかしかった。年の割に子供のようにふるまうことがあり、しばしば逆上してひどく暴れた。幼子のように絵を描いてはしゃぐ時もあれば、私の部屋の中のものを床に叩き落としては踏みにじる時もあった。お気に入りのおもちゃを、おぼろげながら芽生え始めた自分の尊厳とともに母の手によって壊された私は悲しかった。荒れ狂う母の怒号を遠くで聞きながら、私は心の深部へ逃れた。深い悲しみを、幼い自分一人で抱えることなどできなかった。暗がりから周囲の様子を眺めながら、相変わらず、私は傷つけられた悲しみを子役のように演じ続けた。

着ぐるみの皮が、厚くなっていった。

学校では当然のようにいじめられた。ハムスターのかごへ入れられたドブネズミを見るように、周囲は私を異端の目で見た。当然のことである。子供の感受性は大人よりずっと鋭い。大人がいじめを「事象」としてしか捉えられないのは、そこに至る「過程」が大人の目には映らないからである。同級生の目から見て、私は明らかに異物だった。

同時に学校内で、先生から厳重に指摘されることが増えていった。「忘れ物が多い」「落ち着きがない」「授業に集中できない」。私は先生の間からも異物として扱われていたのかもしれない。ごく最近、私にADHDの傾向があると医者から指摘された、ということを母から明かされた。いつ、どこで、具体的にどういう点が特異的だと指摘されたのか。問いただしても、母は口を閉ざしたきりだった。なので私は今も、自分のADHD傾向のことを詳しくは知らない。唯一理解したのは、私という着ぐるみを被っている人の一人は、どうやら精神障害を持っているらしい、という嫌悪感だった。

普通にしなさい、とよく叱られた。家族や先生の言う普通がどんなものだか、正確に教わったことはない。ただ文脈や様子から察するに、「他の人と同じように行動し、一人だけ違ったことをせず、ひとさまを困らせないこと」が普通なのだと理解した。普通。それがこの世の中で最も遵守されるべきルールなのだと、あらゆる大人たちの怒声と共に、心に深く刻み込まれた。

着ぐるみは、さらに大きく、肥大化していった。

色褪せた現実と裏腹に、妄想の世界は多彩な彩りで私達を迎え入れた。龍や妖精、小悪魔や幽霊。めくるめく不思議な仲間たちと、私は日夜心躍らせる冒険へ出かけた。色彩や感触、彼らがすぐそこにいるという存在感さえもがリアルに感じられた。一人きりの時、私のすぐそばには友人たちがいた。彼らは優しかった。私は嬉しかった。彼らと、もっとそばで触れ合いたかった。中学校の七夕で短冊を飾ったとき、私は力を込め「龍に会えますように」と書いた。心からの、わくわくに満ち溢れた願いだった。数日後、その短冊を指し「キモい」と笑う同級生を見かけた。あれから十数年経った今もまだ、あの日の願いは叶っていない。

やがて私は理系の大学へ進み、やっと知り合えた本当の友人とともに就職活動を始めた。私の心にあるのはただ一つ、「普通の人と同じように、普通に就職する」ことであった。普通に履歴書を書き、普通にセミナーへ参加し、普通に説明会へ足を運んだ。それでも普通に一日数社の面接を受けたり、普通にあらゆる面接対策をこなすことはできなかった。「もっとたくさん受けなきゃだめだよ。みんな30社は受けてるよ」という就職コーディネイターの言葉通り、一般社会の普通と、私が感じる普通との間に広がる深い相違がそこにはあった。就活生が皆身に着ける「新卒の私」という鎧をだぶだぶの着ぐるみの上から新たに身に着けつつも、私は心のどこかで泣き叫んでいた。何かがおかしい。これは私ではない。

ほころびだらけの着ぐるみが、音を立てて引き裂かれた。

就職には失敗した。入社したものの、精神の不調からうつ病を発症し、自殺未遂を起こして入院したのだ。「普通」の人間が、間違っても送ってはいけない悲惨な人生の末路だった。家族は泣いて私を責めた。精神の脆弱さを、幼稚で未熟な心を、普通にできない人間性を責めた。そして全てはなかったことにされた。精神病の話題は、家族の中で禁句となった。今の私に課せられた使命は、相変わらず「他の人と同じように普通に生きる」ことだった。心を強く持って、些細なことで悩まず、いつもニコニコしていれば普通に生きられる。精神の暗部に目を向けることのない家族のもとで、私は再び厚い着ぐるみを被った。

