全生命は速やかに死滅するべきである



 すべての生命は今すぐ死滅するべきなのに、どうしてそれがわからないのか。
 これは「生命」などという悪趣味極まりないシステムへの呪詛である。

 もちろん、この主義思想は私自身の幸福ではない経験に裏打ちされるものと一蹴されるべき部分も大いに含んでいる。
 あくまでも私の人生が理想通りではないから否定しようとしているに過ぎない、と言われても仕方ないとは重々承知している。
 しかし、現実を見てみればそれだけにとどまらず、私よりも不幸な人間はいくらでもいる。
 他人や自分自身を呪いながら生きている人間のなんと多いことか。

 人間が物質を消費しなければ生きられない「生命」だから、この世界に横たわる諸問題は絶対に解決しない。
 誰もが、見ず知らずの人間や自分が憎悪する人間のために自分を犠牲にできるほどの人格者でないかぎり、「恒久的な平和」なんてものは成立しない。
 決して良くならない世界を良くしようとしても、生まれるのは新たな苦しみと不毛な争いだけである。

 問題を解決しようと奮起する人間の中に、自分を殺す覚悟のある人間なんていないからおかしなことになる。
 どんなにきれいごとを並べたって、結局は自分の欲望のためでしかない。
 それを自覚しないで「自分は他人のためにやっている」と思い行動するからおかしなことになるのだ。
 本当に相手のことを思っているなら、実際に犠牲になって証明してみせてほしい。

 苦しんでいる反出生主義者のために、出生主義者よ、犠牲になれ。
 それができたなら、ひとりの反出生主義者である私も生命を肯定できるかもしれないし、喜んで他者の犠牲になれるかもしれない。
 さあ犠牲になって見せてほしい。できないから。
 それこそが、「人間は結局、自分が一番かわいいだけの生き物」でしかない証拠である。

 生き物なんて所詮、自分自身が一番かわいい。他者のために自分を犠牲になんてできないし、むしろ自分のために誰かが犠牲になることを望んでいる。
 だから私は生命を肯定することができない。

 そうでなくても、生命を肯定できない理由はいくらでもある。

「生きる」ということは、墜落すると決まっている飛行機に乗ることである。
「墜落するかもしれない」ではない。絶対に「墜落する」のである。

 なぜなら、生命は生まれたら死ななければならないからである。

 どんなに幸せな人生だろうが、そうでなかろうが、いずれは終わりが来る。
「死んだら終わり」ならばそれでいいが、自分が「死んでいる」ことをどうやって認識できる?
 
「生きる」ということは、

 面白半分で翅をむしられたり、巣に水を流し込まれたり、
 縄張り争いや群れの秩序のために親に食い殺されたり、
 外来種の卵を知らぬ間に育てさせられ、それによって実の卵を壊されたり、
 誰かの欲を満たすために暴行、拷問されたり、
 恐ろしい化学兵器で全身が焼けただれる苦しみを負わされたり、
 自分を含めた何もかもを憎んで傷つけ、傷つけられることである。

 決して、

 自分よりも大切な存在を見つけ守ろうとしたり、
 そこにある小さな幸福に感謝しながら慎ましやかに日々を送ったり、
 輝かしい夢や目標に向かって邁進し、その達成を喜んだり、
 世に溢れている幸福や快楽を享受したりすることではない。

 これらは所詮、「生命」による嘘でしかない。

 そもそも、「生命」が生まれたことそのものが何かの間違いである。
「生命」が生まれてしまったから私たちは死ななければならなくなってしまったし、苦しまなければならなくなってしまった。

 問題を解決しようとする姿勢そのものが不毛である。なぜなら、生き物には問題を解決する能力なんてないからである。
 真に問題を解決しようとするならば、「問題」にかかわる全てを消さなければならない。

 今、この世界は抱えきれないほどの諸問題を抱えている。
 それらすべては、生き物がすべて死滅しなければ解決しない。
 しかし愚かな人間は、あくまでも「生存」だとか「繁栄」だとかを旗印にしているからおかしなことになっている。
 どうしてこんな世界になってまで、誰も「安らかな滅亡」を目指さないのか?

 死にたいけど死ねないから死なない。
 私が望むのはただひとつ、「何もかも存在しない」ことである。

感想1

経験談の投稿、ありがとうございました。

普段、私が生きていく中で考えないようなことや、奥の深く深くそのまた深い部分まで、考えなければ、思い至らないような内容で、あなたがこのことを、発信しようと考えられたことには、今までの経験が、きっかけになっているのかなと想像しました。

一番、印象深かったのは、「人間は結局、自分が一番かわいいだけの生き物」。
他者の犠牲になって、自分が死ぬことも出来ないし、人間は弱い生き物でありながら、自分が犠牲になるくらいなら誰かが犠牲になることを望んでいるって、たしかにその通りだなと、共感しました。

世の中、いろいろな問題がありながら、結局解決せず、さらに次々に問題が出てくる。
他者を犠牲にしたり、または自分が犠牲になるようなことがあったり、人間は様々な環境の中で生きていると思います。
どちらも、生きているうちは、避けられないことなのかな…
そうであれば、なぜ、辛い思いをしながらも、人間って生きているのかなと考えてしまいました。

人間は、いずれ死ぬことが分かっていながら、「生存」「繁栄」と言い続ける。
こんな世の中だと思うと、私も「何もかも存在しないこと」を望むかもしれません。

あなたが、この投稿をしようと考えたきっかけは、なんでしょうか?

