守りと葛藤


自分は幼い頃から他の人達よりも生きることがうまくはないようで…人の顔色を伺う日々です。外側からは見えないように自傷行為をしてきました。心にも体にもです。自分は、社会の多くの人達とは何かが違う。その人達も悩みや苦しみもあれど、それでも豊かで幸せそうな、楽しそうに過ごしている人達からは、自分自身は、程遠ければ縁遠いのだろうと思い、どうして…なんだろう。と、悔しさや切なさや、悲しみ苦しみ、この世で生きる虚しさを感じます。自分の中では、何度も社会の人達に馴染もうとしたり、努力や工夫をして生きてきました。ただひたすらに、自殺したい。という気持ちが、強く出てくることがあります。自分の中で、生きたいよ!いろんなこと挑戦していこうよ!と自分を励ますように思える心に対し、それに反発するように、もうやめよう。無理だよ。苦しい。消えたいよ。という気持ちにもなります。心の中に、自分自身のことを守りたい。という何かと、苦しくて消えたい。という全く異なる、意識や感情が存在しています。生きるのが苦しい。何年、何十年…このまま、強い自殺願望があって…自分の中での葛藤、周囲との衝突、孤独な闘いが続くのだろうか。と思いながら、毎日生きてます。不思議ですが、自分自身を傷付けたいと思ってしまう心が、一番懸命に私のことを守ろうと必死で生きているように思えています。生きづらくて、苦しくて、自分を苦しめること、人の顔色伺うことも、やめたくてもやめられなくて。…生きてる限り、心が自由になれることは、ないのかもしれないけれど…毎日闘いを繰り返している様々な感情が、自分を責めずに許せる方向へ進めるようになりたいと、願っています。

感想1

経験談を送ってくださりありがとうございます。

読んでいて、人間のメカニズムというか、人の体や心には自分を守る機能のようなものがあるのかもしれない、と思いました。それをとくに感じたのが、投稿者さんが書かれる葛藤についての表現です。

「心の中に、自分自身のことを守りたい。という何かと、苦しくて消えたい。という全く異なる、意識や感情が存在しています」と書いてあるのを読んで、私自身にも覚えのある感覚だ、と思うと同時に、これらは自覚できる表現としては正反対のようだけど、どちらも同じことのためにある意識や感情なのかもしれないと思いました。

私たちは、にんげんであるまえにいきものであって、おそらく基本的にはなるべく苦しまず、安らかにありたい存在だろうと思います。
だから苦しみが続くときに、さまざまな対処をしようとするようです。

たとえば孤独をなくすために人と関わる選択もあるかもしれませんし、なにかに打ち込んでそのあいだに苦しみを忘れることもあるかもしれません。あるいは、別の刺激などで紛らわせる方法や、苦しみを感じていないということにして麻痺させる方法をとることもあるでしょう。苦しみをなくすためにその環境や状況から逃げ出そうとすることもあるでしょう。生きること自体が苦しみに直結していると思えば、生きることをやめたいと思うのも自然だと思います。
いまいくつか書いた方法を推奨するわけではありませんが、これらはすべて、おかしいことでもだめなことでもなく、ただ人が自分を守るために自然ととろうとする思考や行動なのだと思います。
それが、まさに投稿者さんの書かれている「守りと葛藤」の動きなのだと感じました。

だから、私個人としては投稿者さんの葛藤がなくなって、迷いがなにもなくなることだけが必ずしもいいとは思わないのですが、ただ、この葛藤の中で苦しいと感じることも、それをどうにかできないものかと考えることも、至極当然のことだと思いました。

「何度も社会の人達に馴染もうとしたり、努力や工夫をして生きてきました」という言葉を読んで、投稿者さんはどちらかというと不器用な方で、他の人に馴染もうとするとき、なんとなくやるのはむずかしくて、いつも努力していたのかなと想像しました。
考えてみると、この世の中にはまだ生き方のモデルがあまり多様ではなく、「普通とはこういうもの」というイメージが先行した状態で生活をせざるを得ないような状況になることが少なくなさそうです。本当であれば個々人には違いがあり、その違いのひとつひとつが平均値に近いか遠いかはあるとしても、そのどれがだめということもなければ、どうしても平均値に合わせなくてはいけないということもないはずです。
でも、他の人がなんとなく合わせているイメージに自分を合わせようとしたときに、多くの努力が必要なタイプの人は、別にそれが悪いことではないはずなのに「努力をして当然だし、努力してもできないなんておかしい」と無責任に言われてしまうこともあります。
(私の経験から書いていますが、もし、強い表現でつらい気持ちにさせてしまったらすみません)

ただ、本来はそういうものではないと私は信じています。また、なるべくならあなたがそういう価値観に晒されない瞬間が日常の中に多くあればいいと思い、誰か・何かに合わせるかどうかに関係なく、あなた自身が好ましいと感じるものや、心地よいと感じるような個人的な時間があったらいいと思いました。

人の顔色を伺うことについて書かれていましたが、それはこれまで生きる上で必要だったやり方だと思うので、無理に急に否定する必要はないと思います。
たまに「もしかすると、違う見方もできたかも」と想像するタイミングがあればいいのかな?とも思いますし、この経験談のように、少し引いた視点から自分を見てみるときがあることで十分だろうと感じました。

経験談を読んでいて、あなたの感覚や意識、考えを、よければもっと聞かせてもらいたいと思いました。もしこの感想などで思ったことや気になったことがあれば教えてほしいですし、タイミングやテーマが合うときには、ここチャットなどに参加してみてほしいと思いました。

感想2

生きづらさに関する経験談を送っていただき、ありがとうございます。

あなたが生きることに虚しさを感じる背景として「豊かで幸せそうな、楽しそうに過ごしている人達」の存在があり、その人たちと自分は「何かが違う、どうしてなんだろう?」という、他人との対比や関係性があったのだと理解しました。

