愛されたくて、満たされない心

20代・男性


私が死にたい気持ちを抱えるようになったのは、8年ほど前大学生になったばかりの頃です。今でもふとした瞬間に溢れ出してきて、辛い時があります。幸い仕事や生活には支障なくでいられていますが、体は動ける状態なだけに、ふらっと飛び降りたくなる時もあります。この気持ちは一生背負っていかなくてはいけないのだろうから、やっぱり先が思いやられます。死んだら楽になれると思うと惹かれるときがあります。具体的な方法は考えているものの、1回も実行できていません。諦めきれないことがあるのでしょうか。


死にたい気持ちがどこからきているのかはっきりとは分かりませんが、自分が愛されていないように感じてしまう時があります。もちろん自分もずっと自分のことが嫌いでした。だから愛されるように勉強も部活動も頑張ってきたけれど、やはり物足りなく思ってしまうのです。上手くいったときはまだ足りないと思い、失敗した時は自分を責め立てて、満足することはありませんでした。周りは褒めてくれるから、それが快感になって頑張り大学受験までは上手くいったけれど、そこからは頑張れなくなってしまいました。骨折したような状態でその内くっつきはするけど、ちょっとしたことで折れてしまいます。頑張らないといけないのに、気力がなくなってしまった時は本当に死んでしまいたいと思います。今はちょっと先まで生きてみようと思って、無理矢理延命している状態です。


家庭環境は外面はいいように見えますが、酷いものでした。
父親は外では良い顔をして、家では逃げの姿勢が顕著で、都合が悪くなると押さえつけられて話になりません。何かして欲しいことがあっても嫌な顔をすることがほとんどで、取り合ってさえくれない時もありました。しまいには不倫していたことを母親から聞かされ、本当にどうしようもない人です。
母親は専業主婦で父親が育児に参加しない分、ずっと子供3人の面倒を見ていました。たまに父親や親戚の愚痴をこぼしていて、愛想笑いしか出来なくて凄く嫌な時間でした。父親と別れたいとずっと口にしていましたが、結局今まで離婚せずに暮らしています。それが自分には全然理解できませんでした。
兄は凄く気難しい性格で、自分の思い通りにいかないと機嫌が悪くなります。ゲームをしていても私が勝ったりすると雰囲気が悪くなるので、わざと負けたりしたこともあります。もう10年以上口を聞いてないくらい関係は悪くて、お互い他人のような感じです。
妹は周りからちやほやされて、優遇されていると感じることもありました。小学4年生からいじめで不登校になって、そこから転校を繰り返していましたが、今も外に出て暮らすのが難しい状態です。不登校になってから母親はずっと面倒見るようになって、遠い学校に送迎したりして不在になることも多くなりました。その辺りから家全体が緊張感で溢れていて、全然休まる場所とはいえなくなりました。ちょうど同じくらいの時期に自分もいじめられることがあったのですが、相談できる相手がいなくて辛かったです。

こんな家庭で生きてきて自分の居場所がないとか、満たされないと感じることがあってその時が凄く辛いです。しかもどうしようもないから、もう満たされる事はないのかと思って死んでしまいたいと思うのかもしれません。本当に生きる気力が底をついてしまったら幸せな気持ちで飛び降りれるかもしれないですね。

感想1

経験談を書いてくださり、ありがとうございます。文体から、客観視しようとして書かれているような印象を持ち、ご自身の心境や周りの人との関係について整理しながら考えたい気持ちがあったのかなと想像しながら読ませてもらいました。

死に惹かれてしまうと書かれていて、本当に一番望んでいることではなくても自分が惹きつけられるものってあるなと思いました。死は望んでも望まなくてもいつか迎えることがはっきりしているので、あなたにとって分かりやすい道標のようなものになっているのだろうかと考えました。

あなたの生きてきた家庭環境について読み、父と母の間でも、親と子の間でも、不自然な関係があったのだろうと思いました。親と子の立場が逆転している(子が親の面倒を見る)こともあったのかなと想像しました。それが何年も続くと、なぜこの人たちと関わっているのか疑問に思うようになりそうだなと思いました。

「愛されたくて、満たされない心」というタイトルですが、私は、あなたが求めてきたものは、特定の誰かに愛されることや、大勢の人に愛されること、というよりも、自分で自分を愛することと言った方が近いのだろうかと考えました。でも、あなたの思う「自分が愛してもいい自分」像には条件が設けられていて、それは敢えてクリアできないものになっている(している)ということなのかなと解釈しました。もしクリアしてしまったら、自分に更なる努力を強いる必要がなくなり、それは、(努力することを生きるモチベーションにしていたら)生きるモチベーションを失うことを意味するので、クリアできない条件を自分に課すことが必要だったのではないかと推察しました。
一方で、自分で自分を愛することは、自分一人だけでは始まりも完結もしないことだろうと私は思います。

