私の大学生活

大阪府・32歳・男性


私の父は過干渉であった。私が中学の時に1人で大阪ミナミへ遊びに行きたいと言うと、「カツアゲされるから行ってはいけない」「中高生で繁華街を歩いているのは地元民(彼曰く、半径1km圏内の地元民)だけだ」「もう知らん、カツアゲされてしまえ!」と、交渉決裂。私の大学合格と同時期に再び大喧嘩をし、ようやく1人で自由に出かけられるようになった。

元々私は大学は自宅通学を望んでいた。父曰く「O大学ならお前が行きたい分野の学科があり、自宅から通学できる」とのことだった。ところが、思いのほか乗り換え接続が悪く、1限に間に合わせるには6時台に家を出なければならないことが大学入学後に判明し、そこまで遠距離通学をするモチベーションはなかった。私は1人で外出の件以外では父を信頼していたので、「通学できる」とは「無理なく通学できる」という意味だと解釈しており、時刻表をちゃんと調べるという発想には至らなかったし、外出の件の影響で電車の所要時間の感覚はまったくなかった。

ちょうど1年後、自宅と大学の中間にアパートを借りてそこから通い、頻繁に自宅へ帰るという方法を思いつき、そのようにしたが、1年休学したことにより、様々な面で非常に苦労した。

私は翌年度入学の学生と一緒に授業を受けることになった。私は形式上は彼らと同じ1年生であったが、彼らにとっては私は先輩という感覚だったらしく、私に対してはこぞって敬語で、疎外感を感じた。もちろん、ただ敬語を使われるだけではなく、私だけご飯に誘われなかったり、私からの誘いだけ断られたりした。私は専門科目ではすべて成績トップだったので、勉強についてよく聞かれたが、私が答えると「ありがとうございました」と言ってすぐに去って行ってしまい、そこから仲良くはなれなかった。大学院に入って入学年度が揃ってもこのような関係は変わらず、学外から入ってきた学生も、内部生につられて私には敬語になってしまった。一方、学部の入学年度が同じだった学生とは大学院入学まで接点がなく、大学院では先輩となってしまい、結果として学内に対等な学生がゼロ、非常に苦痛だった。

授業でも、学問的な難しさとは無関係な点で苦労した。大学入試の成績で15組くらいのクラスに自動的に振り分けられる科目があったが、私のように休学した者への対応は不完全だったのか、「クラス分け表に私の学籍番号はあるが、私のクラスの講師に渡る名簿には私の学籍番号がない」という事態が起こり、講師は単に私がクラスを間違えているだけだと決めつけ、出て行けと言った。英語の授業では、英語で友達の紹介をさせたかったのだろうか、「来週は友達の顔写真を3人分持って来い」と要求された。顔写真をくれるような友達なんて3人どころか1人もおらず、その授業は捨てざるを得なくなった。

大学院合格と同時期に、敬語は相変わらずであるもののようやく友達ができたので、元々下宿が好きではなかったが、前向きに一念発起して大学近辺に引っ越し、完全な下宿生活をすることにした。比較的仲が良かった女子学生のAさんに、引っ越しを検討していることを話すと、彼女自身の学生マンションを勧めてきた。男の私が来ても良いのかと思い、遠慮したりして慎重に意思を確認したが、Aさんは「お勧めですよ」「紹介料もらえるかも」などと言ってきたので、最終的にそこに決めることにした。引っ越しが決まり、部屋番号を伝えると隣同士だということが判明したが、Aさんは特に顔色を変えることもなく、逆に隣同士であることを利用して「分からない問題があるので、先に帰るならそれを解いて私のポストに入れておいて」と言ってきたこともあった。

ところが、大学院入学直後に、Aさんは私が隣にいることで緊張するようになったらしい。同時期に、彼氏が遊びに来るようになったと言っていたので、恐らくこれが関係しているのだろう。事情は分かるが私の責任ではない。しかし、あろうことかAさんは私の指導教員のX教授に相談し、それをX教授は「隣が空室なのは最初から分かっていて、Aさんは嫌がっていたのに、NOのサインに気づかず無神経に隣に引っ越した」と早合点し、私を研究室に呼び出して引っ越しを迫ってきた。私は経緯を丁寧に説明し、それはすべて誤解であり私が引っ越すのは筋違いだと反論したが、何を言っても聞いていないようだった。大学院は縦社会なので、私はX教授の言いなりになるしかなかった。もちろん、引っ越し代は全額自己負担だったし、前の人宛の宅配便が過去3人分も来るなど、引っ越し後にも数多くのトラブルがあった。元々自宅通学をしたかった大学に通うために、気づけば3度も引っ越し。それを、X教授は「小っちゃいことだ」「僕も何度も引っ越した。そんな話は聞きたくない」と突き放していた。