今、「私」という着ぐるみの中には、いくつもの人格がいる。彼らは覗き窓から世界を観察しつつ、役割が定められた歯車のようにうまく噛み合って一人の「私」を構成している。これが一般に認められることのない個人の形だとは承知している。しかし、こうしないと生きていけなかったのだ。自分を偽り、使い分け、あらゆる「私」を引き出しに常備させないと生きていけなかったのだ。私の歯車は、どれもすっかりさびつき、ゆがみ、今にも壊れそうである。頭が働かないのだ。自分が自分でないような、どれにも現実感が持てないような。同時に、着ぐるみから外を覗いていたあらゆる人格が、一斉に声を上げ始めた。必死につくろってきた着ぐるみが、再びほつれかけている。頭の中で、私のものではない声が、する。

「虐待されて育ちました。解離性障害です。死にたいです」などという一文では、あまりに薄っぺらく、何も伝わらない。私は苦しい。この苦しさを誰にも分ってもらえないことが苦しい。私の苦しみが、他の大勢の死にたい人に混じって消えてしまうであろうことが苦しい。だから私は文章にした。私の内面を、できうる限り正確に描写する手段は、この形しかなかったからだ。私が明日死んだとしても、それは何も妙なことではない。ずっと昔から私は死にたかったし、今までそうしないで生きてきただけのことなのだから。

あまりに小説めいた文章かもしれない。しかし正直にありのままを書くには、生々しすぎた。事実を正確に陳述することは、私の心が耐えられないのだ。私の人生はあまりに断片化されており、一本のオムニバス映画を見るような視点でしか、私は人生を顧みることができない。

私は私を守るためにこの文章を書いた。この文章が、私が今現在も苦しんでいることの証明の一つになってほしいと、心から願う。

感想1
原稿をありがとうございます。
自分の意思と関係なく分厚い着ぐるみを着て生きていくのことを想像するととんでもなく苦しいだろうと思うと同時におそらくあなたにとってはそれが当たり前になってしまい、少し引いたところからこの文章を書いたのだろうと思います。あなたの表現、文章は他の人ではま真似できないような力を感じ、着ぐるみの中のあなた自身の気持ちや意思の強さを確信しています。私はそのあなた自身の気持ちや意思をもっと聞きたいと思いましたし、できることなら着ぐるみを脱いだあなたに会いたいと思いました。もちろん、着ているあなたも大切な存在ですし、誰もあなたを否定する権利などありません。
あなたの言う「普通」の存在を私も今の社会の中で感じます。ただ、私は「普通」は私たちがつくりだしてしまった大きな虚像だと思っています。本当はそんなものはないのに、多くの人たちがあると思ってそれに振り回され、自由や一人ひとりの存在を阻害してしまっていると思うのです。だから、私はあなたのようにそのことに気づいた人たちと一緒に「普通」が虚像だということを証明したいと思っています。ぜひ、リアル居場所がお近くである時には来てください。また、この文章の続きを書いてもらえるのなら、読みたいと思っています。

感想2
最後に小説めいた文書とありましたが、そうでなければ出すことが難しかったのだろうと読んで想像しております。私も人と関わるときなどに着ぐるみを通しているのではないかと感じたことが昔ありました。あなたよりももっと簡素な着ぐるみでしたが、着ぐるみをきていることはとても息苦しかった印象を思い出しました。あなたが苦しんでいる証明を受け取りました。あなたと一緒に少しでも生きやすい社会を感じるための活動をしたいなと思いました。

感想3
経験談を送ってくださりありがとうございます。文章から、現実の残酷さ苦しさ悲しさなどがとても伝わってくるなと感じました。“普通”でいることを強いられるこの社会にいつも私は違和感を抱いています。あなたの受けてきたこと感じてきたことの傷つきはあなたにしか分からないことだとは思いますが、あなたの中にたくさんの「私」がいることにより自分が自分でないような感覚やどれにも現実感が持てない感覚になるのも無理はないなと思います。最後のほうに「私は私を守るためにこの文章を書いた」とありましたが、あなたの想いを表現してくれて嬉しく思いますし(上から目線に感じてしまったら申し訳ありません)この経験談を読んだ様々な生きづらさを抱えている人たちの何かの気づきを促したりするのではないかとも思います。書いてくださって本当にありがとうございます。どうすれば、あなたが着ぐるみを被らずあなたらしく生きていける社会になるのか一緒に考えていけたらなと感じました。

