自分を忘れた人生

岡山県・47歳・女性


40半ばになる私の生きづらさは、幼い頃から自分を押し殺し母のため、家のため、みんなのためにいい子でい続け、自分が本当にしたかったこと、本当に行きたかった場所を諦め続けてきたことによると思っています。

私は傍目には何が変わったわけでもない、むしろ温かい普通の家に育ちましたが、今思えば両親の不仲、宗教上の問題、代々の家系による必要以上の要求の高さ(東大以外は大学ではない、優秀でないといけない)など不自然な環境でした。
両親は私が20代に入ってから離婚しましたが、それ自体はつらいと思ったことはありません。
それよりもそのような環境のなかで「いい子」でい続けた私にとって、唯一大きく環境を変えられる可能性のあった就職期を、就職氷河期のなか過ごしたことはとてもつらく、その後の私の人生に大きな影響を与えたと思います。この就職氷河期に周囲に蔓延していた「自己責任」という言葉は、それまで「いい子」を通してきた私にさらに追い討ちをかけ、自分の逃げ場をなくさせていたと思います。職業選択に迷いながらも精一杯働いたつもりですが、30代半ばでうつ病になり、家のことと自分のうつ病とで、気がつけばキャリアを失いました。
うつ病の治療も11年目を迎え、症状は落ち着いているのではないかと思いますが日々の生活が精一杯です。
いまは70代病後の母と二人、生活をしています。
一昨年祖母が他界し、母に代わって相続の手続きなどを続けてきました。我が家では長女である私が「めんどうなこと」を引き受けるのが当たり前で、私はいまだに「いい子」を続けているのかもしれません。
常に目の前のことに必死で、自分を後回しにし、その結果いま40代半ばでキャリアを失い、残された資産で暮らしています。「資産」といえば聞こえはいいですが大した額でもありません。このまま時間だけが経ち、母もいずれ亡くなり、自分が一人経済的な余裕もなくこの世に残されるのかと想像します。いままで一体何のために、自分をすり減らしてまで頑張ってきたのだろう、なんのために。
人はやはり自分自身であることを諦めてはいけないのだろうと、いま心から思うことです。
歳をとっても自分自身でいることはできますが、若い頃、いきたかった場所にいくこと、したかったことをすること、必要なものを多少わがままでも手に取ること、それがあって初めて人はその幸運を力にし生きていくことができるのではないでしょうか。その機会を失い、歳をとり、いま私にできることはなんだろう。

母に迷惑かけたくはありませんが、はやく消えたいと思います。

感想1

経験談の投稿ありがとうございます。

傍目からは分かりづらくても、その中で暮らす当事者が不自然だと感じるなら、それは苦しいと感じて当然だったのだと私は思います。
また、家の中で求められる「いい子」と、就職氷河期の中で加速する「自己責任」の価値観はどちらも投稿者さんに必要以上のつらさや重荷を押し付けるものだったと言えるかもしれません。
自分の体や心に必要なことと、生きていく中で要請されることのギャップが大きいと、さまざまなことが手一杯になってしまうこともあると思います。

「自分を後回しにし」てきた、と書かれていましたが、その「自分」はいまどうしているだろう?と想像しました。
そしてまた書かれているように「いま私にできることはなんだろう」と、途方に暮れたような気持ちなのかもしれない、と思います。
私自身の経験からは、疲れているときや落ち着けないでいるときには、なにをしたらいいかわからないことや、自分の感覚が見つけづらいこともありそうだと感じます。

これは私の個人的な思いでしかないのですが、投稿者さんが、一日でも、数時間でもゆっくりくつろげる時間があるといいなと思いました。
たとえば、落ち着く匂いや手触りや、景色、音楽など、ゆったりできるものに触れられるといいのかもしれません。おいしいものをじっくりと味わうのもいいかもしれません。私は最近ほうれん草のおひたしがおいしいことに改めて気づきました。

もちろん、それだけではお金の問題や、生きていくのに必要なさまざまな問題はおそらく解決されないままで、それでくつろぐというのもむずかしいかもしれないと思います。
ずっと自分の感覚からずれずに日々過ごしていくのは、困難を伴う場合もありそうです。
でも、お節介だとは思うのですが、日々目の前のことに取り組んできた実感の中で「自分自身であることを諦めてはいけないのだろう」と考えている投稿者さんに、自分自身の穏やかな感覚をもっていられる時間があることを、願わずにはいられません。

感想2

自ら望んで「いい子」でい続けたわけでもないのに、「自己責任」で片付けられてしまったり、気づけば自分自身を追い詰めてもいた。また自分を後回しにする「諦め」を選択し続けたことへの後悔もあって生きづらさに拍車をかけているのだろう、と思いました。

「人はやはり自分自身であることを諦めてはいけない」とおっしゃっていて、私は投稿者さんが諦めてきたことやどんな自分自身になりたいのか知りたいと思いました。
ところが、「いま私にできることは~はやく消えたい」と結ばれていて、歳をとり機会を失った今は諦めるしかない、と思っているように読めました。

とはいえ、投稿者さんはご自分の人生を俯瞰して、この境地に至ったのでしょう。一方で、もしあの時諦めていなかったら、いい子でい続けなかったら、という問いも生き続けているのかも知れないと想像しました。これは私の独断なので、間違いや失礼なことを書いているのかも知れません。

