取り繕い・承認欲求・先延ばし・適応障害

熊本県・20代・男


21歳の大学3年生の男です。両親からは「うちは貧乏だ」と言われつつも、理不尽な暴力や暴言など一切なく、高校を卒業し大学進学で実家を出るまで、何不自由なく育ててもらいました。家庭環境は恵まれているとさえ感じます。

しかし、なぜこんな性格になったのかわからないのですが、私は幼少期からメンタルが弱く、自己肯定ができない人間です。加えて怠け者で計画性がなく、夏休みの宿題などはほとんど最終日まで溜め込むような体たらくで、自分に嫌気さえ感じていました。そのため、他者から認めてもらうことで自分の存在価値を保ってきました。また怒られるのが大嫌いで、叱責=自己価値の喪失、という概念があり、他人の視線を常に気にしながら自分を取り繕ってきました。

私は「礼儀正しく真面目でいること」に、自分の存在価値を見出してきました。礼儀正しく真面目であれば怖い先生に目を付けられることはありませんし、不必要な叱責を受けることもありません。また他人からの評価も高まります。しかし、生来の怠け者で弱気な性格と、後付けの真面目な振る舞いは噛み合いません。例えば、真面目であれば長期休暇の課題はきっちり高質にこなすべきなのに、毎回最終日に適当で乱雑な内容で終わらせました。そして、宿題の内容について怒られないかビクビクしながら提出するのが常でした。中学校の合唱コンクールではふざけて歌わない人が多く、先生の「大きな声で歌いましょう」との指示にひたすら従っていたら、本番後に「君の声しか聞こえてこなかった」と言われ羞恥と馬鹿馬鹿しさをおぼえました。真面目な態度が一応評価されたのか、小中高いずれも何らかの形で生徒会活動に関わり、ときには上の立場になることもありましたが、私には技量もなければ計画性もありません。活動をしても達成感はほぼなく、挫折感とプレッシャーを感じることが大半でした。正直生徒会活動は嫌で嫌で仕方ありませんでした。

一方で、趣味は私の心を満たしてくれました。とくに創作活動が好きで、漫画やパラパラ漫画、小説、楽器演奏、作曲など、色々と手を出しました。熱しやすく冷めやすいので、どれも習熟することなく次々に乗り換えていきました。当初は自己満足でしかありませんでしたが、徐々に承認欲求を満たす手段として用いるようにもなりました。例えば文化祭で劇の台本を書いたり、地域行事でバンド演奏をしたりして、人から褒めてもらえることがあり、それを至上の喜びとしていました。自分が自分を褒められないのだから、他人に褒めてもらおうとの魂胆です。

そのまま大学生までなってしまったのですが、去年の春になった頃から、大いにこの性格を拗らせてしまうことになりました。きっかけは新型コロナによる自粛生活の始まりです。あらゆる活動が大きく制限され、不自由になったことでストレスが上手く処理できなくなりました。また進級したことで寮や研究室で責任ある立場に就くことが増え、叱責やプレッシャーが積み重なりました。去年5月頃からあらゆることが楽しくなくなり、趣味にも興味が湧かなくなりました。こうして自分の存在を肯定する手段はことごとく潰されました。夜眠れないことが増えました。暗い気持ちが頭を支配するようになりました。胸がつかえるようになりました。口癖が「死にたい」になりました。学業にも支障が出て、課題の溜め込み具合が酷くなり、これまでなら最終日にこなしていたものの、全く手が付けられずに提出期限が過ぎ、単位を落とすこともありました。大学の課題すらこなせない状態に絶望しました。これではもう「真面目」から「落ちこぼれ」に転落です。真面目を取り柄にして生きてきたのに、それさえ崩れてしまうのであれば、生きている価値などもうありません。段々自殺を考えるようになり、今年の3月頃には近くの森林公園へ夜中に赴き、マフラーで首吊りを試しましたが失敗しました。それからも、ロープを買って自室で首吊りを図ったり、絶食絶水をしたりして死のうと思いましたが、どれも苦しく結局は死ねませんでした。精神科を訪れるようになりましたが、症状は好転せず、今年の6月頭に適応障害の診断を受けて1ヶ月ほど入院しました。あらゆるしがらみから解放されたおかげか、入院直後からは気分が落ち着き、問題なく過ごせたのですが、1ヶ月して退院し学業に復帰すると、またぶり返してしまいました。相変わらずこれまで趣味にしていた創作活動に興味は湧かず、楽しみはありません。大学の課題にも恐怖に似た感情を抱き、無意味なネットサーフィンに逃げ、ひたすら先送りにして溜めてしまいます。結局期限後に、それも酷い出来で提出した課題が大半です。

現在、非常に不安定な心持で毎日を過ごしています。入院した際に家族や寮生、先生などに心配して頂けました。色々な励ましの言葉や優しい言葉も頂きました。適応障害やメンタルヘルスに関する本なども読みました。それで一時は希望を持ったのですが、しばらくするとまた暗い気持ちが訪れます。結局、自分で自分を肯定できないため、一度明るい気持ちになっても逆戻りしてしまうのです。3年生になり、卒論についても考え始める時期です。研究に必要な技術や知識も習得しなければなりません。落ち込んでいる場合ではないのに、手が出ません。周りは一生懸命頑張っている人ばかりなのに、私は怠け、課題のひとつも満足に出せません。勉強の意義もわからなくなっています。生きる意味も見失っています。また自殺がちらつき始めました。一度捨てられたロープも、また買い直して部屋にぶら下がっています。