その後もAさんの態度には波があり、私に気を遣っている時もあれば、突然2ヶ月近く無視されたこともあった。私はX教授に、「引っ越したのだから多少嫌でも仲良くしなさい」とAさんに注意するよう頼みに行ったが、X教授は「嫌がっているのに近づくのはストーカーだ」と、被害者である私を一方的に加害者扱いした。それだけでなく、X教授の要求は年を追うごとにエスカレート。修士2年の時、院生室で席がAさんと隣同士だと気づくや否や(私は隣同士にならない席順を何度も提案したが、Aさん本人に拒否された結果そうなった)、学生マンションのことを蒸し返して、席を変わるようAさんを焚き付け、その後再び私を呼び出し、それを受け入れることを強制。博士1年の時は、私以外の博士1年はAさんを含めみんな同じ院生室で、私だけ例外的に博士3年ばかりで居心地の悪い部屋に入れられた。研究室を変えようとも思ったが、O大学に私の分野の専門家はX教授しかおらず、すでに3度も引っ越している私に、4度目の引っ越しをして他大学へ移る余力はなかった。

そして、私が博士2年の時に大きな事件が起こった。私が今のマンションに引っ越してからちょうど3年、Aさんともだいぶ仲直りし、ある合宿型の研究集会に誘われた。3年前のことがあるので、私はその時よりも一層慎重に、少なくとも3度は遠慮し、それでもなおAさんが誘ってきたので参加を決めたのだった。案の定X教授が参加取り止めを迫ってきたので、今回ばかりは私も徹底抗戦したが、X教授は同時並行で研究集会の世話人にこっそり連絡し、私の参加を断るよう唆していたことが判明し、結局参加を取り止めるしかなかった。同時に、私を敵視している教員がX教授以外にも、学内・学外ともに複数人いることも判明したが、X教授は自己保身に徹しており、彼らに私の反論を伝えてもくれず、私に彼らの名前を教えてもくれなかった。世話人や参加者の中にはX教授の研究集会に参加経験がある者もおり、私はアカデミアで非常に活動しづらくなってしまった。

同時期に、父が交通事故を起こした。10年間で3度も事故を起こし、しかもすべて避けられた事故だった。家族は父に免許返納を求めたが、父は「家族よりも車を取る」と言ったため母は離婚。私も、これまでのこともあるので父に絶縁宣言をした。また、元々情緒不安定で私と仲が悪かった妹が、私が下宿してからは私がいない環境が普通だという感覚になり、年々私の帰省を強く拒否するようになってしまった。「帰って来たら殺す」と言われたこともあり、博士1年以降は帰省ができなくなっていた。母は妹とともに別の家に住み始めたので、結果として私には帰る家がなくなった。

博士の学位を取得し、ポスドクとして他大学に移ってからもX教授は口実をつけて私を追いかけてきたので、X教授にも絶縁宣言をした。学生マンションの件以外でも、大学院で奨学金を「返還免除にならなくても、申請者が多いと翌年の学生が有利になるから」と半強制的に借りさせたり、私が「私には吃音があるので、研究に関係ない雑務はなるべく他の人に回して」と相談すると、「頑張る障害者を見ると感動する!」と言って却って雑務を増やしてきたりと、問題の多い教授であった。

結局、私はO大学の学生とは全員疎遠になってしまった。楽しい思い出は1つもない。すでにAさんを含め全員が准教授や助教になっているようである。みんな、学生時代はほど良く研究し、ほど良く遊んでいた。一方、あまり友達と仲良くなれなかったので研究しかすることがなく、研究業績だけなら同分野・同年代で全国1位だった時期もある私はいまだ就職できず、非常勤講師のわずかな収入と、貯金の取り崩しで生活している。これが現実だなと思った。

感想1

経験談を読ませていただきました。

私が最初に感じたのは、描写が具体的で詳細に書かれていて、記憶力に長けている方なのではないかということでした。嫌な経験は特に覚えているということなのかもしれませんが、記憶が鮮明なように感じたので、これだけ鮮明だと嫌な感情も抜けることなく蓄積され続けているのではないかと想像しました。

そして、大学生活でも家庭でも、他者から誤解されたり敵視されるような経験を重ねていることが伝わってきました。投稿者さんの語りを通して見える他者の言動が、私には極端に見える場面もいくつかあり、なぜ投稿者さんが誤解されたり敵視されるのか、投稿者さんから見えていることと他者から見えていることに違いがあるのだろうかなど色々想像してみましたが、両方の話を聞いていない私にはわかりませんでした。