「長女なので面倒を引き受けるのが当たり前」ということに疑問を持つことすら諦めてきたから、いま生きづらいことになっている、という読み方もあるのかなと思ったのです。

自分を忘れてしまうほど、みんなのために生きてきた投稿者さんですから、きっと誰かのせいにしたり何かを悪者にして自分の身を守ろうとは思わなかったのかも知れない、と私は想像したのです。全てを自分のせいにして背負い込んで、自分に言い聞かせるようになってしまったのかも知れないという想像も浮かびました。

今これから自分自身でいることを実現するにはどんな方法があるのか、投稿者さんには自分で考えたり選んだりする自由がありますので、このサイトが何かのきっかけになれば嬉しいです。

返信

こんにちは。
投稿へのご感想ありがとうございました。
なんと言ったらいいか、どんな熟練した方々がこんな丁寧な読みとりと返信をおこなっておられるのだろう、と心の底から感じるような、感想をいただきありがたく思います。
こんなふうに深く丁寧に、誰かに自分の話を聞いてもらったことがあるだろうかと思わず自問しました。深く丁寧に耳をすませてもらう、というのはなんと心地よく温かい行為なんだろうと実感します。

お二方がともに、私が「諦めてきた自分」について「知りたい」「どんなものなのだろう」とお書きくださったことに、まず心が揺れました。そんなもの、自分すらわからなくなっているような無価値なものを、誰かが関心をもってくださるなんて。
いやけれどもほんとうは私自身、忘れたことなど一日もないのだと思います。願って叶わなかったこと、「いい子」でいるために言葉にすらしなかったこと、「自己責任」と責められるから逃げることが叶わなかったもの。それらのことを私自身は何一つ忘れず、一日たりとも忘れたことなどなく、歳をとりました。
感想にお書きくださったとおり、なんの理由であれ歳をとってしまった自分には諦めるほかない、諦めが明確な喪失に変わったような、そんな気がしています。
もっとわがままに生きてきてもきっと、役割の変化のなかで目的意識や自分を保ち続けるのが難しい時期を中年の危機と呼ぶのでしょうが、私はそこに「いい子」でいるために手放したさまざまな可能性を重ねてしまい、中年の危機とはこういうことをいうのか、とも思います。
いまさらですが私が生きてみたかった自分は
都会で暮らすこと
好きな文学や美術を学んで仕事とすること
派手ではなくとも着実なキャリアを重ねること(できれば都会のなかで)
母親になること
外国で暮らしてみること
何にもとらわれずここではないどこかで、自由にただ自分として苦しんだり笑ったりしていることでした。

「自分自身であることを諦めてはいけない」と自分に言い聞かせるように書きましたが、それは私自身の実感というよりは、いまの自分への宿題のようで、課題のようで、背筋を正すべき言葉として捉えています。
しかし感想のなかにお書きくださったとおりで、私はすでに「自分の何が心地よく何が快適で、どうしていたいか」が、ほぼわからなくなっています。なにか日々、やらなければならないことに追われたあとにポカンと空間が空いて「あれ。私、何してたっけな」と思うのです。

そしてまた、これもお書きくださったとおりに「あのとき諦めていなければ」とも心の奥で強く思います。「いい年をして、まだそんな諦めもつかないのか」と人様には言われそうですが、なぜあの時、家族を困らせてでも、母を困らせてでも、恋人を困らせてでも「私はこうしたい」と言えなかったのか、と思います。蓋をしてもしても折に触れカタカタと音が鳴るように、その蓋がときどき「あけて」と自分の心を叩いてきます。

お返事に「自分自身の穏やかな感覚を持っていられる時間があること」「自分自身でいることを実現する自由がある」とそれぞれの言葉で私を励ましてくださっているように感じました。
ありがとうございます。
死にたいと思いながらそれができず、こうしてお返事を書いている自分がいます。
このサイトの投稿、他の方々の投稿もときどき拝見します。そのたびに、その内容にもですが、今回私にくださったようなそれぞれへの感想に触れ、冒頭に書いたような「一体どんな経験をすれば、そしてそれをどのように整理すれば、一人一人の方々の心にこれほど寄り添う言葉を選ぶことができるんだろう」と毎回、ご感想の書き手の方々に感嘆の気持ちが湧いてきました。私も含め、こんな温かな聞き手がいればきっと、人生はもうすこし生きやすく色彩をもったものとなったろうと思います。
お書きくださったような「自分自身の感覚」や「自由」をまず私はじっくり探してみるしかないように思います。
長年放置していたので、感覚が答えてくれるかどうかわかりません。自分に自由があると、いまこの瞬間も驚きでいっぱいです。私には責任しかないと思っていました。

年をとるということはどういうことなのでしょう。
人生の半分以上を気がつけば何も手にせず生きてきたような自分に、ここからあらたに自分を知り、自分として生きることなどできるのでしょうか。
しかしそれでなければ、「自分であることを諦め」ないのでなければ、ただ存在するだけの自分もあまりに苦しいのです。
報われなくとも自分が誠実であればそれでいい、とだけ思って生きてきましたが、それはある意味で正しくある意味では決定的に間違いでした。報われたいし、ねぎらわれたいし、遠くに行きたいのです。いきたかったのです。

心の渇望するままに何かに手を伸ばすことが若い時代の方法であるなら、これから年をとり制約の多いなかで自分であろうとすることはまた違う方法を必要とすることでしょう。
それが「穏やかな感覚をもつ時間」であり、「選択や方法を考える自由」なのだろうと受け止めました。
そうありたいです。

ひとまずまだ生きています。
消えてしまいたいけれど生きているようです。
いただいた感想を何度も読み返しつつ、いまの私に与えられた時間と力とを、信じてみるしかないのかもしれません。

ご感想、ほんとうにありがとうございました。
これからも何度も読み返します。