東京都・10代
Xジェンダーとクロスドレッサーな高校生です。
私が死にたいと思うようになったのは、小学校低学年でした。
ぼんやりしたものでしたが、人に迷惑かけたくないから死のう、けど親が自分に使った金とか事故物件とか色々考えると死ねない。とぐるぐる考えていました。
辛いとか苦しいとかあってもなくても「死にたいな」「人類の記憶から消されたい」「消えたい」とひたすら頭に浮かぶので迷惑してます。
「死んで花実が咲くものか」と言いますが、死ねば、手折られる苦痛も、嵐に怯えることもなくなります。
自分は生きてる間に種を蒔いたことがないので何もないです。何度か看板で見たものの「へえ」というだけ。生きてたところで才能も開花しません。木瓜も牡丹一華も瑠璃玉薊も咲きません。
死んだら楽になれるかは知りませんが、問題と向き合う義務はないので、やはり死には心惹かれるものがあります。
明日の食事も、新幹線に飛び込むのも同じことなんです。線路も泉路も同じようなもん、とカッコつけて言ってみます。
何度か計画を練ったり、疎遠になる前は恋人と心中を計画したりしましたが、断られたり、海を見て満足したり、夕日を眺めて泣いたり、一回だけ実行しました。どんな感じかなと軽く飛び降り、脚を折り心がやられて以来、陸の投身は企画しなくなり、高所が苦手になりました。
高校に入ってからPCの課題が多くなりました。
しかし親がネット嫌いなので課題でもやるなと言われ、電子機器に触れられなくなりそうです。
これ以上居場所を取られたら、昔のように無意識で放火とか通り魔とかしそうで怖いので、そうなる前に死ぬ計画を立てて早いとこ観光兼自殺旅で、最後くらいは嫌なものを見なくて済む場所に行きたいです。
死にたい理由は単純で、まず「幸せを感じすぎて価値観が摩耗した。恵まれすぎて何もわからなくなった。」
単純に強欲になった自分が嫌いになったんです。何を得ても物足りなくて、失くしたときは不安になって、何もなくなったんです。
一回幸せの絶頂を知って、これ以上は存在しないと絶望したんです。
仮に自由な時間が7時間あったとします。2時間を楽しんで過ごし、そして残りの5時間を持て余してる感じです。
次に「昔から持っていた希死念慮と罪悪感が爆発した」です。
価値観がおかしくなり、生活がつらくなりました。普通の人間でも、ネジの外れた集団でも同じになれず、小さいことでストレスが溜まっていきました。
例えば、高校で制服が選べると思ったら女子はスカートを買え、スラックスはオプションで悲しんだり、恋人(同性)と疎遠になって微妙な関係になったり、恵まれてる事実を痛感したのに体調が悪くて成績が落ちたり。
始めは普通でいたいとかそんなことでストレスが溜まって、結局考えるのが面倒になって、もういいかとなったんです。悩んで苦しむくらいなら死にたいです。
そうこうしているうちに「もっと幸せになりたい」「楽しく生きたい」なんて気もなくなりました。
どんな出来事も不幸に見えてしまうようになって、幸せもいつかはなくなると思うと不安になりました。
助けてくれる人は山程いましたが、幻滅されるのが怖くて、いつも逃げ、頼り方も思い出せなくなりました。
恐怖の対象から逃げられなくて傷つくくらいなら、素直に言っても信じてもらえないなら、「自分可愛そう」と思うイタい子になって、何も見ずにふさぎ込む方が楽なんです。だから死にたいです。
人の本来の寿命って30歳くらいらしいですね。40歳くらいで死ぬのが身体的にも精神的にもベストと違いますかね。
家庭環境は、怒られるかもしれませんが、ある意味つらいものでした。
父親は恐怖の対象です。
私がかわいいらしいのです、それ以外に興味がないらしく、ちょっとおかしい人です。
自宅では会社の部下に対して結構な頻度でパワハラまがいの陰口を言っていて「私もこんなふうに言われているかもしれない」と肝を冷やしています。
学生時代には成績が良かったため、勉強や考え方の面では、私の「わからない」がわからないと言われることも多々ありました。
私はアホなので「説明しろ」「考えろ」と言われ、何時間もかかり嫌な顔をされて、最終的には嘘を吐いて終わらせています。
自分はわからないと言うのに、私には怠けるな考えろと言ううえに、正直に話しても理解されないのでできるだけ関わりたくない人物です。
母親は優しいとされる専業主婦です。
家庭環境が複雑で面倒を見てもらえなかったため、子供にはそんな思いをしてほしくないそう。
今も私の面倒を見ています、いつも私の行動を詮索してきて、反応するのも結構面倒なものでした。
知り合いに相談したところ「過干渉では?」と言われました、だからどうしろと。
外と家での振る舞いに差がある人です。外ではさらっと嘘を吐くことがあるので少々合わせるのに苦労します。
一度だけ泣きながら刃物を向けられたのがずっと心に引っかかっています。実の母親に「一生子離れできない」とまで言われた可愛そうな人です。
兄弟はいません。親戚に優秀な人が多く、比べる対象には困りませんでした。
偏差値65以上の高校に進んだ姉さま。親に反対されても夢を諦めなかったお姉ちゃん。
英検でなんとか高校に入って成績下から3番の私とは違います。
偏差値は基準があるのに、なんで人生には明確な基準がないんでしょう。
精神疾患もってる人って本当に大変だと思いますが、持ってないのに毎日死にたい自分が甘えてるみたいで嫌になります。
カウンセリングの先生に「病院に行ったほうがいい」と言われても「思い込みで気分の持ちよう」って親に一蹴されて終わるんです。それでどちらを信じればいいのかわからないまま「メンヘラとかになりたいな」とかわかってもいないのに言って、また自己嫌悪に浸ります。
