はぐれ人

19歳・女性



 ヒトが気持ち悪くてたまらない。

 最近、私はさまざまな古くからの思想について学習をしている。知れば知るほど、人間という生き物は群れないと生きられない、自然界では一つの弱い種にすぎないのだと思う。
 これは私個人の考えにすぎないが、だからこそ人々は共通の言語や宗教、文化、社会などを作りたがるし、それを多くの人々に共有したがるのだろう。

 では、この中で生きるとき、何が人間としての強みになるのか。人によってさまざまな意見があるが、私はやはり「社交力」が必要なのだと思う。
 顔が広く利き、人望があり、親しみもある、そんな人々が得をする。人生に波瀾万丈なドラマを持つようなら尚のこと良い。
 真面目だとか、自分の好きなものをエネルギーにしているだとか、そういうことは二の次である。
 要するに、いかに社会のために生きられるかが重要になっている。私がおよそ20年間生きて学んだことは、だいたいこういうことだ。

 ここで本題に入る。前書きが長くて読んでいる方に申し訳ない。すみません。
 ありがたいことに私は大学に行かせてもらっているが、正直ここでの学習に意味を見出せない。もっと一人で黙々と勉強ができるのかと思っていたのに、グループ学習が基本となっているし、さらには授業に意欲的でない人がほとんどを占めている。
 何より疑問なのは、すべての科目において、学びによって「社会のための人間になる」ことが求められていることだ。
 意味はわかる。多様な価値観と知識を学んだほうが世界の解像度は上がることはわかる。実際、そうなっているし、私はそこに楽しさも見出している。
 しかし、私にはこの社会に生きて貢献しなければならないほどの意味がない。むしろ私なんていない方が、この世界はスムーズに動くのではないかと思う。
 幼い頃から、私は人の和の中に馴染めなかった。友達はいたが、対等な友達だといえるのは高校生になってから友達になってくれたごく一部の人々だ。それ以外は厄介なビジネスパートナーのような気持ちで付き合っていた。
 分からないのだ。人としての社会的な生き方が。なんだか某文豪が同じことをおっしゃっていた気がするが、分かってもヤジを飛ばさないでほしい。この考えだって手垢のついたものだと理解している。
 このようなことを相談すると、大抵「もっと多様な価値観を知った方がいい」だの「違う人と関わってはどうか」だのとよく言われた。そのアドバイスを受けてボランティアやサークルにも幅広くたくさん参加したが、やはり分からなかった。それどころか、たくさんの違う「ヒト」という生き物が共通の認識を持って生きていることにおぞましさすら感じた。
 私が生きる世界の全てには、「社会」という共通認識がついて回る。そしてそれは、私を指定の場所に組み込もうとする。それがなんというか、気持ち悪いのだ。自分も今までその恩恵を十分すぎるほど受けてきたはずなのに、なんとも罰当たりな感情である。
 多分私は、人として生きることに向いていないのだ。のうのうとここまで生きてしまったけれど、もっと早くに死んでおいたほうが賢かった。
 私の身体なんて誰か生きたい人にやってしまって、どこか遠くに行きたい。

感想1

経験談の投稿、ありがとうございます。

「学びによって『社会のための人間になる』ことが求められている」と書かれているのを読んで、これはおかしなことだと思いました。
たしかにそう思っている人は、学校の運営者や教育者を含めたくさんいるのかもしれないです。でも、それがすべてではないし、むしろ一番重要なことはそこではないと私は思っています。
私の感覚のまま書くと、社会のために人はいるわけではなくて、むしろ社会はすべての人のために使うべきものです。そして学習のための場は、社会のためでなく人のために開かれるべきだと思います。

また、「社会」は「世界」のすべてをうめつくしているわけでもないのではないかと思いました。「国家」があるところだけを「世界」だと言う考え方ではそうかもしれないけれど、本当は、もっと世界は果てしなく広いような気がしています。

いま言われている「社会」が必ずしも必要とは思いません。そんな幻想のために、実在する人や生き物が削られたり損なわれたりするのは変だと思います。また、だからと言って「人は一人で生きていける」とも思いません。というか生きているということ自体、さまざまな偶然が重なったことで、自分の力でも、だれかの力でもなさそうです。

