迷惑はかけず、目立たぬ様に、ひっそりと

大阪府 40代 女性


障碍について調べようと「障碍者」などとウッカリ検索しようものなら「障害者 偉そう」「障害者 迷惑」などと検索エンジンのヒット項目に出てきたりします。
以前までは有名サイトであっても
「迷惑な存在だから消えて」「税金が無駄なだけ」など目を覆いたくなる様な書き込みでも平然と放置されていました。最近ようやく極端な内容は削除される様になりましたが、「障害者が嫌いですがダメですか?」「障害者ってなぜやってもらって当たり前なんですか?」くらいなら有名質問サイトでさえ未だに放置されていてたくさんイイねが付いています。
要は、障碍があると迷惑をかけぬ様に遠慮しながら生きる事を求められるのが今の日本です。

一部、やってもらって当たり前な態度の障碍者がいたとすると、連帯責任でみんな偉そうな障害者にされます。
一部で発達障害者が迷惑行為や犯罪行為をしてしまうと、発達障害者は犯罪者予備軍だと言われるのです。
障碍者は不要だと施設で大量殺人が起きても、SNSには「犯人の気持ちもわかる」と多数のコメントが書き込まれるのです。

息子は軽度の障碍があります。母である以上、少しだけでも幸せでいてほしいと努力し続けて来ましたが、障碍を理由に断られ、傷つけられ、諦めるばかりの人生です。
もうこれ以上傷つくのに耐えられそうにありません。できる事なら、死にたいなんて考えたくないのになぁ

感想1

投稿ありがとうございます。

投稿者さんはこれまでに「障害だから」「障害者なんだから」という理由によるさまざまな偏見を目の当たりにしてきたのだろうと思います。読ませていただく中で、この世の中では「しょうがい」という言葉でひとくくりにするのがむずかしいものを、便宜上仕方なく、ひとくくりにしていることがとても多いのかもしれないと思いました。(本来、すべての人は一言で表すだけでは、表しきれないとても複雑で多様な存在だと思います)

また、読んでいて、迷惑や無駄というものを嫌う生活者の感覚に余裕のなさを感じました。私は迷惑を気軽に掛け合えることや、無駄かもしれないことに時間を使えることのほうが、豊かで自然なのではないかと感じます。でも、それを十分に経験する機会もなく生きている人が多くいるということであれば、人が人を大切にできない気持ちになってしまうことも必然的なことのようにも思えてきました。

そして、どうしたら迷惑や無駄を当たり前のこととしていられる社会になっていくのだろう、と考え込んでしまいました。

個人的な話をすると、私も、日本での定義上の障害者です。そして、障害に起因することで人を困らせることも多くあります。でも、私は「申し訳ない」「自分は悪い」と思いながらではなく生きていたいと思っています。また、それは「しょうがい」の有無や程度によらず、すべての人がそうであって当然のことだと思っています。

「少しだけでも幸せでいてほしい」という願いが書かれていました。私は社会的な評価はその人の幸せに必ず直結するというものではないと感じています。ただ評価的な眼差しから距離を置くことがむずかしいと、つらくなりそうです。

息子さんの幸せを願っている立場で、周りから勝手に判断されることが続くと、それを無視し続けているのはむずかしそうだと感じましたし、傷つくことも多いのだろうと思いました。

社会とは関係なく、投稿者さん自身、そして息子さんのそれぞれがゆっくり過ごせる場所やぼんやり肩の力を抜いていられる時間はありますか?たとえば、ごはんを食べているときとか、空を見上げたとき、風を感じているとき、好きな椅子に座っているときなど…。それはご自身と息子さんの二人にとって、同じものもあるかもしれないですし、まったく違うかもしれないとも思いました。

もしそのように、評価的な言葉や視線から離れて、すこしでも落ち着けるところがあるのならいいな、と勝手ながら思いました。

感想2

私は、世の中の様々なところで、障がいの有無にかかわらず、「迷惑をかけぬ様に遠慮しながら生きる事」を賛美する風潮があると感じます。そうした風潮から「遠慮の押し付け合い」になり、結果として、障がいのある人や子どもなどに、そのしわ寄せが行っているのではないだろうかと考えました。

何らかの要因で、人を一人の人間として見ることや、障がいを自分たちのこととして捉えることができなくなるとき、「障がいのある人」という括りで、かつ自分には関係ない誰かの話であるかのようなイメージを持ってしまうことから、差別的な言葉が出てくることがあるのだろうかと考えました。

私は、障がいは本人や家族が努力して何とかするべきものではなく、それぞれの人が生きていく環境をより安全で快適で楽しみのあるものにする工夫が、全ての人に必要なのだろうと思います。それは障がいのある人や子どもだけでなく、自分自身が生きやすくなる環境の模索になるだろうし、まずはそこから始まることも多いのかもしれないとも思います。それでも他者の不幸を無視していては、自分自身の幸せも成り立たないのだろうと思います。

