無能は死ぬべき根拠と噓だらけの社会


私は無能です。無能に関するエピソードは千は余裕で超えるのでとりあえず無能さを紹介するなら勉強、運動共に常に学年最下位、医者からも匙を投げられる、好きな物やしたい事が何一つ無いという実績で充分だと思います。幼少の頃からいじめられその頃からずっと生きにくいと感じています。救いを信じていた物(心理学等)に対して万能ではないという事と無能は生きていてはいけない根拠をこの世の置き土産にしたいと思います。
カウンセラーや本などでよく言う常に素晴らしい必要はない、というのは微妙に嚙み合ってない気がします。私の場合は理想も何も無いですし、そもそもそこまで高望みが出来る程の能力はありません。例えるならプロの選手がオリンピックに出られなくて落ち込むのが”素晴らしい理想”とするなら私は大人なのに小学生レベル(今となってはそれすら怪しいですが)の頭脳と身体能力しかないような物です。そりゃ幼稚園児が小学生レベルの頭脳と身体能力を持っていれば神童と言われるかもしれませんが私は生憎幼稚園児ではありません。どこの誰がこんな無能を駒として使うでしょうか?同じレベルの人間ならもっと若い将来性のある人間がいくらでも居るのにわざわざコストと手間がかかる方を選ぶ人間がどこにいるでしょうか?素晴らしい必要はない、と言いますが現実的に食えるだけ稼げない時点で説得力は皆無です。こういう考えが通るのは能力が劣っている場合でも誤差の範囲に収まる場合だと思います。例えば100が満点で50が平均値だとするなら30くらいまでならセーフなのかもしれませんが私は1すらあるか怪しいです。結局世に溢れている誰かをサポートする考えは所詮持っている人の視点と理屈です。頂点に立てる程の能力は持っていなくとも一般的な及第点とか最低限度の生活が確保されている人の視点から見た物で本物の無能には当てはまらないのです。
統計学の正規分布の確率密度関数で考えるなら68–95–99.7則に沿って考えると分かりやすいと思います。そういうサポートはある程度の結果は一般的に出ているという事実から全体の人間の68%、95%、もしくは99.7%には有効なのかもしれません。ですが全員ではないのです。私は恐らくこの範囲に入らない、割合的には何十年か何百年に一人現れるかどうかという天才が出てくるのと似たような確率で生まれてしまった人間だと思います。0.3%(もしくはそれよりも少ない)なら確かに“ほぼ無い”でしょう、でも有り得ない訳ではないのです。にも関わらず断定的に発言するのは不用意に思えます。私には“宝くじ当たったから貴方も買いなよ”と言ってるのとそう変わらないように思えます。
世に溢れているサポートはそういう割合に収まる事が出来る人間に対する情報であって割合にして0.15%かそれ未満の、本物の無能には当てはまらないんです。とはいえ1%に満たない者のためにリソースを割くなんて非合理的ですし、そもそも住む世界が違うのだから理解出来ないでしょう。天才の言う事は常人には理解出来ないのと(経緯が違いますが)似てると思います。だから例えば心理学とかそう言った物に対して効果が無い、と文句を言う資格は無いと理解しています。似た割合で考えれば自動車事故にあうのは約1%で、飛行機事故に至っては0.001%未満ですが誰もそこを深刻に考え、自動車や飛行機に乗る人が激減した、という事例は無いです。だから無能の声は届かないのでしょう。
みんな辛いんだ、という励ましが一昔前流行りましたがあれが今ではお世辞にも良い励ましとは言えなくなり久しいですが、なら何故同じように“誰でも長所、魅力がある”だとか“価値がある”と根拠も無しに無責任に言えるのか、理解出来ません。最近何故こういう本当の無能を傷つけるような言葉が溢れているのか少し分かった気がします。断言しなければ私のような社会的弱者が納得しようとしないからでしょう。討論の世界だけでなく一般社会でも例えば内容が真っ赤な嘘でも厚かましく断定的に噓を並べる方が説得力があるように見えるのは往々にしてあるのだから社会的弱者は特にそうでしょう。弱りきっている状態の人には下手に考えさせる事を言うよりは嘘でも希望が見出せる事を言った方がまだマシな可能性があるからなんでしょうね(病は気からとも言いますから)。勿論それだけとは思いませんが、取り柄があろうが無かろうが、自己分析をしてそれを磨くというのはどっちにしても同じで、例えるなら性悪説と性善説の関係性にもよく似ていると思います。にも関わらず断言するのはその方が自分を変えなくて良いという感覚を残すためだと思います。もし何の価値もないから取り柄作れ、と言われればそれは暗に今までの自分を否定することになりますからね。
結局そういう発言は流した側にとって都合の良い内容なんだと思います。例えば価値が無い人間なんていないや他人は変えられない、というのはカウンセラー、自己啓発者等が流した偏った見方でしょう(認識療法などをするならそっちの方が都合が良いから)。前者は少なくとも私が居ますから“居ない”ではなく“ほぼ居ない”という表現の方が適切だと思いますし、後者は人間の人格というのは人間関係の中で形作られるのだから、人の影響を受けて変わっていくというのが心理学の常識だと聞いた事があります。故に正確には簡単に思ったようには変えられない、と言う方が理にかなっていると思います。細かいと言われればそれまでですが、簡単過ぎる言葉(特にそれが事実と反している事なら)は弊害をもたらします。現にこういう言葉が本来の意味を忘れ社会に蔓延しているのが何よりの証拠でしょう。例えば身勝手な行為や酷い場合は犯罪を犯す人達に文句を言おうものなら“他人は変えられない”という言葉で彼らの行動が正当化されるというのは珍しい事ではありません。
事実になるべく沿った上で昨今重要性が説かれているSDGsに倣って考えるなら、“無能でも生きていていい”、“何の長所もない人間も居る、けど長所は案外簡単に作れるかもしれない”という方がよっぽど希望を持てるのではないでしょうか?しかしそうは言わないでしょう、特に前者は。本当にこれがまかり通ってしまう社会なら誰も責任を取る必要のない堕落した社会になるのは火を見るよりも明らかです。つまり理想としてはその方が望ましいが正しい考え方ではないという事です。似た例で言うと公正世界信念ですね。社会にとっては必要な考えかもしれませんが正しい考えではないのです。
以上の事から無能の気持ちなんて分からん、お前の甘えだ、と言える社会の方が本当は望ましいでしょう。無能の数は少ない方が良いですから。だからこれを理解する必要はありません。そういう事実を頭の片隅にでも入れて欲しいと個人的には思いますがそれは身の程を弁えない身勝手な行為なのは自明の理なのでこれ以上は何も言えません。
確かに死にたくなる人が抱えている心の問題は思い込みの部分はあると思いますが、書いてきた通り合理的な考えを推進するなら無能は切り捨てられても仕方がないのです。多くの人間は自分の事で手一杯なのにごく一部の無能(全人口の1%未満という外れ値)を真に受けて対応するなんて理性的な行動とは言えません。それをカバーするだけのセーフティーネットも十全とはとても言い難く、実際は欠陥だらけと言われてもしょうがない部分すらあります。心の問題というのは本質的には目に見えない物ですが、無能は死すべしという不文律な法律(空気)は実体を持った悪意として無能を襲ってきます、それが精神的なのか肉体的なのか、もしくは経済的なのかはさておき現に被害はどうしても受けてしまうのです。この環境下で死にたくなる人に対して“落ち込む人の思い込み”だと断言されるのはどうも腑に落ちません。これこそ心に問題がある人がよく抱えている白黒思考そのものに思えます。その人の心と社会、どちらがより悪いかという話をしたいのではなく、事実に反している事を堂々と言えてしまうのは短期的に見たら良い事でも長期的に見たら本当に良い事なのかとても疑問に思えます。
ですが現に多くの人、特に社会的弱者でない人間はこういった事をほとんど考えない人が多く、一方的に弱者を追い詰めるような事を多く言います。やはり無能は生きていてはいけないのでしょう。願わくば自分自身含めて少しでも無能の数が少なくなる事を祈ります。

