優生思想は本当は正しいのかもしれない

30代


今から書くのは他人から言われた事がベースになっています。私自身は納得していますが私の思考で出した答えではない=考えられる力がある訳ではない、というのを念頭において読んで頂きたいです。

まず優生思想が正しいと思う人の多くは社会的に成功した人の割合が高いと聞きます。ですが私は逆です。自他共に認める救いようの無い無能です。自分のような存在は誰にとっても得にならない、なったとしてもコストと釣り合わない存在だからです。数えるのも億劫になるくらい生きていてはいけないと言われましたしもっとキツイ事も言われましたからまず間違いないと思います。無能は生きる資格すら無いと言われるこの社会で、食い扶持を荒らし税金の無駄遣いの元とも言われる人は本当は生きていてはいけないのでしょう。よく電車に身投げしたり、誰でも良かったと言う殺人犯に対して言われる事は”勝手に死んでくれ”とか”迷惑かけずに死ねよ”と言われるのをよく聞きます。

もし本当に”誰でも生きていていいし、生きる価値がある”のならこんな発言が飛び出すのはおかしいのではないですか?実際に出来るかどうかは別としてサポート出来るような社会を作る方が理にかなっていると思いますがそのような声は滅多に聞きません。保身のためかどういう理由かはさておき綺麗事としてこう言っているだけで本音は自分に少しでも害を与える人間は望ましくない、と思っているのが本当の所なんじゃないでしょうか?なら自分のような無能のDNAは未来に残そうとするのはおこがましい事で本来生きていてはいけないと考えるのはそこまでおかしい事ではないと思います。どんな価値があるのか具体性が全くないのにただ生きているだけで価値がある、と言われて納得する方がおかしいと思います。そんな詭弁は聞き飽きました。もし仮にそれが成り立つならそれは規範的理論寄りで実証的理論ではないと思います。つまりそうであるべきかもしれないけど現実は違うという事です。

確かに過去の歴史を繰り返すのは絶対避けた方が良いと思います。人間の尊厳を無視したやり方ですから。また生存のためには多くの種類のDNAを残した方が良い、という部分はあるかもしれません。弱者を排除しても社会は強くならないと言うのはスパルタの歴史を見れば良く分かります。遺伝子だけで決まる訳でもなく育った環境も大きいですし、優勝劣敗なら人類は繁栄していない、という見方もあります。

しかし人類の歴史を見ると例えばアメリカは優秀な人材を集めて経済大国になりました。東大だって私のような無能を合格させれば権威も落ちます。そして世の中を支えているのは高いレベルの学位を持つ賢い者です。強いものにインセンティブを与える事で良い地位を得る事が出来て、良い異性が結合します。私のような社会に害悪を与えるような淘汰されるに相応しい存在がこの世から抹消されます。それは小学生の時から行われている普遍的なルールです。また遺伝子が知性や運動、健康への影響はとても大きいのは科学的な事実で、優秀な人材は資産やフローがあるので育児や養育へのコストを大きく投資出来ます。そこから考えれば優れた遺伝子を持つ者に良い環境が揃う傾向があるのだから優生思想というのは理にかなった事でしょう。次に人類は肉体的な強さではなく知性が高く、また長距離、体温調節機能、雑食、会話能力、投擲能力などが他の生物より大きく高いです。普通に他の肉体的な力だけで存在感を示す霊長類よりも優秀な部分がありすぎるとも見えます。そう考えれば人類は優秀だからこそ生き残ったとも言える部分は否定出来ません。そう考えれば方法論が悪かっただけで寧ろ人類の歴史は優生思想の通りに歩んできた、とも見えるでしょう。

そもそも本当に優生思想というのが問題なら例えば犯罪者の親子というだけで白い目を向けるだとか、オリンピック出場選手など優れた結果を残した人が結婚し子供が生まれただけで”将来有望”だと考えるのも元を辿れば優生思想に近い物があるでしょう。しかしこういう発言で問題になった事はそうそうありません。

優生思想が問題とされるのは人類の歴史において人権と尊厳を無視した方法が主だったのと何を持って”優生”とするかが定まっていないだけで優生思想自体が問題なのかは甚だ疑問です。なのでただ優秀な人間だけ生き残れば良い、というのではなく少し優秀な人間の割合を増やす努力をする、とかそれくらいから始めるのは大問題にはならないかもしれません。例えば人権を放棄するのを希望制にするとか。だから私のような無能が未来に残るべきではないと考えるのは昨今の社会の考えと歴史を反映しただけの物だと思います。基本的人権なんて言われますが無能は家畜(社畜)かそれ以下の扱いしか現にされません。不自由な人間をサポートするための団体は確かにありますが所謂一般社会とは世界が違いすぎて結果的に社会には”働かざる者食うべからず”という目に見えない法律が蔓延していますし、その”不自由”の定義に当たらないギリギリ健常者の人間への当たりは場合によってはそれよりも遙かにキツイ事もあります。実際生活保護なんて外国人には機能しているのに自国民にはまともに機能しているとは言い難いですから国も老人と社会的弱者の相手は本音ではしたくないのでしょう。仮に降りても生活保護者に対するバッシングはどんな理由に問わず有り得る時点で少なくとも一定数以上の日本人は内心で優生思想に染まっていると考えられます。勿論不正受給している不届き者も居ますがそれが全員でもないのにバッシングする時点でおかしいでしょう。

