今を生きるための祈り


 私が最初に死にたいと思ったときのことはよく覚えていませんが、恐らくは中学校に入ってからで、高校生になってからはそれがより強くなりました。私が生まれ育った環境が特別悪かったわけではありません。両親は仕事で忙しい中私の世話を焼いてくれましたし、また兄も兄なりに気を遣ってくれました。時々家族の言葉や兄の悪戯のようなものにその時の感情のこともあってストレスを感じることがありますが。

 小学生、中学生の頃のことはあまり記憶がありません。ただ、ありとあらゆる失敗を犯した場であり、思い出したくもないことばかりなのは覚えています。自分が嫌いになったきっかけで、今の私という人格を生み出したきっかけとなった場所です。(そのきっかけは今思い出すだけでも皮膚をかきむしり、叫びだしたくなるほどに嫌な思い出なのでどうしても話すことができません。ごめんなさい)

 中学生の頃から常に苦痛を身体の内側に抱えていました。中学の頃の私は謂わば「勉強がその集団の中ではできる」側の人間で勉学に悩んだことはありませんでしたが、私は卑屈な性格をしていて初対面の人とは話せず、他人と自分と比較し、大多数ができることがどうしてできないのだろうと悩み自己嫌悪によく陥っていました。恐らく他人にとっては「その程度」と流してしまう失敗を何度も掘り返して強く自分を責めてしまうほどには私は「失敗」や「みんなの当たり前ができない」ことに強い劣等感と、自己嫌悪に陥ってました。また当時の何人かの先生が苦手で、私の友人と呼べる人が保健室登校となったことで話すことが少なくなり、他の人とは話が合わず常に私には興味のない話の聞き手となり、私は心の底から楽しい、嬉しいと思ったことがありません。幾度の「失敗」によるクラスメートの冷たい視線、責めるような視線、先生からの叱責、無責任な発言で傷つけてしまった相手の「傷ついた」表情は私から自信を失わせ、私は二度とその失敗を起こさないように細心の注意を払うようになりました。

 一度、ある出来事から先生に私が死にたいと思っていることが知られました。その出来事はベクトルは違えど、最終的に思っていることは一緒だったクラスメートに相談され、いろいろなことを話した事でした。その人が先生に言ったのだと知って「どうして」と裏切られたような気がしました。私は死にたいと思うことは良くないこと、知られてはいけないことだと思っていた節があるため、絶対に先生に打ち明けるということをしませんでした。それはその子も同じだと思っていたのでこの人と私とでは全然違っていたということにそのとき初めて気付きました。先生から「どうして死にたいの」と聞かれ、私は咄嗟に嘘を吐きました。この人には私の苦痛を理解してくれない、言ったとして押しつけがましい助言を言われるだけだと確信めいたものがあったからです。(これは完全な自論なのですが、同じ「闇」を抱えたことのある人でなければ、その人の「闇」を真に理解、共感することはできず、それなくしてその人を救おうとした言葉をかけたなら、それはただの自分勝手で相手を傷つけてしまうと思っています。それ故に私は冗談のように死にたいと言うことはあっても自分の本当の苦痛を打ち明けることが誰にもできませんでした)死にたいと思っていることを知られたあの日以降、担任だった先生は定期的な相談の度に「死にたい」の強さを聞くようになり、私は嘘を交えながらこの話題がすぐに終われと歯を噛み締めていました。

 高校に入り、苦痛はより一層強さを増して私を蝕むようになりました。環境の変化で心身ともに委縮し友達が作れず、中学よりも難しくなった授業についていくこともできず、自分の孤独、無知、無能さに改めて打ちひしがれました。生きる気力が削られ、身体を動かすことさえ苦痛になり、予習や課題には全く手をつけることができませんでした。それで先生から怒られるようになり、無理矢理にでも勉強に手をつけようとしましたが、課題の内容は全く理解できず、どこからどうすればいいのかも分からないまま、結局仕上げることができませんでした。そして、中学までは全くと言っていいほど休まなかったのに、高校では休むことが目に見えて多くなりました。未来に希望が持てず、自分が消えてもどうでもいい存在なのだから早く死にたいと思うようになりました。現実逃避でその場限りの癒しを求めるようになり、自分を守るためにくだらない、しかし自分にとっては大切な嘘を吐くようになりました。死にたい消えたいが口癖になり、学校生活でもふと漏れてしまうことがあり、今は道化のようにけらけらと笑い他愛もないことを言って誤魔化すか、直前で無理矢理口を止めて自分が死にたいと思っていると悟られないように誤魔化すようになりました。毎日今日は何も起きませんようにと祈ってばかりいました。

 どうして私は他の人ができることができないのだろう、どうして私は人を傷つけてしまったのだろう、どうして私は生きているのだろう、私の生きる意味とは何だろう、なんて私は無価値なのだろう、今私が座っている命の椅子に別の人が座っていた方がいいのに…そう思っていたある日、私は自分の惨めさに堪えられず、とうとう自分の身体を傷つけました。カッターで服で隠れるところに、小さくぷっくりと血の球ができるくらいの浅さで切り、痛みを感じました。(初めは深く切ろうとしたのですが私は痛みに弱く、それ以上切ることができませんでした)私はリスカなんてただ痛いだけだと馬鹿にしていた人間でしたが、やってみると得体の知れない安堵と、いっそ心地良さすら感じる痛みと、生きていることへのふっ、と笑えるような絶望を感じ、どうしようもなく辛くなった時は浅い傷を作るようになりました。

