人生のモード選択が出来なかった人間


長野県・20代・女性


思えば自分の人生は最初から選択の余地なんか無くハードモードだったのかなと思う。
生まれたときから太ってて顔も可愛くなかったし、物心付いた時にはもう父親は居なかった。
母親も彼氏と違うとこに暮らしていて、私は祖父と祖母に育てられた。
小学生の頃にいじめにあって、周りと違うからっていじめられた。
汚いから触るなってバイ菌扱いは当たり前だったし、運動が苦手だったから体育のペアとかグループとかも仲間外れで、未だにペアになれ、グループを作れって言葉には凄い敏感に反応して変な焦燥感がして冷や汗が出る。
学校側はいじめなんてない、こちらは悪くないの一点張りでなにもしてはくれなかった。
教室には入れないから、学校へ行ってもずっと保健室の隅っこで過ごしていた。
そんな中で祖父のガンが見つかったのは小学校に入って少し経ってからだったと思う、ステージ4だった。
家にも学校にも居場所は無くてこのまま消えたいなってずっと思ってた、ドアノブにDVDプレーヤーの配線を引っかけて死のうとして失敗してっていうのを何回か繰り返した。
たまに母親と過ごすのも良いだろうって事で泊まりに行ったりしてたけど、その度に母親の彼氏に性的な虐待をされるから母親には会いたいけどあまり行きたくなかった。
結局その彼氏と上手くいかなくなって母親は帰って来て一緒に暮らし始めた。
殆ど授業を受けないまま卒業して中学校へ進級したけど当たり前ながら周りは小学校の時の顔ぶればかりで、初日でパニックを起こして2日目から引きこもった。
学校へ相談しても教師や担任は甘えているだけ、授業を受けろと言うばかり。
そういう子達の為の支援学級に通いながらなんとか勉強して、でも給食の時間は教室まで自分の分を取りに行かないといけないから、美味しかったけど嫌いだった。
支援学級は学年は関係なくて色んな事情を持った人達が居て、でも同じような理由で集まったからかなんとなく波長が合ったからか話が弾んで仲良くなった。皆温かく迎え入れてくれた。
自由時間に皆で集まって色んな話が出来て楽しかった。ちょっとハメを外しすぎてバカ騒ぎして怒られたりしたけど思えばあの時が一番人生で輝いてた。
高校受験の時期になって、周りは行きたい所とか自分が行ける所とか色々悩んでいた。
私は祖父や母親に普通の高校に行けって言われた。
でももう普通の子達と同じ環境で生活なんて出来ないと思ったし想像も出来なかった。
担任からも授業をまともに受けてこなかったんだからまともな高校なんか受かるはず無いし何より高校自体受からない、万が一、億が一受かったとしてもどうせ続かなくて辞めるのがオチだ等と言われた。
何より周りと違うことでまたいじめられたり避けられたりするのが嫌だった。
家に高校の学費が出せる程の余裕も無いから、制服代も授業料も教科書代もかからない定時制高校に入学した。
高校は学年に1クラスしか無くて人数が少なかったので息がしやすかった。
早々に友達も出来てその友達とよくつるむようになった、普通とはかけ離れてたけど初めてクラスで一緒に授業を受けて行事も参加して、やれば出来るじゃんって凄く嬉しかった。
でも人生上手くいかなくて、高2の時に祖父が亡くなった、ガンが最初に出来た所にまた転移してもう打つ手が無くなったから。
何も出来ず、痛みや苦しみに耐えながら少しずつ衰弱して死んでいった。
10年間闘病生活しながら自分の父親の様に育ててくれた自慢の祖父だった。
車の免許を取ったら自分の運転でどこかに連れていって、助手席で教官役になってくれる、なんて約束はもう果たせないけど。
多分そこから人生の難易度が少し上がったんだと思う。
家の家計は祖父が全部やりくりをしてくれていて、何かの手続きとか難しいことは全部祖父がやってくれてた。
祖母と母親は祖父が居なくなったことにめちゃめちゃショックを受けてて事後処理なんてどころじゃなかった。
だからその時は母親の従兄弟、私からみるとおじさんにあたる人達が全て手続きを回してくれた。
おじさん達は兄弟で、おじさんと呼ぶにはまだ大分若くて当時まだ30代前半(以後S兄さん)と20代後半(以後N兄さん)だった。
この2人も生まれたときから人生ハードモードで、母親は男と逃げて消息不明、父親は出稼ぎに出てるから育てられず幼少期は養護施設で育って、その後祖父と祖母が引き取って成人まで育てたのだそう。
