視線恐怖症って

10代

 最初は気づかなかった。何かがおかしいことに。ゆっくり進行していたんだと思う。だから、一生懸命過ごしていても、楽しい時はなかった。上手くいくことがなかった。

 中学校時代から、なにかが違った。友達に上手く話しかけられなかった。ボーっと突っ立ってることが多くなっていた。心が弱くなっていた。何もかも分からず、頭が冴えない。
 ある時、悪魔がこう言った気がした。「お前が上手くいく日はもう来ないだろう」って。焦った。

 そう、今思えば視線が怖かったんだ。理由は分からない。新しい環境に適応出来なかったのか、あるシチュエーションに一種の怖さを感じてから抜けだけなくなったからなのか…。色々なものが重なり合った結果なんだろう…。

 高校時代は、その「視線恐怖症」が明確に表れていった。いや、気づいていったと言った方がいいか。授業内容は全然頭に入ってこなかった。困った(笑)。常に感情がなくて、見えてる世界が普通のものと違うのか、生きてる感じがしない。

 今の状況に絶望。この精神、「視線恐怖症」が治らない状態では、この先の未来、何もかも生きづらくなるのは明白だった。自分自身、他の人と関わっていくことに楽しさを感じる性質寄りだったこともあり、「楽しくないなら、死ぬべきだな」と、何もかも出来なくて、生きがいを失った。果たして自身の直観は当たり、地獄のような日々だった。しかしながら、死のうと思っても、死ねるイメージが湧かない。
 結局出した答えは「もう今でさえ死んでるような苦しみなのに、これ以上傷つく必要はない」という優しいというか、とにかく感情が上にも下にもいかない訳だから、苦しいにも関わらず、ネガティブな思考には、今感情が落ちてこれ以上なにもできない訳にはいかない思いと、治った時の為を想ってネガティブの後遺症を防ぐ為にも、至らず。その代わり、死ねる妄想はしている。それは救いだろうから。

 じゃあ、振り返りはちょうどこのくらいがいいかな~と思ったが、目安が3000字ということなので、無理はしない程度に、この機会を利用してもう少し書こう!(笑)

 まずは、視線恐怖症について分かったことを書く。この症状について罹っている人は、これまでの自分の知識から言うと、一定数いると考えられる。って言っても、実際お会いしたことはない。だが、どこかにいるのは、通っている精神科の先生のおっしゃっていることと、ネット・書籍から見れば分かる。もう一度言うが実際会ったことはない(なんで?)。だが自分の意見を言うと、悩みあるいは悩みの深刻度の認知についてはまだ低いと思う(本当に苦しいが、同じ悩みをもっていて共感しあえる人がいないので)。
 まず、視線恐怖症には種類がある。1.他者視線恐怖症 2.自己視線恐怖症 3.脇見恐怖症 4.正視恐怖症 の4つだった気がする…。自分は、2の傾向が強い、と思う。なぜなら視界に他人がいれば集中しにくいから。でもなんだかんだ、全て網羅という悪化状態の可能性も秘めている。
 原因を「なんで?→なんで?→……」形式で探っていくのがいいとネットには書いてあった。思い当たることがあるとするならば、自分1人だけ前を向いていて、こっちを向いている人と目が合うことを恐れているのかなぁ、と。だから「別に怖くないよ、いいんだよ」と言い聞かせたりしている。効果はあるような、ないような。結局一朝一夕で治るものではないということか。
 先生によると、「皆、気づいたら治ってたって言ってたよ」と。ネットの人によると、「避けていては治らない」とか「治そうとしないこと」とか…。う~ん。結局自分自身を信じるしかないわけで。出来ないこととか、自分には無理があることって、避けてもいいと思うことにした。これまで、「もし自分が出来る人だったらこうするよな」って思って行動してきたこともあった。でも無意味だった。それどころか、空回っていた気がする。先生は「自分のやりたいことをやっていこう」とも助言頂いた。確かに避け続けるのは、治る機会とかを分からなくさせるかもしれないけれど、人は、悩み続けているし、いつだって切り抜けようと努力している。なので自然体に行動していくことが、1番の今の解決策かな、と。なので自分はいつも「無理しない、無理しない」と、それを1番に行動している。