 そうして何度も傷をつけ、死んでいないことに嘆いていると、どうして自分には身体があるのだろうと思うようになりました。心ではあれだけ死にたい消えたいと叫んでいるのに身体は死にたくない生きたいと言っている。こんな身体さえなければ私はもっと早くこの世界から解放されたのではないのか、こんな身体がなければ私は今よりもうんと自由になれたのではないかと、自分の身体すらも自らを苦しめる枷だと思うようになりました。そして今では「今すぐこの身が腐り落ちてしまえばいいのに」「水に溶けて海と一つになれたらいいのに」という思考で埋め尽くされるようになりました。

 たぶん私の考え方は世間一般的にはあまり良くないのだろうなと思います。或いはもっと視野を広げてものを見るべきなのでしょう。それでも私は私の考え方で自分を守る事しかできませんでした。どれだけ変わろうとしていても自分の考え方が根底に根付いてしまい(もしかしたら本当に変わろうとしていなかったのかもしれません)、何を聞いても考えを一新することも、ほんの少しでさえ変えることができなくなり、私は自分の変化を諦めるようになりました。

 今でも苦痛は私の身の内にあります。そして、それは一度も私の傍から離れたことはなく、これからも離れることはないと確信すらしています。きっと私は碌な死に方をしません。その時まで私は苦痛を飼い続けるでしょう。そして、私が楽に生きるためにはその苦痛を愛するだけだと思います。私の考え方は根強く脳に浸透し、改めることも切り替えることも難しくなっています。(どちらにしても私にとっては現実的ではなく、私が受動的になって諦めている以上変わりようはありませんが)今は私が苦痛を愛せますように、少しでも楽になれますようにと祈ることで気持ちを楽にし、生きています。

感想1

経験談を送っていただきありがとうございます。
まず、人が傷ついたことを想像できる力のある人なのだと思いました。
中学の先生の質問は、何の役にも立たないし、あなたを精神的に追い詰めるものとしか思えません。

また、あなたは自分について色々考えているのだと分かりました。一方、他者の存在があまり出てこなかったので、人間への不信感みたいなものから、人との関わりを持たないようにしていたのかなぁと考えました。不信感のようなものはあなたが好んで獲得したものではなく、理解者がいない学校の環境から植え付けられたものだろうと思ったので、学校での集団から排除されているように感じました。
みんなと同じことができないだけで排除されるのは理不尽です。全員が同じことを同じようにできるはずがないと思います。できないことがあるのは悪いことではなく、自然なことです。それを認めない学校は、生徒たちの人への信頼感を育てることに失敗しているのではないかと考えました。

それから、身体の内側の感覚が鋭いのかもしれないと思いました。排除の空気に晒されてきたことによって、外界から自分の精神を守るために、身体の内側で危険を知らせる苦痛センサーを鋭くしたのかもしれないなと。
以前、「自分のことは自分で変えるのではなく人に変えてもらうもの」という言葉を聞いたことがあります。私は、それに全面的に納得はしないのですが、たしかに他者から多様な考え方・感じ方を聞くことの影響力は大きいなと思っています。

今のあなたにとっては、苦痛を愛することが唯一の残された手段なのだろうと理解しています。苦痛を愛することでしか生きられない時間がある、というのは真実なのだと思います。
私は、そんな生の時間があることが、たくさんの人に理解され、他の生き様と同等に尊いものとして認められる社会になってほしいです。

感想2

感じていることを言葉にして教えてくださって、ありがとうございます。
「今すぐこの身が腐り落ちてしまえばいいのに」「水に溶けて海と一つになれたらいいのに」と書いてあったので、その情景を想像してみました。
なんだか肌が冷えていくような恐ろしさがあり、しかも、とてもきれいでした。そしてすこし悲しいような、うれしいような気持ちになりました。
それを「よくない」と言って見ないふりするのなら、その「一般的」というものはなにかとてももったいないことをしているように、私には感じられました。
私はこの言葉を読むことができてよかったと感じています。それは、あなたが感じていることにほんの少しだけ触れることができたように思えたからです。

タイトルにもある「祈り」の感覚は、(まったく同じではないかもしれませんが)私にも少しわかるような気がして考えてみました。
自分ではどうにもならないようなことが、この世の中にはたくさんあって、それでもなにかを願うとき、私たちには祈ることしかできないのかもしれません。
「今日は何も起きませんように」「少しでも楽になれますように」と祈ることは、はるか昔からいままで生きてきた多くの人々がしてきたことなのだろうと思います。
長らく死にたいと思いながら生きている私自身も、神でも仏でもなく、なにかわからないものに向かってずっと祈ってきたのだと思いました。

あなたは苦痛を抱えて生きていて、「こんな身体がなければ」と思うことがあると書いてありました。
(同意ばかりもなんだか変だと思うのですが)私もあまりに苦しくて身体を捨てたいと思うことがよくあります。
私はそれでも、たとえばたまに日向ぼっこをしていたらぽかぽかあたたかかくて気持ちよくて、様々な苦痛が溶け落ちていくように感じられることがあって、その心地よさのために生きていたいと思っているような気がします。
その心地よさを感じられるのは、この身体があるからだと思うからです。
あなたが同じように思う必要はまったくないですし、あなたに否定されるべきことはなにもないと思いますが、私はひとつだけ祈っています。
あなたがゆっくりと呼吸できて、ゆっくり穏やかな感覚で過ごせる時間が、この世界にもっと増えますように。
もしよければ、またあなたの感じたことを教えてほしいです。そして、またそこからいろいろなことを一緒に考えてみたいと思いました。