私は、死にトリのここチャットで「孤独ってどういうことなんだろう」をお題に話し合ったときに、孤独は一人きりのときにだけ感じるものではなく、他の人との関わりがあるときに、自分と周囲を比較したり、周囲から疎外されたりすることによって感じることも多いのだと知りました。あなたもそんな孤独を抱えているのだろうか、と想像しています。

また、私は、あなたの周りの人たちは、これまでどんなふうにあなたに関わってくれたのだろう…と気になりました。もしかすると、理由も分からない(納得できない)まま、周囲に拒絶されたり敬遠されたりしてしまうことがあったのかなぁと勝手に考えていました。

「何度も社会の人達に馴染もうとしたり、努力や工夫をして生きてきました」ということで、自分の中で色々考えて試しているあなたを想像しています。しかし、本来は周囲の人たちや社会が、もっとあなたのことを知ろうとしたり、どうすればお互いに気持ちよく関わり合って過ごせるか考えたり、声を掛けたり、見守ったりしてくれてもよかったのでは…?という思いが私の中に出てきました。

また、あなたの心の中に、様々な感情や意識が出てきて、それらを自分で自分に語り掛けるようにしているのだなぁと思いました。それらの気持ちを表出・発信して、受け取ってくれそうな人は、自分自身以外にはあまり見つからないのかな…と想像しています。なので、気持ちが心の中に渦巻いて、強化されていったとしても不思議ではありません。

でも、この経験談の中で、あなたの気持ちを言葉にして聞かせてもらい、私は、表現が豊かで面白いな、と思いました(苦しさが面白いということではないです)。なので、またあなたの表現に触れられる機会があったらなぁと思っています。あなたの気持ちや考えていることに興味を持つ人は、他にもいるだろうと考えています。

それから、「周囲との衝突」と書かれていましたが、私には、対等に意見をぶつけ合っているというより、あなたが周囲の人よりも弱い立場に置かれてしまう状況が多いのかなと想像しました。「人の顔色を伺う日々」ともあり、周囲の人たちが、たとえば「これが普通」「それはおかしい」「こうしないとダメ」というような暗黙のメッセージを強く押し付けてくるような状況があったのだろうかと推測します。

「不思議ですが、自分自身を傷付けたいと思ってしまう心が、一番懸命に私のことを守ろうと必死で生きているように思えています。」
この文章がとくに印象的でした。私も、自分自身を傷付けたいと思うことがあり、そう思わなくなったらいいのに、と思っていました。でも、あなたの文章を見て、それは自分を守ろうとして生きるために必要ことがあるんだな、と腑に落ちました。
自分を苦しめることや、人の顔色伺うことを、やめようと思って簡単にやめられるのであれば、初めからそうしていない(もうやめている)だろうし、それらも自分を守る一つの方法なのだろうと考えています。だから、簡単に「やめていいよ」「そんなことしなくてもいいよ」とは言えません。

苦しみや生きづらさが、ゼロになることはないのかもしれませんが、その一部分だけでも、理解してくれる人や、おかしくないと認めてくれる人に、あなたが出会えたらいいなと、勝手に思っています。もし、このサイトがそのきっかけの一つになれば、うれしく思います。

返信

私の思いや伝えたいこと、訴えたいようなこと、孤独感について、経験談をお読み頂き、様々なご感想、ご意見をありがとうございました。感想に対して、見当違いな返信になってしまうかもしれませんが、今の自分の言葉でお伝えできたらと思います。

私は自分の命が本当は大事なのだと、改めて思いました。大事なのに、大事なはずなのに…、自分の命を温かな心で受け入れられないのだと思いました。

寂しさや孤独感について、世の中の多くの普通であったり、その人自身が努力して手に入れられる幸せと、自分自身を比較しては、苦しみに苛まれてるのだと思います。

私は自分自身で、ありたいのに、苦しみ続けてしまうことも、他人との比較や現状の自分に対しての、「なぜ?これができないのだろうか?」という、どうしてなのだろう…という思いなのです。とても身勝手かもしれないですが、私は生きています。今までのたくさんのご先祖様の命を受け継ぎ、今があることも、理解はできるのです。また、自分が苦しいんだ!と、言うこと、発することで、更に周りを苦しめることも、知っているつもりなのです。

理解はできていても、心の深いところでは、孤独感はいつまでも、空白のままです。絶望感や孤独感は人と比較したり、誰かと何かを共有した時にも、心が仮に通じた時にも、寂しさや虚しさとして、現れると思っています。一人でも、一人ではなくても孤独を感じ、どうにかして、その空白を、なんとかしようと気持ちを、その“どうしようもない孤独みたいなもの”から遠ざけようとしますが、時にのみ込まれます。

今は、自分を大事に思えないことへの申し訳なさと共に
心も体も自分の全てを傷付けても、なお傷付けるような心境を持っていることです。

ひとりではなくて、孤独ではないのかもしれません。自分には最初から最後まで自分自身がいます。けれども…とてつもない孤独や不安、絶望感に苛まれてしまう葛藤はずっとあるのかもしれません。

「こうでなければならない」→「なんで?自分はこうじゃないの?できないんだ?どうしてなのだろう?」→「だから自分は…よくないんだ…」→「よくない自分…私は私が嫌だ!大嫌いだ!!」という感覚を繰り返して生きてきたと思います。

その感覚と共に人から受け入れられないという悲しみもあります。そして、自分自身が自分のことを受け入れられないという悲しみと寂しさがあります。

比較し続けてきた、自分自身で苦しめてしまっている生き方や見方を、温かく穏やかに、苦しい心の波立つ時も、自分のひとつの感覚として受け入れられたら、と思っています。