私が変われば友達ができると思った結果


兵庫県 17歳 女


私はもうどんな自分になっても好かれない人間だと思っています。どんなに変わっても、人に好かれやすい性格に変えても、誰も自分に興味すら持たれないのだと最近気づきました。

自分が初めて性格を変えたのは中学の時でした。部活で部員のみんなと仲良くなってきた頃からです。
いつもどうりに騒いで笑って楽しく話していると一人の子に「声が大きくてうるさい」と言われました。最初は「あっ、そうなんだ気づかなかった」と思いその子に軽く謝りまって気おつけるよう努力しました。しかしその日から徐々に色んな人から自分に指摘することが多くなりました。声量以外に、自分の話し方がおかしい、話すのが早い、服のセンス悪い、などとその人達と話す度に必ず1つは私に指摘をしてその度に私は反省し性格までも直しました。その当時は自分の問題だと思ってはいましたが、直す度に自分は今までどう話していたのか、どんな服が好きだったのかが分からなくなり直そうと頑張れば頑張るほど自分の変な方向に進んでいってまた指摘をされる日々が続きました。

一度、それが爆発して怒ったことがありました。ですが、それを「拗ねた」と言われ軽い謝罪をされて済まされました。その後年賀状には「今年は君を拗ねないように気おつけます」と書かれて破り捨てようかと思いましたよ。

ちなみに中学卒業と同時になんとなくSNSにそのことを零したら途中で退部した子から「凄くいじられてたよ」と言われ初めて私はいじられっ子だったのだと気づきました。

高校に上がり、私は同じ中学の人達が行かない学校に行きました。私は人見知りなではなく初対面でも話しかけれるので色んな人に話しかけました。結果は、知り合い以上友達未満の人達が数人できただけでした。
部活には2つほど入っていましたが1つは人数が少なく男子が多かったこと、もう1つは前の部活と同じ空気な感じがして親しくするのに恐怖を感じてしまうからです。

2つ目の部活は、学力が高い人達ばかりで、話し方がおかしい自分を馬鹿にしているのではないかと思ってしまうからです。それは中学の時の部員の人たちもそうでしたので環境が似ていたのかもしれません。
そのせいで私はできるだけおかしく見えないよう気おつける日々が今も続いています。

同じクラスの人にも話しかけるにもコロナのせいでほとんど話しかける機会がなくなりました。それでも機会を見つけて話しかけたのですが…何故か線を引かれてるようなきがしました。1年生の生活全てが1人で、お昼もずっと1人でお弁当を食べていました。その時は誰も私に話しかける人がいませんでした。

2年に上がり、新しいクラスにもなり、授業も総合学科なので自分で選択した授業を受けれる環境が変わり友達ができるチャンス!っと張り切り頑張って話しかけようとしましたが…
もう友達などの関係が完成しておりその仲に入るのは流石の私も難しかったです。

ですがなんとか機会を見つけて話しかけた事がありました。その時まで私はコミュニケーションについて調べたり、心理学で人と楽しく会話できる予習を仕上げましたが、結果は私に興味を持たれませんでした。

初めは挨拶をしたり、質問をして共通の話題を上げて話を広げたりなどしましたが、ただ私が一方的に話しかけるだけに終わりました。もちろんただ私が話すだけではなく相手に「どんなアニメが好きなの?」「それ知らないなぁ、教えて今度調べてみる!」などと言いましたが、話しているうちに相手が少し嫌そうな反応もし始めた所から私は会話をやめました。

もしかしたらぐいぐいと来る人が苦手なのかもしれないと思いそれを反省して相手に合わせて話しかけるのを何度もしましたが、相手から私に質問をかけることはありませんでしたし私に話しかけることもありませんでした。
これは1人だけを対象ではなく何人にも話した結果です。

私の友達の価値が高すぎるのではないかと考えもありましたが、話しかけられない時点で私に話しかけたいと思えるような存在ではないことに、それは友達と言えるのかと悩んでいました。

もう色々疲れた私は人に話しかけるのをやめました。そうしたら毎日口が乾くほど話していた口が食事と挨拶以外全く開かなくなりました。私に話しかけるほどの価値がないのかぁともう自分消えても誰も泣かないんじゃない?死んでみるか、そしたら泣いてくれた人が私の事大切だと思ってくれた人が見つかる!と変なことを考えながら涙を流しながして笑いました。

自分に話しかけないほど私はつまらない人間だったのだと気づかされました。

実は2年生に上がってからスクールカウンセリングの他に保健室に行くことが多くなりました。その時保健室の先生から私が話しかけなくなった事に不安を感じる人がいたらしいことを聞いて私は今までの悩みを相談しました。すると先生は