自分の学生時代では父兄参観に来てくれて、行事で父親が出なきゃいけない種目とかに父親が居ないからって自分がバカにされてたら、静かに2人で出ていって良い笑顔で優勝をもぎ取ってきてくれた。
色々してくれて本当の家族で兄の様な人達だった。
そんな2人にとっても父親の様な人が亡くなったのは相当ショックだっただろうに自分と一緒に淡々と手続きを進めていってくれた。
自分は、覚悟出来てたのか涙も出なくて冷たい人間だなって自分で思った。
でも元々軽かった祖父がスカスカの骨になっちゃって骨壺に入って手の中に収まった時はなんも孝行出来なかったなって寂しくなった。
そこから祖父がやってくれてた家計のやりくりとか遺産相続手続きとかあれやそれを調べながらなんとか引き継いで、近くに住んでたN兄さんの手助けもありながら家をどうにか回していくことになった。
N兄さんは特に賢い人で、明るくて人当たりがよくて基本どんな人とでも仲良くなれた。友達も多かった。
高校中退だったから住み込みとか居酒屋とか夜の世界で働いてたけど家に家族の様子を見に来てくれたり、何か困った時はすかさず助けてくれて自分の理想像だった、こんな人になりたいなってずっと思っていた。
だから翌年N兄さんが首を吊って死んだって聞いた時はなんとなくどこかにぽっかり穴があいた気分だった。
今でも連絡を受けた母親の悲痛な叫び声が耳にこびりついて離れない。
理想の人がたった31歳で、たった独りで死んでいったことが衝撃だった。
まさかあの人がそんな事するわけがないと思った。
先に逝った祖父の代わりに、車の免許を取ったら教官役で助手席に乗ってくれる約束だった、前の日に買ってきた御守りをその日に渡すつもりだった。
自分も、周りの人間も、あの人になにもできなかった。
霊安室で寝ている冷たいN兄さんを前に動けないS兄さんや母親、祖母の代わりにN兄さんの葬儀や搬送の手配等は全て自分が請け負った。
葬式も火葬も終わってN兄さんが軽い骨だけになって小さな骨壺に入ってもやっぱり涙もなにもでなくて、改めて自分は冷たい人間なんだと実感した。
それでも祖父の時の恩返しと、罪滅ぼしがしたかった。
N兄さんが暮らしていた部屋の片付けをしていると、生命保険や車の保険を解約した書類や、カードローンの督促状、完済のお知らせの書類が出てきた、調べると携帯料金も支払いが滞りがちだったようだった。
何も知らなかった、いつもなんでもないように笑っていた。
誰にも弱味を見せずに八方塞がりになって死んでいった理想の人はどんな気持ちだったのかと思う。
そんな彼は今でも自分の理想なので、自分もそんな風に生きて死ぬのが夢だ。
その後紆余曲折ありながらも免許を取って高校を無事卒業して、社会人としてこれから頑張っていくのだと決意していた。
母親のガンが見つかったのは今年の3月だ。
人生が鬼畜モードになった瞬間だった。
元々母親も祖母も糖尿病、更に祖母は下肢障がい者で一人での生活はままならない。
非正規でコンビニで働く母親とようやく働けるようになった自分で家を支えようと話していた直後の事だった。
ステージ3c期という限りなく程度の重い物だった。
手術で患部切除、その後も抗がん剤の飲用と点滴で治療をした。
働けなくなった母親の代わりに会社を退職し、派遣の交代制長時間勤務で治療費を稼いでなんとか凌いできた。
市町村等の自治体等に支援をしてもらえないか相談をしてももっと困っている人がいる、申請は通せないと突っぱねられるので自分が何とかするしかなかった。
しかしいくら稼いでも借金の支払いや月々の支払いで足りない、母親の病状も今は安定してきているが、祖母の面倒も母親一人では見きれない。
何より自分の体調が日々悪化してきていて、先日も事故をしてしまってろくな貯金も無いのに本来必要無かった大きな費用が必要になってしまった。本当に自分は救いようの無い人間だと思う。
だからこれ以上の事を起こさないためにも生活が苦しいのは承知で日勤のみの会社に転職をする事にした。
それぞれが生活のために借金をしていて、日々の支払いも苦しい中で更に収入が少なくなることは悪手としかいいようがないのは承知の上だが今の生活の柱は自分だけ、自分が倒れ、そのまま共倒れすることになればもう起き上がれない。
だから今はバカみたいにしんどい心身を引き摺りながら、家族や周りを全力で支えつつ、今はもうどこにも居ない理想を追い続けて、せめて31歳までとリミットを決めて生きていく。
人生ドン底の鬼畜モードでも、いつかノーマルモード位にはなってくれたりしないかなって少しだけ希望を持ちながら。