感想1
投稿していただきありがとうございます。

「無能は死すべしという不文律な法律(空気)は実体を持った悪意として無能を襲ってきます、それが精神的なのか肉体的なのか、もしくは経済的なのかはさておき現に被害はどうしても受けてしまうのです」と書かれていて、投稿者さんはこれまでのご自身の経験の中に、そのような「被害」が何度もあったのだろうと想像しました。
そして、そう言われる中で「そんなわけはない」「どうであっても自分には生きる権利がある」と主張し続けることは余計に苦しみを生んでしまうことだったのかもしれない、だからこそ、その「空気」を正しいと考えようとしているのかもしれない、と想像しました。(具体的には書かれていないので、もし違っていたらすみません)
もしそうであるならば、それは身を守るための手段だったのだろうと思います。

しかし、それでも実際のところは「無能は生きているべきではない」とは私は思いません。

まず無能という評価は、だれか(ときには自分自身)が決めたことに過ぎず、それは「そうだと思う人がいた」ということにしかならないと思います。
それはすべての評価について言えることで、「天才」という評価や、テストやなんらかの検査で優秀だと認められることですら、相対的なことでしかないと考えます。
私たち人間はすべてをわかるような全知全能の存在ではなく、おそらくこれまでの歴史の中にもそのような人は一人だっていなかっただろうと思います。
つまり、人はほとんどわからない中で、手探りかつ行き当たりばったりに仮の評価をしているにすぎないはずです。それを絶対視することがまかり通ることこそ、一番の問題ではないでしょうか。

たしかに、世の中では、なんらかの評価を絶対視する(してしまう)動きに出会うことがたしかに多くあります。あるいは評価をしているつもりはなくても、結果的になにかを不用意に排除してしまうこともあると思います。
たとえば死にトリも、インターネットが使えない人とはつながることがむずかしい、という事情を抱えています。それはインターネットという場にあることの良し悪し、その絶対的ではなさを表していると思います。
本来ではそのときに別のなにかが用意されているべきですが、それを数少ない人員の中でやり切ることは実情むずかしく、だからこそ他にも数多のやり方でつながる可能性が必要だと感じます。
そのためには、なにかを排除する考え方でなく、実情がそれに追いつかなかったとしても、それでもすべての存在を肯定する考え方から始めないといけないと思います。