 ここで、治る希望についても話しておこう。
 視線恐怖症は、治ること、または死ぬ妄想、が生きる希望になる。あとは、話をきいてもらうこと(治らないと意味ないって思ってしまうが)。ここでは、治ることを想像することについて話す。他の人のために生きたいというのは多くの人が望むものだと思う。自分も、そうだ。でも、出来なくなっていた。例えば、視線が刺さってくる人に対しては対話の返答を「うん」とか簡単なものしか相槌出来なかった。絶望だった。なんでだろうと、原因を探した。自信がないから?話しているという感覚さえなかった。本当は何も喋らないのが自然のような、そんな気分だが、とりあえず相槌だけで精一杯だった。
 寝起きにも影響があるのか知らないが、中学生以降、朝、すっきり目覚めることはなかった。考え事が止まらない日もあった。わけが分からなくて、地獄みたいだった(笑)。でも、気づく人はいないよね。頭の中の出来事だから。あとは、なにもかもに集中できなくなった。好きだったゲームも飽きっぽくなった。何も出来なくなって楽しくなくなったわけだけど、それでも治った時の為に、勉強とか趣味を続けている。上達は、時間をかけないと上手くいかない。脳が疲れている時は、文章を読むのに、何回も読まないと頭に入ってこないことがある。楽しく会話出来ないし…。それに、どうしてか分からないんだけど、人の悪口が浮かんでくる。言いたくない人に限って。それが嫌。例えば、何かのしょうがいをもっている人に対しては、上手く対応できる力をもっていないからか、嫌な顔になっていると思う(ひきつった顔)。気持ちを上手くコントロール出来ないからか、嫉妬の気持ちが芽生えるのが多い(どうして!?)。今なんとかいる友達も去ってしまうようで、辛い。電車内での視線もあり、席を取るのも嫌だ。最低な人として生きていくんだって、気持ちを楽にさせている。本当に今何のために生きればいいのか…。なにも出来ないのがただただ辛いのだ。どうしよう…。声も出ないし…。こんなことになるなんて、思ってもみなかったなぁ。生きたくないな。涙も出ない。感情がないからかな。
 家族は、普通。昼まで寝ていたら、「バイト行ったら」って怒られちゃうし…(笑)自分が出来るやつだったら、怒られなかったのかな…。いい体験だよ、本当に。「もっと話せ!」とか、辛い言葉だ…(涙)。

 先生はこう言った。「1つ言えるのは、絶対治ることです!」自分は、その機会を伺うケモノになるよ。だから…………―――――

 ある日の夢のようなもの。「ん?どうしたんだろう。今日はなんだか他人の視線が気にならない?あれ、なんだか視界が広いぞ。これは、今日は比較的調子がいい日では!?久しぶりだ。こんな夢、今度はいつまでもつかな。」
 こんな日もあったり。だから、生きていくよ、死んでも道を外れても最低でも。誰かの為に生きたいから。視線恐怖症のサイトでも開設しよーかな…。なんて。よかったらやり方教えてください。辛い毎日に添えて…(笑)

3000字、突破したぜ!