つらいけど、周りからすればそうでもなく、大したこともしてないのに一丁前に疲れ切って、明日から頑張ると言いい何もしない屑なんです。
今はもういじめられてないので、病んだと言いなんでも自分の辛いことを吐き出して、それでいて周りは心配してくれる環境にいる人が羨ましいです。
「私だけなんでこんな人生つらいの」って言ってくる奴に「大変だね」って言って慰める人がいるのが羨ましいんですよ。
相談したいわけでもないんです。分かってと願い、分かると言われれば分かるわけがないと思う人間なんです。
会話さえできれば、同類とかそれを魅力として感じる人がいて、自分は個性もなくて面白くもなく嫌われて当然なんです。
悪いとこがないか、そう聞いて治す気があるんです。アホなのでもう治し方も忘れているんです。
こう言ってるだけで努力もしないので、死にたくなくなるわけでもないです。
引きとめるのも、引き止められるのも、さぞ疲れるのでしょう。
辛く苦しく、助けを求めても「病んでるの?」と笑うような世界なんで、生きていたくないです。
腕血深泥にして、病院に送られて、やっと分かってもらえるような世界なんで、期待したくないです。
それでもこんな文章を読んでくれる人も少なからずはいます。
鳥にも駄目だと言われそうな頭でも、それに気づいてしまうんですよ。
とりあえず、頭悪く、言葉足らず、語彙も無く、世間知らず、人の気持ちもわからず、怠け者の屑なんです。と書いて嫌われてもしょうがない、と自己防衛しておきます。
もう死ぬつもりなんで意味ないですが。
感想1
私自身が語彙力がないという自覚があるのですが、あなたの経験談の中に登場したいろいろな言葉を調べながら文章を読みました。言いまわしも含めた文章表現などから、常に思考してきた方なのかなって思いました。でも、その思考があることで、自分自身の感覚として「自己嫌悪」や「怠け者の屑」といったものが生まれてきてもいるのかなと勝手な想像をしました。また、あなた自身の経験とそれに基づく思考、そして家族を含めたあなたを取り巻く社会を見た結果が、この経験談に書かれたことだったのかなと感じました。
なんというか全体的に「〇〇だね」って言われたら楽になれるかな、でもいざそう言われたら「そんなことはない」って否定したくなる、そんな気持ちがいつも共存しているのかなって思いました。私自身もそれで自分のことを面倒くさいやつだと思って、自己嫌悪するときもあります。人のことだから言える、というのはあるのですが、矛盾した感情を持ったり、イタい子になってみたり、というのってある種すごく人間らしいのかなって思ったりもします。(動物はそうならない気がするので人間特有で人間らしいというような…)といっても、自己嫌悪になるのかもしれないのですが、「まあ、そんなものかな」って思える瞬間があるのも悪くはないかななんて思いました。
感想2
現在までの生活の中で、様々な価値観を押し付けられることや、違和感を持つことがあり、そのことについて理解者も見つからず、一人孤独に直面し続けている状態が、「死に心惹かれる」という感情で現れているように見えました。
植物も花を咲かせるために生きているわけではないと思いますが、この社会では、花を咲かせるかのような、傍から見て判りやすい成果を求められる傾向が強すぎるように思います。
「幸せを感じすぎて価値観が摩耗した。恵まれすぎて何もわからなくなった。」とのことで、自分の中の価値観の転換期なのかなと考えました。
「幸せ」という観念に強く囚われているようにも感じました。世の中の「幸せになるべき」という思想が強すぎるため、それに吞み込まれて、自分自身の望みや感覚が分からなくなることはありそうだと思いました。いっそ「幸せ」の観念に囚われず、淡々と日常を送れることが幸せなのだろうかとも思いました。また年齢を重ねるとともに、幸せは変わっていくのかなと思いました。一方で、あなたが自分の中に作り上げた「幸せ」の観念に頼ることで、辛うじて生きようとしてきたのかもしれないと考えました。今ではそれが逆効果となって自分を追い詰める一因になっているのかなと思いました。また、これまで理不尽な理由で親に生活を制限されることが、少なからずあったのではないかと想像しました。父親と母親、それぞれの思い通りの子どもを演じさせられてきて、一個人として尊重される環境ではなかったように見えました。
この「死にトリ」に参加している人たちの中には、自分の意思で親族との関係を断って生活している人も少なくないようです。あなたが望むなら、そうすることも選択肢の一つだと思います。ただ、社会の現状では、生まれた家庭を離れることが難しすぎるという課題があると思います。それから、読んでいて、なんとなく、「自分で自分の人生に納得がいくように生きたい」という思いがあるけれど、今はあまり納得感がないのかなと想像しました。もちろん、その背景には家庭や社会の環境の問題があり、あなた個人だけの問題ではないと思います。
これは、お節介な提案ですが、色々な人の考えや経験を聞くことで、あなたが生きている中で自分なりに納得感が得られることの幅が広がることはあるのではないかと考えました。世の中に診断名や偏差値のような指標はあっても、それは目安の一つでしかなく、絶対的なものにはなり得ないと思います。それよりも、個々人のリアルな語りや振る舞いに触れることで、一般化された指標には表されない様々な違いや曖昧さがあることを知る機会は多いように思ったのです。
とはいえ、何でも知っている人間はいないので、何歳になっても、知らないことがあるのは当然だと思います。あなたは、自分にはまだ知らないことが色々あるということを知っているのだと思いましたし、それはとても貴重なセンスだと思いました。