「合理的な考えを推進するなら無能は切り捨てられても仕方がないのです」と書かれていましたが、私は評価という曖昧かつ不完全なもので人の存在意義を決めつけることには、異を唱えたいです。
合理的とは、現時点でわかっているというだけのほんの少しのことで可能性を殺すことではないはずです。
世界のほとんどのことはまだわからないことばかりで、人間にはいつまでもわからないままのこともきっと多くあるだろうと思います。歴史を鑑みるに人間は間違いばかりしていて、その時々の短絡的な「正解」を支持してしまうことの恐ろしさがあると思います。

しかし、やはり傷ついてきた人がそれを主張し続けることのむずかしさも、私自身の経験や死にトリのなかでさまざまな人の経験談を読ませてもらってきたことからも感じます。

「願わくば自分自身含めて少しでも無能の数が少なくなる事を祈ります」と書かれていました。
この言葉そのものには、私自身は賛同しかねるのですが、でもこれは「願わくば自分自身含めて少しでも〈苦しむ人や傷つけられる人〉の数が少なくなる事を祈ります」と言い換えられるのではないか、と思いました。
無能とみなされて苦しめられる人、謂れのないことで傷つけられる人が少なくなるには、その人たちがいなくなることではなく、その苦しみがなくなることが大切だと思います。
その苦しみの多くは、世の中の狭い常識や無理解によって生まれていると思います。
だからこそ、私は死にトリの活動を通して、微力であっても生きることの苦しさや、被害を受けることの途方もない苦しさを知る人たちと、対話し、そして発信を続けていきたいと感じています。

感想2

もし「死ぬべき根拠」があるとするなら、「生きていい根拠」もあると思うのですが、私にはどちらも見当たりません。

生きていいか死ぬべきか、という理念を問い始めると、人はつい、どちらが正しいのか決めたくなって、結論を出すための根拠を作りたくなるのかもしれない、と考えました。

でも本当は、理念に普遍的な正しさはなく、正しい理念を作り出そうとすることは無謀なことのように思えます。しかし、今の世の中で生きている私たちの多くは、その無謀なことを、無謀だと気づかず、当たり前のことのように、やろうとしているように思えてきます。

どうしてそんな大変そうなことをするのかな、と考えてみたところ、自分も周りの人も正しいと認めそうな基準に則っていれば、手っ取り早く安心できそうだから、なのかなぁと思いました。でも、自分や周りの人が正しいと認めそうな基準がいつ引っくり返るか分からないし、本当に正しいのかも分からない、という不安がついてきそうです。

また、画一的な生活や学習のスタイルを強いられがちな今の世の中では、自分の好きなことややりたいことを見出すのはかなり難しいことだと思います。なので、あなたが「理想も何も無いですし」というのは、おかしいことではないと思いました。

文章から、あなたは既存の考え方を疑い、問い直すことができるのだと思いました。それは、今の世の中で機能不全に陥っている、私たちが生活を営むための様々な制度や文化を脱構築していくのに不可欠なことだと思います。

たまたま少数派である要素を持った人の声が無視されることに、警告を鳴らしてくれている文章でもあると捉えています。どの要素を見るかによって、誰でもマイノリティにもマジョリティにもなるのではないかと思います。なので、私たちは、一方ではマイノリティとして声を広げようとし、他方ではマジョリティとしてマイノリティの声を聴こうとする努力をする必要があるのかなと思います。

弱っている人に対して「誰でも長所、魅力がある」「価値がある」などと断言するのはなぜか?という件では、世の中では弱っている人が見下されることがよくあるのだろうなと思いました(下等に見られるからこそ弱くなるのかもしれません)。断定的に考えを押し付けるのは、相手が自分なりに考えたり感じたりする自由を奪ってしまいそうだと思います。もし弱っている人が、思考や感覚が麻痺していて自分のことが分からない状態だとしても、他の人が断定的に考えを押し付けていいわけではなく、なるべく回復しやすい環境を用意することが必要なのではないかと考えます。

また、「簡単過ぎる言葉」の弊害は本当にたくさんあるなと思います。簡単な言葉であるほど、世に広まりやすいので、余計にそれが目立つのかなと思います。情報の拡散は、その影響力を自覚して行う必要がありそうです。私は、死にトリでも、言葉を吟味して使いたいと思います。

文章の終盤で「死にたくなる人に対して“落ち込む人の思い込み”だと断言されるのはどうも腑に落ちません。」とあり、そのように断言する人に多く出会ってこられたことは驚きました。世の中の現状やその構造的背景を観察・考察していく余裕や機会を得られない人が多いのだろうなと思いますし、考える機会や知る機会を得られないまま「思い込み」だと思い込んでしまう生活が豊かなものだとは思えません。

だからこそ、これからも死にトリで、考えを押し付け合うのではなく、自分なりに考えたり感じたりしたことを語り合い、できるだけ多様な人の生き様を知っていく機会を一緒につくりたいと思います。