感想1

あなたの経験談を読んで、初めて視線恐怖症にというものを知りました。
視線恐怖症の人が抱えている恐怖心や不安感、見えている世界が書かれていて、とても興味深いことだらけでした。またそれと同時に私自身のことも思い浮かべました。私も人と対面で関わるのが苦手です。だからなんとなくですが、あなたと状況や心情を共有したいぁと勝手に思いました。私が苦手な理由としては、その場の空気や相手の表情が気になりすぎてしまうことかなと実感しています。あなたが書かれていたように私も自信のなさであったり、誰かが自分に何かを求められていることを察知すると、それに対し対応できないぞ…と思ったときに、何も言葉が出てこなくなったりするなぁと思いました。その時は、表面的に笑ってごまかしたり、なんとなく分かったふりしているなぁと思います。そして、あなたの言うように、そんなことを気にしないで話せる人もいて、ほんと不思議だなぁと私自身も思っています。あとあまり大きな声で言えないですが、気心知れない集団も苦手です(笑)でもそういう場面は結構多いなぁと思って苦慮しています(笑)そんな私だからこそ、誰かに意見を言うのが苦手で…言えないから、自分がないとか流されやすいなぁと思っていたのですが、最近になり、ただ対面が怖いだけだと気づきました。だからこそ私が、思いや考えを伝えるときは、こうやって、文章で表現することを中心にやっているかと思います。長々と書いてしまったのですが、(まだ話したりないのですが…)またあなたと気持ちを共有できる機会があったら、いいなぁと思いました。

感想2

経験談を読ませていただきました。
前半では、過去を振り返りながら、分析的に書かれているように思いました。また少し構えているような、恐る恐る書いているような印象も受けました。終盤では、浮かんだことをそのまま表現してくれているような文体で、文章の始めと終わりで心情に変化があったのかなと感じました(想像なので、違うかもしれません…)。

中学生頃は、視線への恐怖に加えて、なにかがおかしいけど、なにがおかしいのか分からないということへの恐怖も合わさっていたのかなと想像しました。「一生懸命過ごしていても、楽しい時はなかった。」とあり、生きている時間の全体が苦難や試練のように感じられたのだろうかと思いました。

他の人と関わることが、楽しさから恐怖に変わってしまい、元のように楽しさを感じられそうにはない(視線恐怖がなくなりそうにない)ということが、絶望の原因だったのだなと解釈しました。また、あなたの視線恐怖症の状況について、理解してくれそうな人もいなかったのだろうと思いました。

そして、地獄のような苦しい日々の中で、あなたは自らの苦しみを、思考によって補うことで、(死んだように)生きている状態を保持してこられたのだろうと考えました。

視線恐怖症について、情報を集めて学んでこられたことも分かりました。同じ症状を持つ人に会ったことがない、と書かれていて、視線恐怖症を他人に知られないように隠している当事者が多いのだろうかと考えました。あなたなりに視線恐怖症と向き合ってたどり着かれたのが、「自然体で行動すること」だと聞いて、妙に納得させられるとともに、自然体でいるのって意外と(誰にとっても)難しいことなのかな、とも思いました。自分には無理そうなことも、努力や演じることで「できる」ようにしようとする癖がついている(?)としたら、それはちょっと「自然体」ではなさそうなので、あなたが「無理しない、無理しない」と自分に言い聞かせているのは、たしかに「自然体」に近くなる一つの方法なのだなと思いました。

視線の刺さる人に、精一杯相槌を返していたエピソードからは、相手のためにあなたができそうなことを、限界を超えてまでやっていたのだろうと思いました。その場面に限らず、人のために生きたいという理想が強いのかな、とも感じました。あなたはあなたとして自然体でいることで、他の人も「自分も自然体で生きていていいんだ」と感じられることがあるかもしれないので、それも一つの「人のため」になるのではないかと私は考えています。

最近の状況も書いてくれていて、家の人に怒られて辛い思いをしている様子が伝わってきます。感情がない、というわけではなさそうですが、感情を素直に表現することは色々な面で難しく、自分の感情を実感しづらい状況にいるのかもしれないなと考えました。

声を出して会話することが難しくても、メールやチャットや手紙などであれば、人と関わり合うことはできるのかなと思ったのですが、どうでしょうか…?他にも、こんなものがあったら、人との関わりを楽しめるハードルが下がるかもしれない、というものなどあれば、教えていただきたいです。