どの分野でもそうですが現代で最も有力と思われた事が未来では覆されるなんて事は良くある事だと思います。大昔ならガリレオガリレイの地動説、比較的最近ならポジティブでいれば何でも良い方に動き出すというポジティブ至上主義…他にも探せば色々出てくるでしょう。なら優生思想が問題と見なされない未来だって来るかもしれません。だからこそはっきり言えます、他の人間はともかく私のような無能は生きる資格すら無いのだと。少なくとも社会的にはそういう空気が蔓延しています。

発言と行動が一致しない社会(ダブルバインドに近いと思います)がより社会的弱者を追い詰めているようにも見えますからそれなら堂々と”無能は死すべし”と言える社会の方が(是非は置いといて)まだ一貫性がありますから健全でしょう。実際そのような思想に少なからず染まっている社会を一から変えようとするより今ある社会の思想を上手く使う方が合理的だと思います。このような背景がある中でそれでも優生思想は問題でしょうか?生きにくい人間を少しでも減らせた方が社会は上手く回るでしょうから、悲劇を少なくするために私のような無能は最初から生まれないようにする方が関わる人間のためではないのですか?こういう思いをする人が少しでも減らすためなら優生思想というのはそこまで悪いとも間違っているとも思えないのです。私には何が正しいのか分かりませんし未来の事はもっと予想つきません。ですからどうあるべきか、ではなく今の社会に基づいた現実的な視点でしか考える事は出来ません。

それでも生きろという人が居るならそれは暗にいつか法と人を正すから今は我慢して生き地獄を味わえとでも言うのですか?食べる物にも困っている状態で生活保護も下りない(下りても社会的バッシングはあり得る)状況で自信という自己満足だけで食えていける程今の社会は甘くありません。私のような無能は出来るなら私で最後にして欲しいと強く思います。失敗は成功の母なんて言いますがそれが絶対的に正しい訳ではないです。成功する人も居ればずっと成功しない人もいる、同じように生きているだけで価値のある人間もいるがない人間もいる。世の中に溢れている常識というのは大抵決めつけられていて一面しか見ていないように思えます。もしその中から一つだけ正しい事があるなら私自身が生まれて来なければ良かったという事ぐらいでしょう。

あえかな希望すらあるのか分かりませんが少しでも生きやすい社会になる事を祈りつつ筆を置かせて頂きます。駄文に目を通して頂きありがとうございました。

感想1

経験談の投稿、ありがとうございました。

この経験談を読んで、正直、自分の中で、考えをまとめるのに、非常に時間がかかってしまいました。正直なところ、今でも、頭の中で、ぐるぐるしています。(私の頭ではいくら考えても、一生まとまらないような気もしています。)

なぜ、そのように考えているかというと、まず、あなたが始めに書いている文章「=考えられる力がある訳ではない」から始まっておりますが、読み進めていくうちに、あなたの気持ちがしっかり含まれている(とても考えられている)ように感じたからです。そのため、あなたに考える力がないと思って、読んでみようとしても、どうも違う気がしてしまいました。

さらに、全体的に、生きづらさを抱えているという話ではなく、そもそも生まれてこなければよかった(生まれてきてはいけなかった)といったような考えがとても強く、あなたが実際にそのように感じるようになった経緯や経験に関しては、語られていないということです。

余計なお世話かもしれませんが、この経験談を書くまでのあなたの人生が、気になりました。生きづらさや、辛い気持ちを投稿してもらうのが、この死にトリの場ではありますが、あなたの書いた投稿の内容が、根底にあるからこそ、ここに来てくれる人がいて、私たちの役割があると思っています。私自身、大した学力も無ければ、なんの取り柄もなく、根底には、あなたの投稿に非常に共感できる自分もいます。

発言と行動が一致しない社会がより社会的弱者を追い詰めているように感じる社会を、私も感じています。あなたが、この社会を生き地獄だと感じているというのも、納得してしまうほど、この社会には、社会的弱者を追い詰めているという現状があると実感しています。

