北海道・20歳
田舎生まれなので保育園で仲間外れになったそのメンツのまま微妙な関係を保ちつつ中学まで過ごした。あの12年間が、出来事の記憶こそは朧げながら私の根底をないものにしている気がする。12年間私はずっと気を張って、馬鹿にされないように頑張っていた。それだけが人生の全てだったが、そのコミュニティを離れた途端、何もかも失われて残っていたのは人間不信と疲労感だった。中学卒業時点でやりたいことがなく、ぼんやりと楽な方に流れ流れて行って落ちて行っているようだった。そのことに気づいたのは中学を出て、高校、短大を卒業して完全に学校から離れてから 異常な緊張感だったなとよく昔を振り返っているし、学生時代を無駄にしてしまったなと残念に思っている。
高校2年頃から、自殺願望が現れ始めてそれがずっとなくならない。12年の抑圧から解放されたものの今度は何をしたらいいかわからなくなった。あの頃は抑圧と戦うことが生きることだったと今は思う。でもそれだけでは人格を形作ることができなかったらしい。人間不信になってしまい誰も頼れない。いつのまにか醸成されたメタ視点からすれば誰かを頼る人間は煙たがられると思ってしまいそれは人間関係を作る上で最適解ではない。人間関係においては、いつも最高に好かれるであろう最適解の返事をするようにいつしかなっていた。でもそんなことをしていても周りから話し下手と見られ、愕然とした。もう疲れた。いつも笑われてしまうし、誰のことも理解できないし、私のことは理解されないと思う。
今は何もやりたいことがない。人間関係、肉体を維持する金の確保、そういった事につきまとう苦しみは今の楽しみの量にあまりにも見合わなさすぎる。周りの人間はそういったことをこなして、できるのが当たり前でできなければ努力してどうにかすべきだが、私は努力もしたくない。死んで、逃げたい。醜いと思う。せめて、気を張っていた学生時代の分を休ませてほしい。20年だけだがもうキャパオーバーしているように思う。私のキャパが少ないし甘えだと思う。本当に私は醜い。ずるいと思う。私より苦労して努力とかでどうにかしている人も多いぽいのに私はもう逃げたく思っている。当然許されまいと思う。悪いこともしたし罰なのかもしれない。
今は就職したけど日に日に死にたくなってきている。多分やりたいことがないからだと思う。詳しいことは私もよくわからないが苦しさだけある。でも仕事についてしまって休めないから仕方なく全部まぼろしだと思って、苦しみもまぼろしだと思って体だけはとりあえず動かして日銭を稼いでいる。働いているのは私ではない別な誰かのように思える。だんだん現実がわからなくなってきた。記憶が簡単に飛ぶ。狂いたくない というか本当は誰かに助けて欲しい。でもそれを求めるのは死ぬより怖い。だから死んでしまいたい。
感想1
経験談を投稿いただき、ありがとうございます。
中学までの12年間、ずっと気を張って生きてこられたとありました。田舎という狭いコミュニティの中では一度固定化されてしまったイメージはなかなか変わらないのかもしれないなと考えます。そういった状況で生活していくのは息苦しさがありそうだし、気疲れしそうだなとも思いました。その時の負担感が尾を引いている感覚があるのかなと考えました。
「誰かを頼る人間は煙たがられると思ってしまい」という言葉が個人的に気になって、そう感じるに至った経緯はどういったものなのだろうと詳しく聞いてみたくなりました。もしかしたら、自分のことを発信して馬鹿にされたらと想像すると、誰かを頼ることは得策ではないという結論に行きつくのだろうか、などと考えてしまいました(勝手な推察ですので、違っていたらごめんなさい)。
また、中学の時も今もやりたいことがないとありました。やりたいことがあれば、生きるための苦しさを乗り越える力になったりするようなイメージがあるのかなと感じました。さらに、努力せずに逃げるのは許されないといったような内容もありました。
個人的にはやりたいことがなければだめなわけでも、努力をしなければならないわけでもないと思っています。人によってキャパシティは異なっていて、できる範囲は変わりそうだから、全員画一的な基準の中に落とし込められてもしんどくなりそうだなと感じています。
そして、私自身も生きるための苦しさと楽しみを天秤にかけてしまうとコスパが悪すぎて憂鬱な気分になることがあるので、文章を読んで勝手ながら共感していました。
最後のほうに、「本当は誰かに助けて欲しい。でもそれを求めるのは死ぬより怖い」とありました。でも、今回は経験談としてご自身の経験や状況を発信していただく一つの機会になったのかなと感じます。もしよかったら、できる範囲でまたお話を聞かせてもらえたらなと思いました。
感想2
貴重な経験談を送っていただき、ありがとうございます。
「あの12年間」のことを読み始め、コミュニティって、在り方によっては、とても怖いものなのか…?と感じました。
「完全に学校を離れてから気づいた」ということでしたが、小学校~短大までの「学校」にいるのといないのでは、ものの見え方がかなり大きく変わったのだろうか?と気になり、その時の変化についてもう少し知りたくなりました。
また、「緊張感」は周りから見えづらく、「自分は緊張しています」と表現する方法もあまりないように思います。そのため、自分と他人との「緊張度合い」を比較しようにもできず、異常に緊張していたことに当時は気づかなかったのかもしれないなぁと考えていました。
「12年の抑圧から解放されたものの今度は何をしたらいいかわからなくなった」という文章には、大きく頷いてしまいました。そうなるのも自然な流れだろうと思ったからです。
私は、あなたが感じたこと・思ったことを、些細なことでも、もっと聞いてみたいと思います。抑圧を受けていると、感情や感覚よりも先に思考がハイパワー稼働して、思考が感情や感覚までも統制しようとしてしまうことがあるのではないか、と考えています。実際には、感情も感覚もあるけれど、表面上はなかったことにされてしまう、というイメージです。私は、あなたの感情や感覚をなかったことにはせず、「あった」と認めたい、と思ったのです。
「周りの人間はそういったことをこなして、できるのが当たり前でできなければ努力してどうにかすべきだ」と書いてくれていましたが、私は「本当にそうかな?」と思ってしまいました。同時に、他人を頼れないと感じているあなたが、「自分でどうにかするしかない」といった考えを持つのも、自然な流れだと理解しています。
私には、多くの人たちが当たり前に、日々の生活や人間関係をこなしているとは思えないのです。このサイトなどで色々な人のお話を聞いて、多くの人たちが、日々の生活や人間関係に躓き、生きることに疲れ、行き詰っているのではないかと思います。(私自身もそういった行き詰まりを感じることがあります。)
そんな人たちが支え合うのは、それほど簡単ではないのかもしれませんが、私は死にトリで少しでも支え合う経験ができたらと思っていますし、これからもあなたの力を貸してもらえればと思いました。(なんだか上から目線な言い方になっていたらごめんなさい…。)
努力することが美しく、努力しないことが醜い、というふうには、私は思わなかったです。(あなたの感性を否定しているわけではありません。感じ方を教えてくれてありがとうございます。)
人は努力するために生まれたわけではないし、何かのために、という目的を持って生きなければならないわけでもないと思うのです。一方で、何か目的になるようなものがなければ、「何のために生きているのかなぁ」といった虚無感のようなものが大きくなり、動くのが辛くなる側面もありそうなので、難しいなと感じます。
また機会があれば、一緒に悩んだり、感じたこと、思ったこと、考えたことを交流したりできたらなと思いました。