2021年8月7日は「自由って何だろう?」というテーマでここチャットを実施しました。参加者は5人でした。
まず始めに2つの質問に答えました。
■「○○の自由」と聞いた時に、あなたが必要だと思う自由を教えてください。
- 時間の自由
- 精神の自由
- たましいの自由
- 遊び
- 休み
- 仕事
- 引越し
- 人間関係
- 個人の自由(同調圧力をすごく感じていて、社会のレールから外れたら終わりみたいな感じがしんどいので、みんなそれぞれ違っていいよね〜という空気感になればなあと)
- 選択肢の自由
■「自由」を他の言葉に言い換えると?
- 自分の思い通りに過ごせる時間や空間
- 遠くまで行けること
- タイミングを決められること
- 自分の感覚に正直でいられること
- 柔軟に考えられる
- 色々思いついたことを言いやすい
- 全て自分の責任
- 独立
- 自分で決めることが出来る
回答への分析
2つ目の質問への回答から、「柔軟、決められる、思い通り、正直でいられる…という権利の面と、責任の面があるんだな」と分類する人がいました。
またここでの回答の内容を「普段の社会の中でやりづらいから自由を求めてしまうんでしょうか?」と考える人がいて、「私は昔(他の場所では)できなくて、最近は享受していると感じる『自由』のかたちを書いたかも?と思いました」と回答し、「自分にとって、そうできないとすごく困ること」だと話す人もいました。
またここで、「最近は享受していると感じる」と書いてあったことについて「羨ましい」という声があり、それに対し「ずっとそうでいられるかはわかりませんが」と補足した上で、「そういうやり方を選ぶことでなくしている自由もたくさんあると思います。でも、私は我慢できないことがたくさんあるので、絶対我慢できないことだけは我慢しないでいられるといいな…とは思います」と返していました。
自由を求める?
また、参加者の回答をきっかけに「少なからず、私は個人的に自由を求めていた」という書き込みがあり、それに対し「自由を求めるってどういうことなのかなぁと気になりました…(自分の自由が広がるように行動すること?周りに働きかけること?環境整備?)」という質問がありました。
この質問に対し、元の発言者からは「私は臨機応変に動くことができない性格なので、自分を殺して生活することが多いんですが、自由という言葉に対してポジティブなイメージがあるんですよね」と返信がありました。
また、「自由を求めると聞くと、現状では足りない、と感じていそう」という仮説については、「現状では足りていないものを求めているのだと思います」という返事がありました。
他の参加者も「 私も○○○さんと同じく臨機応変に動くことが出来ない性格で、自分を殺して生活することが多いです」「臨機応変に動いたり、自分に自由になりたいなあと感じています」と書き込んでいました。
自由と制約
上記やり取りの中に出てきた「臨機応変」という言葉から「このオープンチャットのアイコンみたいに、いろんな絵があらかじめ用意されていたり『この中から選べる』みたいなことは、人の思考を助けている気がします。自由というよりむしろ制約の話だと思うのですが、選択肢が制限されることで決めやすくなることは多い気がします」と分析する書き込みがありました。また、自由を求める気持ちについては「でも選択肢が1個しかない!とか、選択肢の中に好きなのが1つもない!とかだと困る、みたいなことなのかなぁ」と考えていました。
これに対し、「最初から選択肢があるとありがたいのですが、自分で選択肢を考えるところから始まると、困っちゃうんですよね…」と書く人がいて、「たとえば、白紙に『なんでもいいから絵を描いて!』と言われるより『森の絵を描いて』とか『これを使って描いて』とか言われる方が楽です。逸脱したい時もあるけど…。自由と制約のチューニング?バランス?割合?みたいなのが大事なのかなぁ」と考える書き込みもありました。
これまでの話から、「自分の中にも、外(社会)にも制約はあって、その制約の中にいるか外にいるか自体、選べることも選べないこともあって、全部が自由になることもない(どんどん不自由になることはあるけど)し、全部自由だから幸せということもないんだろうなと思いました」と書く人もいました。
自分に自由・たましいの自由・自分の軸
「自分に自由になりたい」という言葉と、最初の質問の回答にあった「たましいの自由」について、別の人の書き込みではあるけれどそれぞれは似ているのか、考える人もいました。
この疑問に対し、「たましいの自由」が必要だと書いた人からは、「たとえ体が動かなかったり、行動を制限されていたりしても、たましい(私自身のコアみたいな?気分よりも抽象的な…うまく言えません)は誰にもなににも制限される必要はないなぁと思っている」という補足がありました。また「行動や表現以前の、私であること自体の責任を負いたい、みたいな感覚もあるかもしれない」と書いていました。
また、「自分に自由になりたい」と書いた人からは、「自分の心の声に正直になりたいなあという意味」と補足がありました。「ついつい心の声よりも頭で考えたことを優先してしまいがち」と書いていました。
「自分に自由」「たましいの自由」という言葉について、「自分の軸」ということなのか分析する人もいました。「確かに誰にも制限される必要はないですよね。社会に出ると、いつのまにか周りに揉まれて、自分の軸がわからなくなっていた気がします」と書いていました。
この言葉に、「軸はいろんなものに影響されていつもゆらゆらぶれぶれしています!でも、それと一緒にいることをやめないでいたいなぁ〜とも思います」という返信がありました。
環境に左右される自由
社会によって自分の軸がわからなくなることについて「自分を殺して生活、私も多少していると思いますが、性格というよりは環境の問題かなと思っていました」とした上で「でも環境のせいにしやすいのは、自分の性格とか考え方の癖でもあるのかなぁ…」と考えている人もいました。