感想4
とにかく表現が多彩で、文字の羅列でしかないはずの文章が情景としてリアルに伝わりました。出来事の1つ1つがどれだけ残酷であなたを傷つけてきたのか、その一端を経験したかのように感じます。経験した本人ではないのでとても恐れ多いのですが、苦しい気持ちになりました。時として、感性の豊かさは傷つきやすさと隣り合わせです。そのため、感性の豊かなあなたが尊厳や願いを踏みにじられたときのダメージは想像を絶するものでしょう。あなたが感性を殺し、普通にならなければならない社会はおかしいと思います。
着ぐるみを被るのが上手な人は、着ぐるみを被っていることに気づかれないまま生活できます。そのうち、着ぐるみを被るのがどんどん上手になって、本当の自分とのギャップが大きくなるかもしれません。そうなると、苦しいのに周りの人からは気づかれないし、気づかれたいけど気づかれたくないので、SOSも出しづらくなるのではないでしょうか。そんな状況が限界になって、精神疾患や自殺未遂が起こったのではないかと推測します。
着ぐるみが自分自身の人格を統合していたと考えると、着ぐるみが引き裂かれていくつもの人格が出てくるのは納得がいきます。また、着ぐるみはあなたと「普通」の社会を仲介するものだったのかなと考えました。うまく着ぐるみを被れなくなると、「普通」の社会で生きる難しさが表れるのではないでしょうか。でも、あなたが自分を偽って「普通」の社会で生きるより、あなたらしく生きられる社会で生きてほしいと勝手に思っています。どこにそんな社会があるのかと言われると苦しいですが、生きやすい社会に向けて、あなたと一緒に考えていけたらいいなと思いました。

感想5
文章全体から、高い感受性を持たれている印象を受けました。死にトリではみなさんから「死にたい」「消えたい」に関する経験談を募集していますが、あなたの「死にたい」「消えたい」感覚が読み手に強く伝わってくるような文章だと思います。
その感覚を想像しながら読むと、これほどバラバラに壊れた世界で苦しんで、生きる意味って一体何なんだろう?と思ってしまいました。そんな否定できない現実に、とても悔しい気持ちになりました。
あなたを苦しめているものは、〈生まれた頃からの両親による虐待〉〈学校でのいじめ〉〈就職活動でのプレッシャー〉などが挙げられるかもしれません。しかし、そうやって経験の一つ一つに名前を付けて整理することには、あまり意味がないと思います。あなたの経験の全てが、複雑に結びついていて、とても言葉で説明しきれないものだと思うからです。生きづらさも、〈解離性障害〉〈複雑性PTSD〉などと言ってしまえば、そうなのかもしれません。しかし、そうした診断名を付けてみても、あなたの生きづらさは表しきれないと思います。
あなたの生きづらさを100%完全に理解できる人は、いないのかもしれません。生きづらくない人であっても、全て分かり合うことはできないでしょうから。しかし、そうだとしても、あなたが感じる様々な生きづらさのうち「この部分を、これくらい理解してほしい」と思うときがあるなら、私はできる限りそれを理解する努力をしたいです。理解しようとすらしないのは、同じ人間として、あまりにも無責任だと思うのです。
一番印象的だったのは、最後の「私は私を守るためにこの文章を書いた。この文章が、私が今現在も苦しんでいることの証明の一つになってほしいと、心から願う。」という2文です。あなたの願いが力強く表されていると思います。あなたの願いとして書かれていたのは、〈誰かに助けてもらうこと〉や、〈今よりも生きやすくなること〉ではなく、〈続く苦しみの証明〉だったことが心に残りました。
苦しみの証明をしたいという願いは、あなたが自分自身の心を少しでも安全に保つために、とても合理的な判断だと思いました。ただ、それが合理的だと認めることしか今の私にはできない、ということが悔しかったです。こんなに心を壊され続けながら生きてきてくださったことに、何を言えばいいのか分かりません。〈ありがとうございます〉も〈ごめんなさい〉も、なんだか上から目線になるので違うのです。ただ、あなたがこのまま消えてしまわれるのは悔しいので、何か一緒にできることがないか考えさせてほしいです。

~感想を読んで~

私の現状は今も変わりません。薬を飲み、精神科に通院しながら仕事を続けています。今の私には、これ以上の選択肢はありません。行く道を失ったときに全てを捨てて自死を選ぶ覚悟も持ち続けており、そんな状態で、私達はなんとか生きています。
今日も沢山の方が、それぞれの死にたい思いを投稿されるのでしょう。その方々がしたためる文章に込められた絶望はどんな絶望よりも深く、けっして一つたりとも軽視してはいけないものだと感じています。私の全てをぶつけた投稿も、やがてそういった方の投稿に埋もれていくでしょう。毎日何万という人が「死にたい」と思うこの国では、それは仕方の無いことだと思います。
ただ、埋もれてしまう前に、もう少し人生をあがいてみたい。「今まで生きていた」という証を、様々な形で人に見てもらいたいのです。小説、イラスト、その他表現方法を問わず、ばけもののような内面を外界にぶちまけることで、自分というものを少しでも人に理解されてから死にたい。理解されないまでも、どろどろとしたどす黒い生への執念が、私の生み出すものを目にした人の心に少しでも深く食いついてくれればと思っています。
表現の場を与えてくださり、ありがとうございます。