「誰でも生きていていいし、生きる価値がある」

あなたが感じているように、表では、このような言葉を聞くことも、実際私が言うこともあります。しかし、実際に生きていくと、矛盾が見えてきます。

「本音は自分に少しでも害を与える人間は望ましくない」

あなたの発言、一つ一つに、この社会の問題が、浮き彫りになっていく感覚に囚われています。人間って、自分勝手にも程があると感じてしまいました。(私も人間の一人として、自分の行動を振り返る必要があると感じました。)

しかし、優生思想が正しいと思っている人たちだけ生き残ると、果たして本当に社会は生きやすい世の中になるのかと考えました。
優生思想の人には、あなたのような考えは、浮かばないと考えています。

あなたの考えるように、世の中には、様々な分野の中で、生きている人がいて、その人によって、育った環境も違えば、これから出会う人も様々で、得意な分野があって、でも不得意な分野もあって。だからこそ、考え方も人それぞれで、優秀だからって、正しい答えが言えるわけでもないし、優生思想が間違っているとか、何が正しくて何が間違っているのかなんて、誰にも分かりません。全てが、自分の思い通りいくとも思ってません。「本音は自分に少しでも害を与える人間は望ましくない」と考えていても、排除し続けていて、自分が生きやすい社会になるとは考えられません。

あなたの投稿によって、救われる人は、絶対います。(少なからず、私は、この社会にあなたのような考えを、発信してくれる人がいることに、救われています。)
それでも、あなたが「生まれてこなければ良かった」と感じるほどの経験があって、今もそのように感じるほど辛い経験をしているのであれば、私はあなたに寄り添っていきたいと思ったし、あなたと一緒に少しでも生きやすい社会になるように考えていきたいと思いました。

感想2

経験談の執筆ありがとうございます。読んでみて、あなたは他の誰かの言葉に影響を受けやすいのかな、という印象を持ったのですが、それは私がこの経験談に表されていることだけを見てそう感じただけで、実際には違うのかもしれない、と考えています。

他の人の話を聞くことが、自分で物事を考えるきっかけになる、ということはよくありそうですが、他の人(たち)から話を強く押し付けられるような形だと、それだけが正しいように受け取ってしまい、むしろ自分で考える機会を奪われることもあると思います。

誰かの話を信じてみたい(けど信じていいのかな?)と思うのは、もしかしたら、相手を仲間の一員として認識しようとしているからで、一緒に生きようとする態度の現れ方なのかもしれない、と考えました。そのように認識し合うことを試みている仲間(かもしれない人たち)の集団が、社会とかコミュニティとか言われているものなのだろうか、とも考えました。

私は、絶対的な真実も虚偽もないと考えていますが、正義を求めたくなる面はあります。
「正しさ」には、「それが真実である」という意味と、「それが正義や倫理に適っている」という二種類の意味があるのかなと考えました。
優生思想についての「正しさ」を考えるときは、「思想」という言葉からも、後者なのだろうと思います。そこには人間の正義感、倫理観、善悪の判断が入るのだろうと思いました。
また、「世間で正しいと言われていること」と「正しいこと」は、イコールではないと思います。それは当たり前のようかもしれませんが、自分で考える機会を奪われている状態だと、案外簡単に、イコールだと信じてしまいそうな気がするのです。

この時代の社会のシステムは、かなり未熟だと、私は思っています。人間が共有している知恵も未熟だと思います。衰退したのではなくて、生まれて少しの子どものような社会なのかもしれない、と考えています。
あるコミュニティ(社会)の中で、倫理観や正義観を作ろうとするなら、「全てのメンバーに共通して無条件にあてはまる」ような通則を中心に持っていなければ、人が相互に信用できなくなったり不安になったり不便になったりすることが多いのかな?と想像しました。例えば「Aさんは嘘をついてもいいけど、Bさんは嘘をついてはいけない」のように、メンバーによってバラバラの規則が当てられていたり、「この橋を渡ってもいいのは左利きの人だけ」のようにメンバーを限定する条件が設定されていたら、誰の何を信じて何をやっていいのか分からなくなりそうです。例えが下手だったかもしれませんが、「生きる価値がある人はこういう人だけ」という言説は、それらの例と同じような構造で、同じくらい筋が通らないものではないかと、今の私の感覚では思いました。(その私自身の感覚も、すぐに変わっていくものなので、そこまで信用ならない、とも思うのですが。)

あなたが引用してくれていた、世間でよく聞く言葉たちは、主語がone(あのような個人は~)かall(すべての人は~)か、どちらかのことが多いなのかなぁと思いました。それらは極論的で、かつ具体的な人間の存在が見えていない状況から生まれた言葉のように感じました。
今の社会では、具体的な人間の存在を感じることが、とても難しいのかなぁと思います。他の人と相互に知り合う機会が少なく、自分自身のことも知る機会が少なく、自分は存在しているのか?周りではどんな人がどんなふうに生きているのか?が実感しづらいように思います。