「環境もすごく大きな問題ではないかな」という人や「環境によって物理的に制約されることも、精神的に制約を受けることもあると思います。でも、自分自身の性質や特徴なども、その『環境』のひとつと言えるのかもしれないなぁとは思ったりします。それで制約になることも、自由になることもありそうです」と捉える人もいました。
感じる自由と苦痛
「私は、行動を制限されたりすると、たましいも苦痛を感じる気がします。でも苦痛を感じられることは、感じる自由があるんだと、自分で思えます」という声がありました。
行動制限などでたましいも苦痛を感じる、という意見に対しては、「たしかに社会や他者によって、たましいが傷ついた!ってなることはよくあります。自分で自分を否定することは最近はあまりないので、とにかく自分のたましいを守ろう、大事にして修復しようとします。そういう意味では肯定と自由は少し近いのかなぁ」と考える人もいました。
また、「感じる自由」については「苦痛も感じる自由と思えるようになると、嫌なことも乗り越えられるのかな」「たしかに感じる自由もあるなあと感じました」と考える人もいました。
「痛いときに、痛くないふりをしなくていい自由」のことを考える人がいて、「痛くないふりは、自分に向けてと、周囲の人に向けて、があるのかなと思いました」と返す人がいました。ただし、「自分に向けてふりをしていたら、もはや痛みに気づけないので、『痛くない』」ということがあるとも書いていました。
「痛いと感じること」と「痛くないと思い込むこと」を比較する人もいました。
痛くないと思い込む(自分でも痛みに気づかなくなる)ことで、「自分に必要な手当をする機会とかを得る機会(自由?可能性?)を減らしてしまうこともある」けれど「逆に何かからひとまず逃げたり、がむしゃらに動いてどうにか乗り切る可能性?自由?の確率はあがるのかも」と書いていました。
自由と責任
「責任」という言葉から「私は自由と責任はセットだと思っているのですが、自由がなくなると責任もなくなって、責任がないと生きるモチベーションが湧かない気がしました」と書いている人がいました。
またこれを受けて、「私は『責任を果たして初めて自由がある』とは全く思わないですが、『自分で選んだからには引き受けなければいけないものはあるよね』とは思っている気がしました。それが引き受けきれるかはともかく…」「私も自由と責任はセットだと思っています」という書き込みも寄せられました。
ここで話している「責任」と、世間で一般的に言われる「責任」は違う気がすると書く人もいました。「世間一般の『責任』は、自由と切り離されて独り歩きしていることが多いというか」と書いていました。
「責任と自由は相関関係にはあるけれど、等価交換ではない」「一つ一つのやりとりですべてを完結させようとすればするほど、自由は失われるのかもしれない」という意見もありました。
どんなことでも自由になるか?
「自分の考え方の癖とか、環境でどんなことでも自由になる可能性があるんですかね」という疑問の声がありました。
この書き込みに対し、「私たちは肉体があるだけでもめちゃくちゃ多くの制約があると思うので(空は飛べないとか?)、すべて自由にはならない」けれど、その一方で「そうなる部分もある」と感じていると書く人がいました。
また、「私の場合、今よりめちゃくちゃ抑圧的で自由のない環境にいたときは、どんなことでも自分がやっているんだから自分の自由なんだという考え方(思い込み)で乗り切っていました。でもそれはあんまりオススメしません…!自分は自由だと思い込むことによって、自分の自由がない状態を受け入れようとせざるを得ないという…かなしいことです」と自らの経験を書く人もいました。
参加者の感想
いい雰囲気だったけど、会話に入れなくて終わってしまいました。参加の仕方というか、コツがあったら教えてほしいなと思いました。せっかく機会を頂けたのに、自分が残念な感じです。最初に3つの質問があり答えましたが、それからどうやってすればいいのか、分かりませんでした。自分は、本当に雑談下手だなぁと反省しています。 |
すべてのレベルですべてのことが自由ということはあり得ないし、もしそんなことがあれば、それはきっと苦痛だろうと思った。何もないのと同じことだと思う。私たちは制約に苦しむけれど、制約によって生かされているというのもまた事実だと感じた。他者がいることは制約でもあり、自由への可能性でもある。ただ闇雲に制約があることを肯定することはない。自分が制約を受けず自分で決めたいこと、選びたいことについて知るためには、自分のことや社会の状況などを知る必要があると思う。自分がなくしたくない自由はなんなのか。それもきっと人それぞれで、同じである必要はないし、同じであると思い込んではいけないと思った。そういえば、物語を読んでいる時、歌っている時は昔から自由を感じていたと、話していて思い出した。 |
私の中では自由=現状では足りない制限のないものだと思ってましたが、自由には責任もセットでついてくるという話から、確かにそうだなと思いました。そうなると、自分が思っていた自由とは違ってきて、いろんな考え方が知れておもしろかったです。自分の考え方次第で、どんなことでも自由になり得るんだなと思います。 |
自由と責任は、対照的でもあり、同じようなものでもあるなと思いました。自由と幸せは、イコールではないのだろうなと思いました。自由があれば幸せはなくていいとか、幸せがあれば自由はなくていいとか、どっちもあったほうがいいとか、どっちも要らないとか、色々な考え方のバリエーションはあるのかなと思いました。でも、どれが正解というわけでもないと思います。「どんなことでも自分がやっているんだから自分の自由なんだという考え方(思い込み)によって、自分の自由がない状態を受け入れようとせざるを得ない」というジレンマは、たしかにそうしなければ生きられない場合が現実にはあるのだろうけれど、できればあってほしくないと思います。苦痛を感じる自由も、たしかにあるし、尊重したいと思う一方で、苦痛は避けられるものなら避ける道を選べるといいのになぁと思いました。 |