「死にたいけど死ねないから死なない」

あなたの、この言葉の理由を、もう少し詳しく聞きたいなと思いました。

感想2

経験談を投稿いただきありがとうございます。

反出生主義には私も思うところがありますが、あなたの世界の見方にはとても興味を持ちました。
確かに「生命」が存在しなければ「問題」は起きないかもしれないです。そもそも人間だって本当は生命の種のひとつで、文化という他の種との柵を作り、他の種から画一して自分たちだけのコロニーという幻想めいた安全を手にしたから弱肉強食の世界から外れたけれど、命である以上は他の命を奪わなければ生命は維持できない。
その守られているはずの柵の中のコロニーでの生活ですら、人間という種のみで文化的な生活をするからこそ、縄張り争いや秩序を保つために人は人であることを殺されるのかもしれません。
など、色々と考えさせられました。

生きるということは、つらく酷なことですね。
終わりのない「生命」なんて、これから先永遠にこのつらさが続くのかと思うと絶対のないこの世で唯一の絶対である、いつか必ず墜落する、という事実がなければ気が狂いそうです。

反出生主義も、出生主義も、思想である以上はどちらの思想も本来否定されるべきではないと私は思うのですが、あなたは出生主義の人から「他人(あなた)のためにここまでやってあげたのに」と言われ大きく問題をこじらせられたり、傷つけられた経験がおありなのかな…と想像しました。
(想像ですので違っていたらすみません)

自分が一番かわいいというのは「生命」としてはきっとそうだろうな、と思います。
でももし人間が「生命」としてただ単純に、柵の向こうのコロニーの外側の、生きるためだけの捕食のみのために他者を傷つけるとしたら、反出生主義の見方もだいぶかわってきそうだな…と思ったりもしました。

文化的に生きるからこそ人はつまらぬ理由で人を殺し、諍いあう。でも文化の中にはいつもどこまでいっても諸問題はつきまとい、解決したと思われても、また更なる問題が浮かび上がる。アウフハーベンの上には更なるテーゼとアンチテーゼ。いたちごっこかもしれません。

それでも少しでも生きている人が生きていることに未来が感じられるように、あるいはこのようにして死を安心して語れるように死にトリという場所は「死にたいの取り扱い説明書」として存在するので、ぜひまたあなたの死生観や半出生主義について聞いてみたいと思いました。

返信
インターネットの普及により、誰もが自分の苦しみや辛さ、満たされない気持ちを表明することが簡単になった。
そうした言葉を目にする度に、これほどまでの苦しみを生産しながら平然と続いていくこの世界が許せなくなった。

死んだ後のことは誰も保証してはくれない。
もしも、死んだ後に存在しないことが確約されているとしたら、私は今すぐにでも死ねるだろう。
その保証がないから、私は今もすべてを呪いながらのうのうと生きている。

「死にたい」と思っている人間にとって、「死にたい」と一度でも思ったことのない人間はそれだけで罪人である。
何故なら、「死にたい」と思わないような鈍感な人間がこの世界の秩序をつくり、また「死にたい」と思う人間を増やすからである。
だから私の言葉には、「死にたい」と思わないような人生を送ってきた人間への呪いも含まれている。

「死にたい」と思ったことのない人間がいくら「死にたい」に寄り添おうとしても、それは決して完全にはなれない。
やがて「死にたい」を嫌悪し、遠ざけ、見て見ぬふりをするに決まっている。
「死にたい」に寄り添い続けられるのは、それこそ、自我を持たない死んだ人間だけである。

繰り返す。すべての「死にたい」の原因は、「死にたい」と一度も思わずにいられる人生を送ってきた大多数の人間である。

この世界で起こっている問題のすべては、対岸の火事ではない。私やあなたが生きているせいで起こっているものである。

人間は、ひょっとすると全生命を死滅させるために生まれたのかもしれない。
動物にだって生存競争があり、弱肉強食があり、抱えきれないくらいの痛みがある。
だから私は全生命の根絶を望んでいる。生きたまま食われるなんて御免だからだ。
けれど生まれてしまったからには、いつか必ず生きたまま食われなければならない。
死んだ後、サバンナの草食動物に生まれたらと思うとどうしても死ぬことができない。

私は今まで、「正しさ」のもとに自分の意思を押し殺されてきた。
そしてそれに対する反発を抱けず、自分が殺されることに納得して生きるしかなかった。
「なにもかも、生きているからダメなんだ」といつしか思うようになった。
私だけが傷つき苦しんだのであればそれは私だけの問題だが、この世界は私の経験よりもずっとずっと醜かった。

こんなにたくさんの人が苦しんでいるのに、どうして誰も「この世界を終わらせる」という発想にならないのか?