私は何をどう間違えたのでしょうか。どこかで自己承認の術を身に付ければよかったのでしょうか。先延ばしの癖を治せればよかったのでしょうか。こうして過去ばかりを振り返り、絶望しています。早く死にたいと、毎日思っています。

感想1
経験談の投稿、ありがとうございます。

「なぜこんな性格になったのかわからない」と書かれているのを読んで、投稿者さんはこれまでに自分のつらさの理由や原因、意味などを考えてきたのだろうと想像しました。
家庭環境は恵まれていたと書かれていましたが、人が育つ上で必要なものは画一的ではなく、ある程度人それぞれに違っているように思うので、投稿者さんにとって育った環境がぴったりではない場合、自分を否定したいと感じることが多くなることもあるのではないかと思いました。

他者から認められるためにとった「礼儀正しく真面目でいる」というあり方について読んでいてなんだか気になりました。
気になったことのひとつは、礼儀正しい・真面目だと見做されるには具体的にはどんなことが必要なのだろう?ということです。
必ず言うことを聞けば真面目、ということでもないだろうし、同じ動作をしていたからといって、どの人にも礼儀正しいと見られる保証はありません。
それを都度想定しながら行動するのは、疲れてしまいそうだと思いました。

また、もうひとつは、その行動が投稿者さんの希望というより、他者を軸にしている点です。それ自体は悪いことだと思わないのですが、投稿者さん自身の思いや感覚とズレるとしんどいかもしれないと想像しました。
たとえば、創作活動が趣味だと書かれていましたが、それをする力が湧いてこなくなってしまうのは、寂しい感じがすると思いました。(個人的に、私も創作が好きだから、というのもあるかもしれませんが…)

私は真面目でも不真面目でも礼儀正しくてもそうでなくても、どういう人もダメということはないと思っています。
というか、いいか悪いかを判断する基準は実在はしないと思っています。
(実際、地域や時代や状況によって、なにがいいとされるかはあっけなくひっくり返りますし…)
でもこの社会の中では、余裕がない人も多いですし、条件付きではない肯定をされたりしたりする機会を持ってこなかった人もとても多いように思います。
だからこそ、死にトリでは社会の中の考え方ひとつひとつを考え直して、自分や他者をいいか悪いかで考えるのでなく、一緒に生活していく方法を探っています。

いただいた経験談で、私は投稿者さんの「理想」や「ありたい姿」とそのギャップ、そしてその苦しみを教えてもらったのかなと思っています。また、理由や解決策がわからないことのつらさも感じました。
一方で、投稿者さん自身がどんな人で、どんなものに興味を持つのか、どんな性質があって、どんなことで楽しんだり悲しんだりするのかについてはまだそこまで多くは聞いていないかもしれないと思いました。私はまだ投稿者さんのことはほとんど知りませんが、その部分も含めて、できればもっと聞いてみたいなぁと思いました。
と言っても、自分のことを自分で語るのは難しいようにも思います。
もしそうであれば、よければ死にトリのコンテンツ(たとえば、さまざまなテーマについて対話して考えてみる「ここチャット」など)に参加して、一緒に考えてみたいと思いました。

感想2

経験談読ませていただきました。

社会の中で自分の価値を保つために「礼儀正しく真面目でいること」を鎧として、「他者から認めてもらうこと」を栄養として生き抜いてきたこと。
責任の増加や自己価値を喪失する経験が増えたことで段々と鎧が重くなり、コロナ禍で栄養を補給することも難しくなったこと。
重い鎧をつけなくてよい病院に避難したけれども、社会(大学)に戻りまた重い鎧を身につけなければならない状況に恐怖にも似た感情を抱いていること。鎧をまとえない自分に価値がみつからず生きる意味を見失ってしまっていること。

私には、上記のようなイメージが想像され、投稿者さんが鎧をまとった自分と生身の自分とのギャップに苦しんでいるように感じられました。
それと同時に、鎧をまとわないと生きにくい社会がそこにあるようにも感じました。

やりたいことをするためには時に努力も必要だと思いますが、無理が必要な努力をし続けると疲弊してしまうのも自然なことだとも私は思います。立ち止まったり、休んだり、方向転換したり、行ったり戻ったり、自分のペースで歩くことが難しい社会だなぁと考えたりします。

本当は自分の人生なので自分のペースで自分に合った歩き方で歩いていいものだと私は思いますが、特に子どもから大人になるまでの間は、社会からの評価や仕組みによって、個人のペースや歩き方がしずらく、無理をして社会のペースに合わせなければならないことが多いのではないかと考えてしまいます。

投稿者さんは、自分がどこでどう間違えたのかと書かれていますが、自己承認の術にしろ先延ばしの癖にしろ出来たのならしてきたことなのではないかと思います。もしかしたら良し悪しの評価ではなく先延ばしの癖をどう捉えてどうしていけばいいのかを誰かと一緒に考えたり、自分はこれでいいと思えるようになる機会が必要だったのかもしれないと私は思いました。(今からでも遅くないと私は考えてしまいますが・・・)

それと、今は興味を失っていて苦しい日々を送っているのだと思いますが、投稿者さんは色々なことに興味をもち自分を活かす術ももっていた方なのだとも思い、「しなければならないこと」と「したいこと」のバランスの大切さも教えていただきました。
貴重な経験談の投稿をありがとうございました。