あなたの「満たされない」感覚について、また機会があれば一緒にもうすこし深めてみたいと思いました。それは何によってどのように満たされるのだろうか…と気になっています。
死にトリには、経験談の他にも色々な参加の機会があるので、その中で何かヒントが見つかることがあればなと思いました。

感想2

死にたい気持ちと、その後ろ側にあるご自身のエピソードを教えてくださり、ありがとうございます。
愛される(そして、それを感じていられる)ためには、さまざまな努力が必要だったと書かれていました。「もちろん自分もずっと自分のことが嫌いでした」と書かれていたので、努力は、自分自身に愛されるためにも必要なことだったのかな?と想像しました。
そして、実際にはうまくいっても「物足りなく思」い、タイトルのように「満たされない心」がずっとあったのかなと思います。

そう考えてみると、満たされるとはどういうことなのだろうと気になりました。
人といういきものには、さまざまなレベルでの「満たされる」があるように思います。まずは睡眠。それから水分、食べものや栄養。そういえば、人はなにかを感じているその感覚が不十分なときには、感覚を求める行動をすることもあるようです。それから、この文章に書かれている「愛」についても、たしかに満たされる/満たされないということ表現をよく見かけるように思います。

しかし、愛とはどういうものなのかというと、すこしむずかしい感じがします。私はよく愛のなんたるかを考え込んでしまいます。
愛とは、なにか否応なしというか、条件のつけようのない肯定のようなもの、にも思えます。この説にもあまり自信はないので感覚と違ったら申し訳ないのですが、仮にそうだとしてみると、努力しないと他者からも自分からも肯定されない、と感じるような状況だったのだろうかと思いました。

家庭の中で関わる人たちのことが書かれていましたが、そのだれにもあまり余裕がないような感じを受けました。余裕がないときには、視野が狭くなってしまうことがあるだろうし、自分のことでいっぱいいっぱいになってしまうと、他の人(子どもやきょうだいも含めて)にちゃんと目を向けることも肯定的に関わることもできないまま時間が過ぎていくこともあるかもしれないと思いました。でも余裕ってどういうものかわかりづらいし、持とうとしたらいつでも持てるというものでもないのかもしれないとも思いました。

また、いまの社会では資本主義を前提にした個人主義的な価値観や、価値を生み出すことへの偏重傾向がかなり見られると、私は思っています。
それの中で努力すれば報われると教えられても、本当にそうなのかはわからないし、いつまで努力したら報われることになるのかもよくわからないと感じます。

そうではなく、いま、ふっと体の力を抜いて、のんびりしてみることも大切なのかな?と思ったりもします。これは比喩というより、実際の体の話でもあって、体が安らいでいなければ感覚的に不快になることも多いと思うからです。
最初の方で「満たされる」ということについて、体のレベルから心のレベルまで書いてみましたが、心というのも結局は体なのではないかという気がします。心というよく見えないものの前提にある、確実にそこに存在している投稿者さんの体が休まって、心地よく感じられる時間があることを願います。

「生きる気力が底をついてしまったら」と書かれていましたが、生きる気力はそういう時間によって充電される部分もあるのではないかと思いました。

感想1への返信

自分にとって家は安心できる場所ではなくなっていました。現実逃避のために勉強や部活に打ち込んでいた部分もあったと思います。負の感情を活力にしていた節もあります。

自分が愛しても良い自分像がクリアできない設定にしている、というところは面白い視点だと思いました。生存本能として強くいなければいけなかったり、欠点を直す・ミスをなくすことを意識してたりしてきたので、永遠に完成しないですね。テストの点数を取ることに熱中していたことを思い出しました。今も何かと人と比べてしまって、落ち込むこともあります。

なので心が満たされる状況の一つは、素の自分が許されることなのかなと思います。ずっと心の安全基地と呼べるものがなかったので、特にそう思います。

感想2への返信

愛されたいと表現しましたが、自分もよくわかっていないです。生まれつき反応が薄い子供だったと聞いていて、人よりも愛情を感じにくい環境で育ったのも合わさって、愛情がうまく受け取れないのかもしれません。
そんなに裕福な家庭でもなかったので、夜中にお腹を空かせても我慢したこともあります。
今思い返せば、無条件の愛情を与えられてなかったと感じます。その反動で愛情に飢えているのかもしれません。
また、家族の間でも素の自分を出せずに仮面を被ってきたことが、人間関係を難しくしているのだと思っています。

今までは母親が正しくて、父親や他の人が間違っているのだと信じてた(信じるしかなかった)ところがありますが、ふとそれすら間違っている気がしてきました。色々と間違った親子関係から解放されれば、やっと自由になれるかもしれません。
今まで無駄だと、間違っていると思って切り捨ててきたものを、純粋に楽しめるようになりたいです。