感想1
経験談の投稿、ありがとうございました。

家庭環境に苦しめられていることがありながらも、家族に助けられたこともあるという内容だと感じ、この経験談で自分自身を振り返り、確かめているように私は想像しました。「自分の人生は最初からハードモードだったのかな」とありますが、そう思わなければ、今までの人生が語れないほど、辛い経験を続けてこられたのかなと感じました。小学生の頃からのいじめと祖父さんの病気発覚で、自分に居場所がないと感じながらも生活を続けるのは、幼いあなたにとって、気持ちを抑え込みながら誰に助けてを言えばいいのかも分からず(また、誰も助け舟を出してくれなかった)、幼い頃ということで周りの環境に従うしかなかったということもあるのではないかと思いました。

母親さんとの生活になっても、学校生活に対して「ハードモード」と感じても無理はないような内容だと私は感じたのですが、その中で支援学級での環境があなたにとって「居場所」になっていたのであれば、今までの「ハードモード」の人生が少しソフトになった時だったのでは…と想像しました。でも、受験や学費の問題でまた雲行きが怪しくなってきたような感覚になりました。小学生から中学生に上がる時、中学生から高校生に上がる時、人生では色々な節目があると思いますが、その節目でも過去の出来事や友人関係が関係して、進学することに対して妨げになってしまうのは、非常に残念なことだと思います。新しいことが始まる時、「心機一転」という言葉がありますが、あなたにとって「心機一転」出来る環境だったならば、これほど苦しむことは無かったのではないかと勝手に想像してしまいました。人間は群れを作って生活していく生き物だとどこかで聞いたことがありますが、節目にはみんな心機一転して、新しい環境を作り上げていければいいのになと思います。定時制の高校に入学したということですが、それはあなたにとっての「心機一転」できる環境だったのではないでしょうか?(学費の面での選択肢ということしか書かれてはいないので、私の勝手な想像ですが。)

祖父さんが亡くなり、N兄さんが亡くなったことがあなたにとって、どれほど衝撃的で辛い出来事だったのかが伝わりました。それほど月日が経たず(心の整理をつく暇もなく)、骨壷に入っても涙が出ないということは、受け入れるしかない状況だった、また受け入れられない自分と戦っているということもあるのではないだろうかと私は考えました。それでも、あなたが理想の人と思い続けていることから、私はあなたが冷たい人間というふうには思いませんでした。あなたが一人で抱えている思いは、すでに一人で抱えていける容量を超えていると思います。母親さんのガン発覚で、さらにあなたはしんどい心身を引きづりながら、周りのために働こうとしているのですね。「人生ドン底の鬼畜モード」という表現が、この経験談の最後に書かれており、あなたの今の人生が「人生ドン底鬼畜モード」ということなのかなと想像すると、「ノーマルモード」とはあなたにとって(また、私にとっても)、どんな人生なのかなと思いました。希望を持ちながら投稿してくれたのであれば、一緒に考えてみたいと思いました。

感想2
自由とはできることやなり得る状態の選択肢の広さであるという考えを聞いたことがあります。これまでの人生で、自由が足りなかったということなのかなと仮説を置いて読んでみました。
あなたに自由を与えなかったのは、運ではなく、社会環境の面が大きかったのではないかと思いました。また、自分の自由を主張する自由までも、弱められていたのだろうと考えました。
いじめという理不尽に、いじめを認めない学校の理不尽が重なり、一人では闘うすべもなく時間を凌いでいるところを想像しました。終わりの見えない苦しさに絶望しきっていて、自殺未遂をしていたのだろうと思いました。学校など、この社会で子どもの生きる場として用意されている環境は、まだまだ無力なのだなと思います。

祖父母や母親、叔父さんたちとあなたの親族の中では、(親族以外の)他人に頼ることにはあまり積極的になれない空気があり、孤立気味だったのかもしれないと思いました。もしかすると地域全体でそうした文化があったのかもしれないと想像しました。「親族のことは親族の誰かがやるしかない」というような考えが、それぞれにあったのかもしれないなと…。でも一方で、それが親族の人たちへの敬意や、誰かが困っていたら助けようという気持ちにもなっていたのかなと思いました。
親族を助けることが優先になり、自分のやりたいことは後回しになることも少なくなかったのだろう(家庭の経済状況を考慮して高校を選択したことなどを読んで)と思いました。人生で何かを選択するときに常に親族のことを考慮しなければならず、選択肢が少なくなる一因だったのではないかと考えました。
現在の社会では、やはり、「親族のことは親族で助け合ってやるのが望ましい」という考えが根強くあり、それによって、頼り先の選択肢が限りなく少なくなり、各々が孤立してしまうことが少なくなさそうです。この社会状況を変えていけば、最終的に「自殺しか選択肢がない」ように思えてしまうことも減るのではないかと思います。
また、あなたは人生で巡り合った人のことを気遣い、相手の魅力を見つけるのが得意なのかなと思いました。今後も、さまざまな人との巡り合いがあり、お互いに気遣い、お互いの魅力を認められるような関係ができれば、人生の物語は新しい章に入るのかもしれない…と思いました。