「話しかけてきた人がいきなり話しかけなくなったら本人も相手に話しかけにくいよ」

その事に私は意味がわかりませんでした。私が話しかけないと続かない関係なんて友達なんて言えるのですか!と言い返しましたが

「まずね人に期待して話しかけること自体が間違ってると思うよ」と他にも色々言われましたがそれら全てが私の頭に鈍器で殴られた感覚になりました。

私は間違っていたのです。話しかけるのに予習をすることも、話しかけられた瞬間が友達だと思う自分の価値観も全て間違っていたのです。

それに気づいてまた新しい自分を作ってもきっと誰も私に話しかけない。こんな価値観を持っている私は必要ない。どんな自分になっても好かれない。これにはもう悔しいとしか思えませんでした。

本当の自分でも、人に合わせ好かれるために作り上げてた自分でも結果は孤独にたどり着くのなら。

私はもう、1人で生きようと決めました。

ですが、やはり友達は欲しいです。好きなことを話したいし趣味も共有したい。今でも「これをすれば好かれるかも」とつい努力をしてしまいます。

こうなるぐらいなら一人でいるのが好きな人間になりたい。一人の時間が好きな人間になりたい。

けど、なれない。そういう人間に生まれてしまったから

そう思うとため息が何度も出ますし、それ以来から身体にも現れるようになりました。もう2ヶ月以上も体調不良で心も身体もボロボロでなんとか身体だけでもと思い病院行ったり、健康的な生活や気分転換に遠くに足を運ぶなどを試みるも完治する様子なし。最近イライラが収まらなくて親に当たりそうな自分が嫌ですし、ヘアードネーションするための長い髪を無性に切り刻みたくなる衝動も何度も抑え、手足掻きむしる日々が続いてます。

これを解決できるのは自分でも知っています。自分を受けいれてくれる人に会うことが解決の道なのは知っています。

けど知ってるから辛いんです。だって元からそれを手に入れたくて努力した結果がこれなのだから。

多分、これをカウンセリングの先生に言っても「今いるあなたの世界が狭いから~」など言われると思うから、もう解決するのは一人でいる事を好きになる選択肢しか無い。けど、もう疲れました。

全てを尽くした。やることはなんでもした。手を伸ばすことはなんでもした。だからもう、誰か助けて。助けて。話しかけて。手を掴んで。

1人になる他に何か解決策でもあったらいいなぁと思って書きました。あったら、このボロボロな身体を直す鍵になれたらなぁと思っています。

書いていて振り返ったのですが、自分結構めんどくさい人間だったのですね。

感想1
人間関係やその中での大変さについて、経験を教えてくださりありがとうございます。

集団の中での振る舞い方や人への接し方などを指摘される中で、「あっ、そうなんだ気づかなかった」と思い、合わせようとしているうちに、もともとの自分がどうだったのか分からなくなったというエピソードが書かれていました。私はこれを読んで、投稿者さんは素直に他者の言葉を捉えることのできる方なのかなと思いました。また一方で、言葉をしっかり受け止めるからこそつらく感じることもあるのかなと想像しました。

部員の人たちはなぜ投稿者さんに指摘をしたのだろうかと考えて、想像ですが、もしかしたら「部員の人たちが指摘をする」→「投稿者さんが謝って気をつける」という流れをお約束のコミュニケーションのようなものだと捉えていたのかもしれないと思いました。それが指摘することやその内容よりも大切になってしまっていたから、さまざまな指摘(という形の「いじり」と言われるようなコミュニケーション)をしていたのかもしれません。また、他の人がしていることを真似ることでハードルが低くなったのかもしれないとも思いました。だから、投稿者さんがそれに対して「爆発」したことを「拗ねた」と軽く受け止めてしまったのかもしれないと思いました。

そういう経緯の中で、投稿者さんが他の人からの「おかしい」という視線に敏感になるのも頷けると思います。ただ、私は部員の人たちのように「おかしい」という眼差しを無遠慮に人に向けることの方が「おかしい」と言われる人よりも正しいとは、なかなか思えませんでした。
おかしいというのは偏った見方だと思いますが、仮におかしいとしてもなにが悪いのだろう?と思います。

投稿者さんは、コミュニケーションについて予習をしたり、相手の反応から想像したりと、真面目に人と関わることに取り組もうとしてきたけれど、実際の関わりの中でうまくいかない場合が多いのかなと想像しました。

「つまらない人間」と書かれていましたが、私は経験談にあるようなことを考えて、試行錯誤を繰り返している投稿者さんの生き方を豊かだと感じました。
でも、試行錯誤もうまくいかないことが続くと疲れてしまいます。今の投稿者さんはその状態なのかもしれない、と想像しました。

私は必ずしも友達がいなくてもいいと思いますし、友達がいなくても、楽しい時間や心地よい時間の過ごし方はできるとも思います。
ただ、友達を欲しているときに、そういう存在がそばにいないことには苦しさを感じるのも自然だと思いました。聞いてみたいのは、友達という存在がいたらどういうところがいいのかということです。