また、私は、片方の話だけで投稿者さんから見た事実に聞く耳を持たない教授に対し、両方の話を吟味した上で解決方法を考えられなかったのかという疑問や、友達がいることを前提として課題を出す授業の在り方に疑問や理不尽さを感じ、大学に限ることではないと思いますが、社会の中では頭ごなしに決めつけられたり、1人ひとり個別に違うことなのに「当たり前」として要求されることがあり、それによって傷ついている人、何かを諦めざる得ない人がいて、その後の人生にも影響を与えていることを改めて考える機会となりました。

経験談の投稿ありがとうございました。

感想2
経験談を送ってくださりありがとうございます。

「これが現実」というところに至るまでを時系列で書いてくださっていました。
文章を読んで、投稿者さんは言語的な表現に忠実なる理解をする傾向の強くて、厳密な方なのかなと思いました。とくに「15組くらいのクラス」「少なくとも3度は遠慮し」など、数字をしっかり書かれていることが印象的でした。

「私は1人で外出の件以外では父を信頼していたので、「通学できる」とは「無理なく通学できる」という意味だと解釈しており」と書かれていましたが、個人的には信頼していることと、「通学できる」を「無理なく通学できる」だと解釈することは別ことこのような気もします。ここで書かれている「信頼」は、「自分のために最適なことを常にやってくれる」というような、身を預けるような感覚だったのかな?とも想像したのですが、これは想像にすぎません。
そこの間に投稿者さんのどのような思いや考えがあったのか、気になりました。

人それぞれ、コミュニケーションのやり方は違うものだと私は思いますが、その中でも自然と重視するものが違っていると、齟齬が起きやすいということがありそうです。
「ストーカーだ」という扱いを受けたり、ほかの人との関係がずれることには、投稿者さんと、投稿者さんが関わった人のコミュニケーションスタイルに違いがあったからなのかな?とも想像しました。

投稿者さんの大学生活でさまざまな投稿者さんにとって不本意と思うような事態があったのだと私は受けとりました。「これが現実」と最後に書いてありますが、そのことも不本意であったり、違和感があると感じていたりするのだろうかと想像しています。

大学生活について「楽しい思い出は1つもない」と書かれていましたが、投稿者さんが楽しいと感じることはたとえばどんなことでしょうか。それは人とのやり取りの中であってもいいですが、そうではなくて、自分一人のことでも、たとえば研究の中であっても構わないと思います。必ずしも楽しまなければいけないこともないとも感じますが、楽しみが生活のモチベーションにつながるなら、今の自分の生活の中で充実している時間を探してみるのも一つのやり方かもしれないと思いました。

返信

ご感想をくださりありがとうございます。そうですね、私は自身の体験を何十年経っても鮮明に覚えているタイプなので、不幸な出来事の記憶は蓄積される一方です。私に降りかかった出来事について、これまで他の人に話したことはありましたが、二次被害を受けることが多かったので、このような場は貴重であると考えます。

通学の件に関しては、父が高校教諭であったこと、パターナリスティックであったこと、元々私が体力に恵まれていなかったこと、無理はしたくないと伝えていたことなどから、仰る通り、父は私にとって適切な案を提示してくれていると信じていました。私が合格してから「O大学なら何とか通学できると思った」と、「何とか」という副詞が初めて登場しました。合格前に聞いていたら時刻表をきちんと調べていたでしょうし、同じ学科がある大学の中で一番近いのがO大学だったので、どのみち下宿するなら思い切って東京の大学を選んでいたでしょう。入学直後に休学していなければ、双方タメ口の友達くらいはできていたでしょうし、わざわざ途中で部屋を大学近辺に変えてこのようなトラブルに巻き込まれることもなかったでしょう。1年の休学がここまで尾を引くのか、という思いです。

私は無神経に踏み込むような性格ではありません。忙しいかもと思って友達に話しかけるのを遠慮したら、別の学生がその子に話しかけて2人で盛り上がったり、「これを言ったら気を悪くするかも」と躊躇していたら、別の学生がそれを言って盛り上がったりと、逆に空気を読みすぎて損をする方でした。私は頼み事を断ったことは一度もありませんが、私の誘いはご飯さえ断られてばかりでした。修士1年の時にLINEが爆発的に普及しましたが、いつの間にか私以外の友達はみんな繋がっていました。年度末に卒業パーティーで修士1年全員が会場設営をしたのですが、幹事と最後に繋がったのが私でした。どれくらい仲良くなったら、どのようなシチュエーションなら「LINE交換しよ!」と言って良いのかが今でもさっぱり分かりません。もし学部の入学年度の違いが原因ではないとしたら、どうしてこんなにうまくいかないのか本当に分かりません。