投稿者さんの理解や物事の切り分けの仕方が興味深くて、つい、考えたことを取り留めなく書いてしまいました。長くなってすみません。
相談して得たフィードバックをもとに、実際にいろいろと試してみたことが書いてありました。それを読んで、私は投稿者さん自身も書かれていたけれど、真面目さや直向きな印象を受けました。
その直向きさは書かれている考え自体にも通じているように思うし、それを見せてもらったことで、私は上で書いたようなことを考えるきっかけになり、うれしく思っています。

「顔が広く利き、人望があり、親しみもある、そんな人々が得をする」という指摘を読んで、たしかにそういう人が得をする場合はあるかもしれないと思いました。
でも、個人的には、そういう人だけがよしとされる場所よりも、もっといろんな人がいて当たり前の場所の方が好きです。
また、(私も含め)向いていない人が無理に「得をする」やり方に合わせようとしたら、自分自身の感覚や気持ちがすり減ってしまいそうだと思いました。
もちろん、その方が楽な場合にそれを選ぶことは悪いことではないですが、すり減らずにいられるやり方を、考えてみたいと思いました。

思い返すと、死にトリはそういうやり方を模索する場所なのかもしれないとも思いました。
もしよければ、死にトリを使ってもらう中で、一緒に考えてみたいと思っています。
たとえば「ここチャット」ではさまざまなテーマで議論をしています(サイト内に報告のページがあるので、よければご覧ください)。もしチャットで話してみたいテーマや、そのほかにも考えてみたいテーマがあれば聞いてみたいです。

感想2

 「人としての社会的な生き方が分からない」のは、誰しも当然なのではないかと思いました。人として尊重されて、対等に扱われて、好意を持って受け入れられたり必要とされたりといった暮らしが日常的な社会ならば、そこでの振る舞い方もわかってくるだろうと思ったのです。

ですから、投稿者さんの感じている気持ち悪さは当然のことだと思ったのです。体験談を読ませていただいて、私は「社会的な生き方」について初めて考えることができました。

 「人なのだから先ずこうあるべき」が無条件に押しつけられて、しかもそれは共通認識なのだと周りの誰もが思い込んでいるとしたら、それは順番も道理も違うなあと投稿者さん同様に私も感じます。

 でも世の中を見渡してみると、決めつけや押しつけばかりが見えてきました。風潮と呼ばれるような縛りであれば、人や時代によって変化するので緩そうな気もします。でも、決まりとか制度のような目に見えて直接我が身に降りかかる縛りも沢山ありそうです。そして実際に縛られてもいたように思いました。例えば学校とか、例えば愛国心とか、そして同調圧力もです。

 社会のための人間になるのが生きる目的になるのは、私も同意できません。また生きることの意味とか価値というものは、ひとりの人の中で刻々と変化したり、気付いたりそうでなかったり、まさに一人ひとりの自由なものだろうと思います。

 生産性で人を測るような政治家さえ跋扈してしまう不気味な世の中ですから、投稿者さんのように危機感を持って世の中を俯瞰して、さらに警笛を鳴らしてくれたことに感謝したいと思いました。ありがとうございました。

返信

お2つともたいへん興味深く拝読いたしました。そのうえで今一度私の生きづらさについて考えたので、お返事を書かせていただきます。

おそらく今の私は、自分が生きている社会の中に身を置くことに気持ち悪さを感じつつも、そこから進んで出ていくほどの自分の意思は無いのだと思います。気持ち悪いと感じる部分は多いけれど、居心地の良さというものも確かにあったようです。そしてそれらに報いたいという気持ちも多少はあるのだと思います。これが私の育った環境や受けた教育からの強迫的なものなのか、それとも自発的なものなのかは分かりません。その両方だともいえそうです。本当は、いわゆる社会の歯車になりたいのかもしれません。ただなり方が分からないので悩んでいるのかもしれません。きっと私は、社会で自身をうまくカテゴライズできないことが苦しいのだと思います(人間性はくっきりと境界のあるものではありませんが)。多様性・個性の尊重が叫ばれて久しい昨今、受験や就活でも個々人の能力が注目されるようになりました。結局それらも、多様な人間を認めるようでいて、可視化できない人間性を型にはめる行為のような気がします。このような社会において、私のような特技も目立った人間性も何もない人間は生きづらいです。

本当は誰の記憶にも残りたくないくらいですが、もし私と似た考えの方がいらっしゃるなら、駄文ではございますが少しでもこの文章が慰めになれば幸いです。