たとえば、趣味の話を一緒に語り合いたいとか、集団の中で一人でいると不安になるから一緒にいてほしいとか、どこかに共に出かけたいとか、自分ではない他者のことを知りたいとか……。一言で言えば同じ「友達」だとしても、その関わり方にはいろいろなやり方があり、それぞれ違うようにも思います。

また、学校で会う友達ということだけでなく、たとえば趣味をきっかけにインターネットなどを通して遠くに住む人とつながることもあると思いますし(インターネットにはリスクもあるので、注意は必要なのですが)、課外活動など学校とは違うコミュニティに入ると、全然違う人間関係ができることもあるように思います。
「友達」と同じ関係かどうかはわかりませんが、死にトリではチャットを開催していて、その中ではさまざまなテーマで話し合う機会もあります。もしよければ、活用してみてほしいと思いました。

感想2
原因があって結果が生まれる、という因果関係の強い世界観を感じながら読みました。
「こうなった原因は何なのか?」と振り返ったり「こうすると結果はどうなるだろうか?」と予測したり、半ば無意識的に考えているのかなぁと思いました。それは調査や研究をするときの考え方に近いように思いました。そのような考え方は、たとえ性格や行動を変えても「私は私」というアイデンティティを保つ手段でもあったのかなぁと想像しました。
世の中には、人と人が話し合って、力を出し合いながら、より良く変えていくべき制度やルールなどがあると思います。しかし実際には、話し合いに参加する機会が広く開かれているのではなく、一部の限られた人たちだけの意思で決められてしまうことが多そうだなぁと思います。学校などでは、一部の大人たちが勝手に判断した「正解と不正解」を子どもたちに強要することが罷り通っていて残念に思います。本当は絶対に正しいことなんてないのに、「正しさ」を押し付けるのは、考える力や信じる力を奪ってしまうのではないかと思います。
また、私は一日の時間が長く感じて「早く今日が過ぎればいいのに…」と思うときと、時間が短く感じて「まだ今日は終わらないで…」と思うときがあります。前者は、「しんどくても今耐えればそのうち状況が変わるのではないか」と、後者は、「余裕がある今のうちに頑張らないと後で辛いことになるだろう」と、無意識的に考えているときなのかもしれません。これらは、因果関係のある世界観なのかもしれません。そして両方とも、自分がしんどさや辛さを感じても我慢や無理をしなければいけないという意識や状況が前提にあるのだろうなぁと思います。
あなたのお話を読んで、もしかしたら似たような、自分がしんどさや辛さを感じても我慢や無理をしなければいけないという意識や状況が前提にあって、それに苦しめられているのだろうかと考えたのでした(私の勝手な推測ですが)。

感想3
経験談読ませていただきました。
「友達」を求めてこれまで沢山の努力をしてきたこと、どれだけ人に合わせて努力しても「友達」になれないこと、1人で生きようと決めてもやはり「友達」が欲しいことが伝わってきました。
「友達」を辞書で調べてみると「互いに心を許し合って、対等に交わっている人」と書かれていて、投稿者さんが「話しかけられた瞬間が友達」と考えていることも「対等に交わる」こととして自然な考えだなぁと私は思いました。毎日口が渇くほど話していたという記述から、相当人に話しかけることに努力を注いできたことを想像し、それだけ努力しているのに自分には返ってこない(話しかけられない)としたら自分は大切にされていないと感じてしまうのも無理はないと思いました。
なぜ投稿者さんに話しかける人がいないのか、投稿者さんの対人関係に何が起こっているのか知りたくもなりますが、これはその場を見ていないとわからないことが多いので、身近な大人達には、投稿者さんが間違っていると指摘だけするのではなく、何が起こっているのかを一緒に解明してどうしていったらいいのかも一緒に考えて欲しいと期待してしまう私がいます。人間関係は、いくつになっても生きるうえで問題になりやすいことなので、学校で自他尊重や自他境界など人間関係についての授業があってもいいのになと私は思ってしまいます。
中学校の部活でどれだけ自分を変えようと努力してもダメ出しの指摘をされ続けた経験でも、人に良し悪しの評価を押しつけることがその人にどれだけのダメージを負わせるのかを考える機会が子ども達にあれば違っていたのだろうか、あるいは、そのような目にあった時にどうすればいいのかを学ぶ機会があれば違っていたのだろうかと考えてしまいます。
1人でいることを好きになるか、自分を受け入れてくれる人がみつかるか、という2つの解決策が出ていますが、私には投稿者さんの気が張りつめているようにも感じられて、どんな解決を迎えるにしても投稿者さんが少しでもホッと気が抜ける時間や空間があると解決までの間が今よりも少しは楽になったりはしないだろうかと私は思いました。死にトリがその1つとなれるのであれば、今後も死にトリに立ち寄っていただけたらと思います。
経験談の投稿ありがとうございました。