私が友達関係で苦労していることはX教授も知っていましたが、公正世界仮説でしょうか、全面的に私の性格の問題だと決めつけていました。それゆえ前述のようなストーリーがX教授の頭の中で勝手にできあがってしまったようです。Aさんの方から私生活に関する話を振ってきたことは何度もある一方で(「あなたの部屋の玄関ドアが結露している。笑いを堪えるのに必死だ」など)、私の方から振ったことはないのに、X教授は私を半ば加害者扱いしており、何を言っても通じませんでした。また、近年アカデミアでは女性研究者を支援するという流れがあり、O大学もAさんを大学紹介動画に出演させるなど、Aさんを広告塔にしようとしていたので、大学として何が何でもAさんの味方をするという方針だったのかも知れません。Aさんは研究科の中での中心的存在であり、休日に学舎に入るための暗証番号(学生は公式には大学から教えてもらえない)を知っているなど情報通でもあったので、Aさんと仲が悪いと大学生活にも支障が出てくる状況でした。Aさんも私の足元を見ており、男性の教員はAさんとの距離を縮めることを競い合っている感じだったので、態度を180度変えても通る、X教授も味方になってくれると踏んだのでしょう。そして完全にAさんの思い通りになってしまった。本当に悔しいです。

大学院は縦社会である上、個々の研究室の独立性が高いので、他の教員に相談したとしても「指導教員には従うべきだ」と言われそうな雰囲気でした。また、最近の若者は目上の人や権力に従順だと言われますが、同級生もまさにそのような感じでしたし、みんな私なんかよりも研究科の中心的存在であるAさんに味方するだろうなぁとも思いました。Aさんの指導教員を含め、ほとんどの研究室でハラスメントに近いことが起こっていましたが、NOと言う学生は誰もおらず、順応して生き抜くことを是としていました。「X教授はあなたよりも30歳以上年上ですよね? だからあなたの方が折れないと……」と真顔で言われたこともあります。このような環境にいると、声を上げる方が我慢が足りない人、イタい人なのではないか? と洗脳されそうになってきます。そういう同級生も、後輩が研究室に入ってくると彼らから搾取を始めたので五十歩百歩です。結果として、学位取得まで誰にも相談できませんでした。

記憶にある限り小学生の時点ですでに学者になりたいと思っていましたが、私だって普通に複数人でワイワイしたいですし、いくら何でも研究さえできれば一人でも良いとは思いません。2度目の引っ越しだって宅飲みなどを期待して実行したわけです。その結果が3度目の引っ越しの強要であり、結局大学に(休学期間の1年を含めず)9年通って、休日に友達と遊びに行った回数も、私の部屋に遊びに来てもらった回数も、逆に友達の部屋に遊びに行った回数も、すべて0回でした。大学生らしき隣の住人が深夜まで宅飲みをしていたりすると、うるさいやら羨ましいやら、この上なく不愉快です。

少なくとも私の分野では、大学教員の採用で海外への留学や長期滞在の経験が重視される傾向が近年強まっています。私も以前は海外にも多少は興味があったのですが、Aさんに学生マンションを追い出されてからは、とてもそれどころではなくなってしまいました。元々自宅通学で行きたかった大学に通い続けるために3度も引っ越しを重ねており、しかもそこまで苦労したのに結局学内でうまくいかなかったわけですから、更に海外なんてとんでもないです。海外でトラブルに遭っても、それを話せる人がおらず、一人で抱え込まなければならない不幸な出来事が余計に増えるのがオチでしょう。そこには海外経験を「一定の苦労に耐えた証」と見なすという考え方もあるのだと思いますが、それなら私の引っ越し3連発も一定の苦労としてカウントしてくれよと思いました。学生マンションの「リターンを期待して、本当は嫌なこと(引っ越し・一人暮らし)を無理して前向きに実行し、却って損をする」という凄絶な失敗経験の影響で、海外に限らず、新しいチャレンジが非常にやりにくくなってしまいました。また、大学教員はコネ社会であり、応募の際は推薦書や、応募者の業績を評価できる人の連絡先を添えなければならないことがほとんどで、それは指導教員の連絡先を書かせてもらうのが普通とされているのですが、私はそれもできなくなってしまいました。このような事情もあるので、無理してX教授と付き合い続けようと思ったこともありましたが、X教授からは、研究集会への参加を取り止めさせられるという、研究に対する直接的な妨害があった訳ですから本末転倒でした。

私の味方や力になってくれる先生は他大学に何人かいるのですが、お互いに励まし合ったりできる、年齢や立場が近い人が一人もいないのは非常に辛いものです。これまでも何も楽しみがない中、一人でコツコツと勉強・研究を続けてきたわけですが、就職は極めて不利な状況ですし、このモチベーションがいつまで続くか分かりません。