本文中に「サポート」という言葉もありましたが、私たちは生まれた時から、他人のサポートを必要としている生きもので、年齢などに関わらずサポートを求めるのは当然の在り方だと思います。自分が必要としているサポートを求める声や行動が、結果的に他の人をサポートすることにもなっていることは、多くありそうだと思います。死にトリの活動も、そういった側面がありそうです(まだまだそのように活用しきれていないかもしれませんが)。
でも、昨今は、サポートを求めること・困っていることの発信を、経験しながら学べる機会も十分ではないのかなと思いました。逆に、サポートを求めようとすることで傷を増やされてしまうような経験の機会が多いことは、心苦しく思います。

「迷惑なんだ」といった言葉を放ってしまうのは、その本人が何か複雑な背景によって困っているけれど、自分が何に困っているのか整理できていないときに、「この人のせいだ」という単純な因果関係の理解に丸めてしまうことで、思考停止してしまうからなのかなと考えました。それは思考する能力がないというのではなく、様々な面で余裕がなくて、思考を回避する癖が付いてしまっているのだろうと思います。

私はあなたの文章を読んで、「絶対にこれが正しい」という表現ではなく「私はこう思う」という表現をしてくれていたので、安心して、あなたの考えを聞き、自分の考えも深めようとすることができました。そのようなコミュニケーションを通して考える機会を、多くの人たちが持てればいいな、と思います。

「そして世の中を支えているのは高いレベルの学位を持つ賢い者です。」とあり、そうなのだろうか…?と疑問が湧きました。「賢い者」がいるとして、その人たちも、得意不得意、できることとできないことがあり、多くの人たちに支えられてはじめて、生きて考えて学ぶ機会が得られたのだろうと思います。歴史的には、「賢い者」が崇められることや弾圧されることなどもあり、「賢さ」の測定基準も多様だったのかなぁと考えると、時代や場所によって、社会の中での「賢い者」「賢さ」の扱われ方がずいぶん異なるのかもしれない、と思いました。

また、あなたのお話から、この社会の学校というところは、「価値がある人を生かすための、人間のフィルター装置」とでも言うべき機能を果たしてしまっているのだろうか?と思い、とても怖いと感じました。それは、私自身の学校での経験からも、たしかに実感がある気がしました。

学校に限らず、人が育つこと・育てることについて、もし機会があれば、あなたと話し合ってみたいと思いました。私は、子どものときに多くの人と出会って遊べることが大事なのかなぁと考えていたのですが、あなたの考えも聞いてみたくなりました。

優生思想が、善いとも悪いとも思いません。そのような考え方もある・あっていいと思っています。けれど、「その考えだけが正しい」というふうに偏り過ぎて、他の考え方が見えなくならないように、自分の中で少し気をつけています。死にトリで、色々な人の話を聞くことも、私にとってバランスを保つ方法の一つになっている気がします。

「家畜(社畜)かそれ以下の扱いしか現にされません」という記述がありました。これは家族や会社といった組織の中で人が閉じ込められて搾取されている、といった意味なのかなと受け取りました。私も、そうした現実を感じて、どうしたらいいのか悩んでいました。一つ思いつくのは、ベーシックインカム制度です。死にトリのこえサーチ第4弾では、生活保護制度とベーシックインカムについて、使いたいか・有効だと思うか、その理由を含めてアンケートで声を集めて紹介していました。もし、これについて思うことがあればお聞きしてみたいなと思いました。

「発言と行動が一致しない社会(ダブルバインドに近いと思います)がより社会的弱者を追い詰めているようにも見えます」という部分には、とても共感し、現実についての的確な表現だと思いました。一致しない発言や行動をするのであれば、責めてどちらかをやめてもらいたい…と思ってしまいます。ダブルバインドの連鎖のような社会は、どうすれば違った方向に動かせるのか悩んでしまいますが、私はできる限り嘘ではない文章を書きたい、と思いました。

この経験談から、たとえ傷つけ合ったとしても、人間は一緒に関わり合って生きることしかできなくて(関わり方は多様ですが)、関わった人間のどちらかが死を迎えたとしても相手に影響を与えるのではないか、と思いました。

あなたはどうすればより多くの人が尊厳を持って生きることができる社会になるのか、ということを現実的によく考えてこられた方なのだろうと思いました。
希望を見つけることの難しい社会だと思いますが、このように、生まれることや生きることや死ぬことや、現実にここにある社会のことを考えている方とコミュニケーションができることは、私にとっては一つの希望かもしれません。
こちらこそ感想文を読んでいただきありがとうございました。