あなたの中で、身近な人が権利を軽んじられているのを目の当たりにしたときの悲しみや怒りなどの感情があり、それが積み重なって諦めになり、死にたい気持ちになっていったのかなと想像しました。そして「少しだけでも幸せでいてほしい」との息子さんへの気持ちを書かれていました。私は、あなたにも幸せな時間があってほしいなぁと思いました。

インターネットによって多くの人が気軽に情報交換できる時代になりましたが、その使い方やリスクを学ぶ機会がほとんどないまま「なんとなく押してみた」「みんなの真似で書き込んでみた」ということが連鎖反応的に起き、大きな権利侵害に繋がることがあるのではないかと考えさせられました。たとえ「そんなつもり」がなくても、誰かの権利や存在を認めないような言論は許されるべきでないと思います。

この「死にトリ」でも、ネット上で色々な人が関わり、コミュニケーションする機会を試しているのですが、その中でお互いにできるだけ傷つけ合わなくて済む方法を学んでいるところだと思っています。それはリアルな人との関わりにも活かせることがあるかもしれません。

ネットでもリアルでもいいので、あなたが傷つくことが少なく、あまり不安を感じずに、何かの経験(話す、読む、食べる、作る、歩くなど…)を共有できるような人との関係が見つかり、いま心に伸し掛かっているものが軽くなるといいなぁと思いました。

返信

私の書き込みをじっくり読んで丁寧に感想を書いてくださってありがとうございます。

たしかに、差別が起きていそうなサイトには近づかない様にするのが一番の自衛策だと私も感じており、そう言う会話がありそうなサイトは近づかない様にしています。
それでもネットを利用する以上は、何かの拍子で目に入って来る事が多々あります。
ネットニュースに自動的に表示される読者コメントだったり。知恵袋サイトで調べ事をするため「障がい者」と検索入力しただけで「障がい者 いらない」「障がい者 嫌い」と、上位検索ワードの予測として自動表示され、意図せず目に飛び混んで来たりします。
当事者だからこそ過敏になってしまっているのかも知れません。気にしない様になりたいのですが、日常で実際体験する事とネットの差別的書き込みとがリンクして、「世間はみなこう思っているんだろうな…」と言う思いに囚われてしまっています。

昔から私自身は、障碍のある方に対して差別的感情を抱く事がなかったので、我が子を育てる中で受けた心無い言葉や無意識の差別を目の当たりにし、それが世間に溢れている事を痛烈に思い知り非常にショックを受けました。
私が信じていた「自分で選べない状況にある人を差別しない」と言う教えが覆される様な思いでした。
例えばそれは、教師までをも指導する立場にある学校長からであったり、私と同じ子育てをする母親たちからであったり、時には同じ障碍のある子を持つ親からであったりしました。
彼らの多くはご指摘のとおり「自分はそうはなり得ない」「自分は当てはまらない」と思い込んでいます。なんなら差別をしているとも感じておらず無自覚です。中には親切のつもりで言っている人さえいます。
長年の経験から、目立たぬ様に迷惑かけぬ様にと暮らして来ましたが、社会と関わり人と関わる以上避けられず、主に学校などで大きな問題に数年に一度直面します。
その度毎回、話し合ったり決して無理の無い範囲での理解を求めたりして来ましたが、それにも正直疲れてしまった自分がいます。
それほど、無自覚な人や無理解な人に理解してもらう事は非常に労力が要ります。それでも理解してもらえない事の方が大半です。
そんな時は「子供が社会に出ればもっと理不尽な事が待っているに違いない。」「直接の差別からは今まで守って来たが、いつまで守ってやれるだろうか。」「親がいなくなった後は?」と、不安にかられてしまいます。
それを少しでも解決したくて調べもののために開いたネットで再び差別を目にする…と言う無限の様な繰り返しです。

長年社会問題になっているイジメや誹謗中傷も、個人への攻撃に対する取締は厳しくなって来ましたが、年齢や出身地や障碍の有無などと、自分と立場が違う人達を一括で否定する様な差別はまだまだ放置されています。
ネットでも日常でも、そう言ったマウンティングや差別を繰り返す人は、自身のコンプレックスの裏返しだったり、自分の自尊心を保つ為に無意識でしている事もあるとは頭ではわかっているのですが、そう言う人々のウサ晴らしの標的になる障碍者などの弱者は、どこに希望を持てば良いんだろう。
悪い事などしていないのに理不尽な差別を受け、なぜ人々の目を避ける様に日々過剰なほど気を使い、ネットにさえ遠慮しなければならないのだろう、なぜ誰かがやらかしたら連帯責任で罵られなければならないのだろう…と、怒りや悲しみや諦めと言った感情でグチャグチャになる事があります。
それでも、こうして話を聞いてくださったり相談に乗ってくれる場があるのでどうにかやってこれました。二つの優しい感想文に少しですが泣きました。
長々と書き込んでしまいすみません。
私達親子を気遣ってくださりありがとうございました。